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ヴィンセントと夢主は『5分以上キスしないと出られない部屋』に入ってしまいました。
180分以内に実行してください。




勢いよく腰を折る。遠い昔、日本で過ごした新入社員時代に教え込まれた礼儀作法を必死に脳内で反芻しながら行動に移されるそれに、目の前に立っているヴィンセントの気配が動揺で僅かに揺らめいたのを感じた。

「おい、いきなりどうした」

ヴィンセントの低くて落ち着きのある声がいつもと違い、戸惑いを含ませている。
彼を戸惑わせているのは紛れもなくname自身の行動のせい。
そしてそんなnameをこのような行動に移させているのは、手元に握りしめた紙のせい。

「ごめんなさい」

頭を下げたまま、くしゃくしゃに握りつぶしていた紙を広げてヴィンセントに差し出す。
白い紙に書かれた短い文字。
たったそれだけのものなのに、nameの感情を激しく揺さぶるのだ。



理由も手段もわからずに閉じ込められた白い部屋。
此処からの脱出方法は、現在ヴィンセントに差し出されている紙に書かれている行為。

『五分以上キスをしないと出られない』

その文字面を思い出しただけで心の底から溢れんばかりの罪悪感が湧いてきて、nameは堅く目を瞑った。
ヴィンセントから言葉は無い。元々呼吸や息遣いの小さなひとなのだが、この無音と静寂に包まれた部屋で、かつすぐ目の前にいるというのになんの音も発しないところを感じ取るに、これはきっと。

拒絶、されてる。

嫌がられて当然だ。気持ち悪がられて当然だ。
ただでさえわけのわからないまま閉じ込められているというのに、唯一の脱出方法らしきものがこんなことだなんて。
キス、接吻、マウストゥマウス。言い方は数多くあれど、自分の唇と相手の唇とを触れあわせる行為。
親愛を現わす行為でもあれば深い愛情を示す行為でもある。多くは恋愛感情を伴って行なわれることのほうが多いだろう。
nameとヴィンセントはクラウド率いるパーティーのメンバーであり、仲間だ。
クラウド達と出会うよりもずっと昔にヴィンセントとは時間を共にしたことがあるため、さながら旧友ともいったところだろうか。

そう、旧友。友だ。
彼の生きる道を時に傍から、時に陰から見守ってきた。ゆえに、クラウド達が知らないヴィンセントの過去も知っている。
そのひとつが、彼の恋愛事情。
過去、彼はひとりの女性に想いを寄せていた。いや、きっと今も心の中で深い愛を抱いているはず。
朗らかで、聡明で、優しく美しい女性。恋愛事にほとほと疎いnameでさえ、ヴィンセントが彼女を見る目は愛情を伴っているように映った。
それとなくそのことを彼に指摘すると、決まってヴィンセントはそんなことはないと言い首を横に振ったのだが、それは照れ隠しであることをnameは察していた。

ヴィンセントは、今でも彼女のことを好いている。大切に想っている。
心に決めた女性がいるというのに、意味のわからない部屋から出るための方法がこんな女とキスをすることだなんて、本当に、馬鹿げている。
無言のヴィンセントの気持ちが痛い程伝わってくる。誰だって嫌だろう。自分がヴィンセントならば嫌悪を露わにしたはずだ。
何一つ自分は悪くないはずなのにただただ申し訳なくて、nameはずっと頭を下げたままヴィンセントの反応を待ち続けた。

「nameが頭を下げる必要はない。顔を上げてくれ」

優しく肩を叩かれ、促される。
けれどすぐに行動に移せないのは、拒絶を含ませるであろう彼の姿を見るのが少しばかり恐ろしいから。
長年油を注し忘れ続けたブリキ人形のようにぎこちない動きで上体を起こす。
けれど視界はヴィンセントの足下を捉えたまま。彼の顔など見れるはずもない。

「私を見ろ、name」

一歩、こちらへ踏み出してきたヴィンセントがnameの腕を掴む。
彼にしては珍しく強引な挙動に一瞬驚きはすれど、こうなる一端は紙にかかれた行為のせいなのだと勝手に結論づける。
喜怒哀楽、その感情全てが希薄な彼がこんなにも感じ取れるほどに怒りに似たものを含ませるのは、きっと。

そろりと顔を上げ、窺うようにヴィンセントと視線を合わせる。
ヴィンセントの紅衣は口元を覆っているため、見上げる形では彼の表情を窺い知れない。
ただ、静かな紅色の両目がnameをじぃ、と見つめており、その気まずさにnameはまた視線を伏せそうになった。
が、握られた腕に力が込められ、視線を逸らすことなど許さない、とでも言われているかのようだった。

「何故謝る」

静かな問いかけだが、なんだか叱られている気分だ。
ヴィンセントが求めている回答は、この紙に書かれている行為を実行に移すことに対してのnameの謝罪の真意。
言葉にしてもよいものかと戸惑いはすれど、ヴィンセントの静かな圧が真っ向から向けられて逃げに転じることなど出来るはずも無い。

「申し訳ないと思ったから」
「何故」
「ヴィンセントはルクレツィアさんのことが、その、好きでしょう?だからこんなこと、申し訳ないって、嫌だろうなって、そう思った」

ヴィンセントが想いを寄せる女性、ルクレツィア。その名を音にするとヴィンセントの目元がほんの少しだけ鋭くなった。
反応している、彼女の名に。やはりヴィンセントの中では遠い過去であれど、ルクレツィアは特別で、今でも尚大切な女性なのだろう。
長く、小さなため息を吐きながらヴィンセントがnameの腕を放した。
何やら呆れを含ませているようなその息の吐き方にnameは自分の回答が何かおかしかったのかと詮索する。
けれど引っ掛かりを覚えるところは何もない。だって、きっと本当のことだから。

「まだそんなことを言っているのか」
「え、なに、何か変なこと言ったかな」
「何度も訂正したはずだ。私がルクレツィアに抱く感情はおまえが思っているようなものではないと」

確かに何度も言われた記憶がある。
ヴィンセントがルクレツィアに向ける想いは恋愛感情を伴ったそれなのだと信じて疑わず、今もそう思っている。
が、それを指摘する度に先程言われたような訂正をその都度受けてきた。
ヴィンセントは言い張るのだ。ルクレツィアに向ける感情は女性を愛するものとは違うのだと。
けれどこうして未だにその言葉をヴィンセントなりの照れ隠しだと思い込んでいるnameには何の意味も伴わない言葉でもあるわけで。
nameの視線は申し訳なさにまた下がり続けるのであった。

「おまえこそどうなんだ」
「ん、え?」
「この部屋から出るにはその紙に書かれたことをしなければならないのだろう。私とキスができるのか」

ヴィンセントとキスをする。
言葉にするのも想像するのもとても簡単なことだ。そしてそれを実行することも。
けれど立ちはだかる壁は高く、それでいて厚い。
口づけ、というたったひとつの動作は決してひとりでは成り立たず、そして独り善がりで成せるものではないのだ。
人間の感情、立場、関係。
自身と相手との相互理解を深め、そしてそうするに足る関係であってこそ成り立つ行為。
なんて、建前をいくつ挙げても求められている答えはたったひとつだ。

ヴィンセントとそれができるかできないか。

name自身の簡潔な答えとしては、「できる」だ。
ただしそれはヴィンセントの感情を無視して、それでいてこの部屋から出るために、という大義名分を掲げて初めて成すことができる行為。
答えてしまってもよいのだろうか。
ルクレツィアに想いを寄せるヴィンセントに対して、部屋から出るためだからできる、だなんて自分本位なことを言ってしまってもよいのだろうか。

けれど、言わなければならない。答えを求められているからには、言葉にして伝えなければならない。
いくらname自身がうだうだと考え込んでいても、その一つ一つまでヴィンセントが理解し、把握できるはずもない。
できる、できない。ただこれだけを答える簡単な問いだと、そう思おう。
そこから先、いったい何が、どんなことが待ち受けていようとも今はただひとつの答えを言葉に乗せるだけ。

「できる、よ」

言葉にするはよいものの、やはり罪悪感で押し潰されそうで。
そろり、と紅色の瞳から視線を逸らす。
また怒られてしまいそうだ。なんて悠長なことを考える時間も何も無く、唐突にnameは大きな手に顎を掬われた。
ヴィンセントの指によって持ち上げられる顔。重なる視線。
できる、という回答に対してなんの返答もなく、ただふたりの間には奇妙な沈黙が流れる。

ああ、やはり言わなければよかった。できる、という言葉の前に何か補足すべきだった。
部屋から出るためだから、できるよ。そう言っていれば、きっとヴィンセントを困らせはしなかっただろう。
自分のための大義名分ではなく、ヴィンセントにとっての理由にもなることができたはずなのに。
気持ちの向かない女とキスをするのなんて、嫌に決まっている。相手の気持ちをわかっているのに、できる、だなんてよく吐けたものだ。

「ごめんなさい、困らせて。やっぱり、別の方法を探そう」

この沈黙は、ヴィンセントの戸惑いや嫌悪をそのまま表している。
nameの胸には罪悪感ばかりがつのり、そしてヴィンセントもまたよい気はしていないだろう。
きっと、他に脱出の手立てはあるはずだ。
偶然発見した紙きれが一枚だったように、このだだっ広い白い部屋を歩き直せばまた紙きれが見つかるかもしれない。
この話は無かったことにしよう。いいや、他に脱出方法が見つからなかったときの最終手段にしよう。

それを含めてヴィンセントに謝罪をしたnameは未だ顎に添えられているヴィンセントの指先に自分の手を添える。
そういえばヴィンセントのこの行動にはどんな意味があったのだろうか。
不思議に思いながらも、離してくれないか、と目線で訴える。
紅色の瞳が、二度、瞬いた。

「ヴィンセント……?」

瞼の奥に隠れる紅色が露わになるたびに、なんだか違う色を宿しているような気がする。
美しい赤の色合いは変わらない。そうではなくて、含まれる感情や、色。
自分の感情を率直に、わかりやすく表に出すことがないヴィンセントにしてはとても珍しい。
ただ、それから何かを読み取れるほど、nameは落ち着いてはいなかった。

「あの」

無言のまま、またヴィンセントが二度瞬く。
やけに鮮やかな紅の色。
遠目から見ても美しいが、間近で見るとより一層深みを増す。

吸い込まれてしまいそうだ。

あれ、でも、どうしてこんなにも鮮やかに見えるのだろう。


nameがその疑問に気がついたのは、唇に柔らかい感触が押し当てられてからだった。


「ん、む」


ヴィンセントの紅色の瞳が一層鮮やかに見えたのは、それほどまでに彼の顔が近くにあったから。
それは何故。
それは、キスをするために。

「んっ、ぁ、ふ」

ヴィンセントとキスをしている。
唇から伝わる熱、柔らかい感触、長い睫に薄らと開かれてこちらを覗き込む紅い瞳。
その全てから導き出される結論に、nameは戸惑い、一歩脚を退いた。

「んんっ」

しかし、後退する身体をヴィンセントに抱きすくめられる。
大きくて逞しい身体にすっぽりと収められ、離れないようにご丁寧に背中に手を添えて。

いきなりすぎる、唐突すぎる。
できる、と回答したのはこちらのほうだが、それにしても何のリアクションも言葉も無くキスという行為が始まってしまった。
いや、リアクションはあったか。沈黙という耐え難いリアクションが。

ヴィンセントの胸元に手を当てる。
そしてそのまま力を込めて突き飛ばし、一度身体を離させようと考えた。
が、このような場面でもnameの冷静な側面は健在で。

恥ずかしいだとかときめくだとか、そのような甘い反応も気持ちも一切無い。だってこれはこの部屋から出るためなのだから。

そう、部屋から出るためだ。入口も出口もないこの白い部屋から出るための、仕方のない行為。
もしかすると他に脱出方法はあるのかもしれないけれど、ヴィンセントはこの行為を受け入れた。
受け入れて、くれたのだ。好きでもない、気持ちも向かないこんな女とのキスを、嫌々ながら。
それを突っぱねるだなんて、中断させるだなんて、どうしてできようか。

脱出の条件は『五分以上キスをしなければならない』ということ。
既に何秒、何分経過したのかはわからないが、それでも一秒は確実に経過している。
先の長い五分という時間の刻み。
こうして考え事に耽っている間にも刻々と時は過ぎゆくのだ。
たかが五分、されど五分。ヴィンセントにとって苦痛を伴う五分。
早く過ぎ去って欲しい、過ぎ去ってあげて欲しい。けれど時間の進みは規則的で、決して遅くも早くもなりはしない。

ならばnameには何が出来るだろうか。答えは直ぐに導き出された。
動かないこと。ヴィンセントの気をこれ以上悪くさせないようにあらゆる挙動をとらないこと。
先程唐突な口づけに身を退いた時、ヴィンセントに抱きすくめられた。それは今も尚続いている。
彼が好きでもなんでもない女に抱擁を施すことになってしまったのは、紛れもないname自身のせいなのだ。
驚いたからとはいえ無駄な行為を足させてしまったことを後悔はすれど、もう動かないから拘束しなくても大丈夫、などとキスのさなか口を動かせるはずもない。

これ以上ヴィンセントの負担を増やしてはいけない。

ぎゅう、と目を堅く閉じて唇を結ぶ。
唇に触れる柔らかさを感じることすら悪い気がして、全ての感覚を遮断……できるはずもないので、せめて意識しないように身を強張らせた。
息の音すら許されない。許されはしない。この行為すら、許されるべきものではない。
ぐるぐる、ぐるぐると回る思考。
思考とは別に脳までかき混ぜられているような感覚に目眩がする。
ぼんやりと、霞がかかる。両目は閉じているはずだから、白く濁るようなこの感覚は、きっと。


「name」


ヴィンセントの声が、鼓膜を震わせた。
あれ、ヴィンセントの口は開ける状態ではないはずなのに。
くらくらと揺れる脳内でそんな疑問を抱えていると、頬に優しい感触。
添えられる手がヴィンセント以外のものであるはずがなく、何か問題事でもあったのか、――そもそも問題事しかないのだが――nameはゆっくりと瞼を持ち上げた。

「息を止めるな」

少しだけ怒っているかのような声音。けれど、心配という感情を含ませる視線。
ぺちり、と可愛らしい音を立ててゆるく叩かれた頬に感じる微かな刺激で、nameは完全に思考を取り戻した。

身動きをしないように努めていた。そして気がつかないうちに呼吸をすることを忘れていたのだ。
忘れていた、というよりも耐えていた、だろうか。自身の挙動ひとつひとつがヴィンセントの気を悪くさせるものだと考えこんでしまい、究極的に呼吸まで封じてしまっていた。
だから酸素が欠乏して目眩と、回るようなくらくらとした感覚に苛まれていたのか。
妙に思考が冷静だ。足りていなかった酸素を補うかのように静かに息を吸って、吐く。
ヴィンセントがその一挙一動を見逃さないかのように見ているものだから、なんだか変な緊張感が生まれてしまう。

緊張感?いや、罪悪感。
せっかく数秒、数分の経過を我慢してくれていたのに、こんなことで中断させてしまった。nameの体調を心配して。
向けられているのは責めるような視線ではない、こちらの身を案じてくれている優しいもの。
ヴィンセントは本当に優しいひとなのだ。

「ごめんなさい」

二度も三度もキスなんてしたくはないだろう。ヴィンセントのためにもしっかりしなければ。
意気込みを新たにヴィンセントを見上げる。
彼が僅かに瞠目したことなど、nameは気がつかない。


「もう一回、おねが……っん」


酸素を求めた苦しみで潤んだ瞳で見上げられたヴィンセントの胸の高鳴りなど、nameが気がつくはずもない。
もう一回、だなんて求め方をされて衝動的に動かないわけがない。


nameは静かにその唇を受け入れる。
目は閉じ、極力動かないように。けれど先程の過ちがある。鼻で僅かな酸素を吸い、吐く。その挙動は努めて小さく。

そういえば『五分以上キスをする』という条件の中にある指定時間は累計なのだろうか。
先程のキスの時間と今しているキスの時間。これを足して五分という計算で通るのか疑問を抱く。
もしもキスを止めた時点で最初からやり直し、つまるところ振り出しに戻されるのならば、今度こそname自身の失態で中断させるなんてことがあってはならない。

なんとしても五分保たせる。呼吸は充分、気持ちも充分。

変な気合いを入れたnameがまたひとつ呼吸を繰り返したとき、事態は一変する。


「……ん!?ぁっ」


ぬるり、と唇を這う何か。
予想も予期もしていなかったそのくすぐったい感触に驚きの声を上げてしまう。
いけない、これでは五分以上のキスが。そんな心配をしている余裕なんてなかった。
僅かに開けてしまった唇の隙間から強引に割り込んでくる、それ。
唇を撫で上げたそれと同じ感触で、キスをしているこの状況から考えるに、これの正体はひとつしか思い当たらなかった。

「んぁっ、っ、ちょ、ヴィ……んんむっ」

ヴィンセントの、舌。

キスというのはお互いの唇を触れあわせる行為だが、そのひとつ先、更なる親愛を表す行為として舌を絡める事がある。
所謂ディープキスというもの。外の国の言葉であり、直訳するならば深い口づけ。
それを、何故、この状況で。部屋から出るにはキスする必要があって、けれどディープキスである必要が無くて。
戸惑い、身体を捩ってしまう。
ヴィンセントの抱擁から逃れるような動きを察知してか、その拘束は更に強まってしまいnameの動きを制限する。

「っふ、ぁんん、あ、ぅま、ぁ、待ってっ、っん」

ぴちゃぴちゃと止まない水音が耳を打つ。
やけに生々しくて、ヴィンセントの舌から逃げるように顔を背かせても後頭部を掴まれて押さえつけられる。
これは、駄目だ、逃げられない。

いや、でも、おかしい。キスは仕方が無いとして、ディープキスは絶対におかしい。する必要性が全くない。
ヴィンセントの心情への理解が一つも及ばない。
好きでもない女とキスをする抵抗心があることは違いないはずなのに、どうして。

意を決してnameはヴィンセントの胸を強く叩く。
僅かに緩んだ拘束を振りほどき、その身体を突き飛ばした。
拘束の強さから手こずると思われたけれど存外あっさりと離れた。そのことに驚きはするが、それよりも成さねばならないことがある。
口の端から零れる水の糸を衣服の袖で強引に拭い、やけに熱の篭もった瞳でこちらを見つめ続けるヴィンセントを睨み上げた。

「な、んでここまでするのっ!ご、五分以上キスするだけでいいのに!」

言葉を音にするたびに舌が口内を滑る。
その舌は、先程までヴィンセントが触れていたもの。舐め回されていたもの。
急に恥ずかしさが込み上げてきて頬に熱が集まる。
少女じゃあるまいし、こんな反応みっともない。
内心叱責すれど、素直な身体の反応は抗いようのないこと。
せめてもの抵抗としてゴシゴシと頬を擦るが何の意味もなく無駄に終わる。

「……ようやく素直な反応を見せたな」
「でぃ、ディープキス……とか!私なんかにしなくて……え?」
「折角巡ってきた機会なのに、義務感でキスに応じられると少々虚しいものがあってな」
「なに、えっと、なに……?」
「これから先に繋がるよう、楽しませてもらう」
「はっ!?えっ……!?」

ヴィンセントの言っていることが何一つ理解できず、困惑するnameはあっさりとその腕に捕まってしまう。
そしてまた近づく端正な顔。
それが再び交わされるキスの始まりであることを瞬時に察したnameは勢いよくその顔面に手を翳し、それ以上の接近を防いだ。

「ヴィンセントの言ってることがわからないの!考えてることもわからないのっ!お願いだから一回落ち着いて……っ」
「……」
「うっひゃぁあ!ちょ、手!な、舐めた!?ふはっくすぐった……っ」

ヴィンセントの口元を覆う指に感じる熱の感覚。それから感じるくすぐったさと、恥ずかしさ。
唇や口内だけではなく、手と指までヴィンセントに舐められてしまいわけがわからずnameは叫び声を上げてその顔を大きく横に逸らした。

その視界に入った物。

一面真っ白な部屋だったはずなのに、ある一点だけ白ではない色が目に映る。
壁に刻まれた黒い文字。いや、数字。
『0:00』と記されたそれが時間を意味するものであることに、現在困惑に突き落とされているnameですら瞬時に察知することが出来た。

「んっ」

nameが見せた僅かな隙を突いたヴィンセントがまたもや強引に唇を重ねる。
呼吸を奪われ、抵抗するよりもずっと早くその舌が絡め取られてしまった。
歯を噛み締めてその侵入を防げればよかったのに、あまりにもヴィンセントが機敏すぎたのだ。
絶対に舌を入れてやる。そんな必要の無い強い意志を感じてしまうほどに。

ヴィンセントの鮮やかな紅が一心に向けられる。間近で、とてもとても、近い距離で。
そういえばこのひとはどうしてキスの最中に目を瞑らないのだろうか。
目を閉じることが礼儀でもなければ常識でもない。けれどなんだかヴィンセントが目を開け続けるのは、こちらの挙動を全て余すこと無く見尽くすためな気がして。
ヴィンセントの視線から逃れるように目を閉じる。
しかしどうしても先程見えた数字が気になってしまって、薄目を開いてそろりと横に視線を流す。

『0:30』

指し示していた数字にnameは確信を抱いた。
これは五分を計測する時計のようなものだ。どうして白い壁に映し出されているのか、仕組みはなんなのか、数字のカウントを開始している基準はなんなのか。
もはやそのどれもがどうでもいい、どうだっていい。
ただその数字が『5:00』を刻むこと。それだけをnameはひたすら願う。

ぎゅ、と目を瞑ってヴィンセントのキスを受け入れ続ける。
口の中で暴れ続ける舌に蹂躙されるそこはもう気にするなというほうが無理だというもの。
けれど目を開けてしまってはヴィンセントと視線が絡むだけ。せめてもの罪滅ぼしとして閉眼する道しか、nameには残されていなかった。

「ん、ん、っん」

舌を吸われて、声が漏れる。
声と言うには音にも言葉にもなっていないけれど、無意識に喉が鳴ってしまうのだから仕方が無い。
そしてそのまま口蓋を擽られ、歯列をなぞられる。
このひと遊んでいないだろうか。
酸欠とは違う、くらくらとした感覚に苛まれながらそんなことを考える余裕が少しだけ、ほんの少しだけでてきた。

『3:50』

なんてすごいことだろう。こんな時間までキスを続けることが出来ている。
しかもただのキスでは無く若干を大きく上回る激しいキス。
そんななかようやく最後の一分を迎えられることにnameは安堵と喜びしか感じられなかった。

『4:30』

あと、三十秒。
ここまでよくやったほうだと思う。本当に、よくできたものだ。
とりあえず五分を迎えた後に真っ先にヴィンセントに謝ろう。
何故ヴィンセントがディープキスなどという凶行に及んだのか、その理由も気にはなるがしたくもないことをさせてしまったのは紛れもない事実だ。
謝って、二度とこんなふざけた部屋に入れられないように対策を練って、それから全て無かったことにして。

『4:40』

二十秒後の未来を思い描く。
それはきっと、確実に手に入れられる未来で、ヴィンセントとの関係をあるべき形に戻すことのできる未来。
ヴィンセントに嫌われていなければいいな。こんなことになる前のように、またいつも通り接してもらえたらいいな。

『4:50』

あと十秒で終わるはずだった。


「あ、ん、え……っ」


唐突にキスが終わる。唇が、熱が、離れる。
何か問題でもあっただろうか。不安げにヴィンセントを見上げると彼は燻る熱を持て余しながらもnameを見つめ続けるだけ。
お互いの唾液で濡れたその口元が艶やかで、妙に色気を感じ取ったnameは逃れるように壁の数字に目を向けた。

『0:00』

数字が元に戻ってしまっている。いや、この数字の存在に気がついた最初の時から、キスの時間が累計ではないと気がつくべきだった。

「ヴィ、んせんと、あの、これ、五分ずっとしてなきゃいけなくて、途中で止めたらまた最初から……」
「知っている」

もしかしたらヴィンセントはこの壁の数字の意味に気がついていないのではないか。
そう思って指摘したのだが、返答はとても端的。既にご存知だった様子。
ますます意味がわからなくなってしまった。ディープキスに及んだ事に加えて時を刻む存在を知りながら理由無くキスを中断させるその意味が。

「え、ど、どうして……っん、ん」

また、捕まる。今度こそ歯を食いしばって拒もうと思ったのに、こちらの学習能力がないのかヴィンセントが巧みなだけか、また深いほうのキスを許してしまう。

『0:10』

たった十秒が長く感じるようになってしまった。
もういっそのことこのままヴィンセントの思うがままにさせたほうがよいのではないのだろうか、なんて思い始めてきて内心自嘲した。
思うがままに、なんてあるはずがない。
だってヴィンセントはこの行為を受け入れ難いものだと思っているはずなのだから。

『2:50』

体感五分以上経っている気がするのだが、どうやらまだ五分は先らしい。
じゅるじゅると舌を吸われて、もう恥ずかしさでどうにかなってしまいそうだから早く終われ、早く時が経ってくれ。
そんなnameの願いも虚しく、数字は至って緩やかに増え続けるのだ。

『4:30』

ぼやける思考。霞む視界。
ヴィンセントの息遣いが悩ましいもの聞こえてきてしまい、このディープキスの危険性を身を以て知る。

性的興奮を、拾い始めてきてしまっている。

最初はただくすぐったさを拾うだけだった。熱を、感触を感じて戸惑うだけだった。
けれどこうも長時間同じものを与え続けられると、別の感覚まで芽生えてきてしまうものだ。
そもそも、キスはなんだっただろうか。愛情を確かめ合うもの、またはその一種。
ならば快感を伴う行為でもおかしくはない。キスだけで性的に満たされる人種だっているのだから。
いや、そんな話ではなくて。その状況下に自分が置かれ始めていることが問題なわけで。
けれどもうそれもお終いだ。ほら、数字が『4:58』を指して。

「瞳がとろけているぞ」

唇が、離れてゆく。
耳をくすぐるのは艶のある低音で、ぞくりと背筋が震えた。
はぁ、と熱い息を吐いて、ヴィンセントの口元から伝う銀色の糸から目を背ける。

『0:00』

ああ、もう、どうして。

「どうして、やめるのぉ……っ」

ここまでくるとヴィンセント自身確信犯なような気がしてくるものだ。
事実、彼はこの数字の意味を知っていた。
それを理解しながらも五分の時が経つ寸前でキスを止め、また振り出しに戻らせているということは、これはつまり、そういうことなのではないだろうか。
一番最初のディープキスの時。
その行為に驚いてヴィンセントを突き飛ばした。決して簡単に緩むはずのない拘束だと思っていた抱擁は、思っていたよりもずっと簡単に解かれたことを思い出す。
あれは、何故か。仮定する。もしもヴィンセントがその時点でこの数字に気がついていたのなら。
今のように、五分を指し示す寸前でnameの抵抗をわざと受け入れ、キスを繰り返させていたのだとしたら。

もう、わけがわからない。


「お願いだから、やめないでっ……」


五分経って欲しいのはそちらも同じ筈でしょう?どうしてこんな意地の悪いことをするの。

ヴィンセントの胸元に縋り、眉を下げて希う。

その要望は、nameからしてみれば早くこの部屋から出るために必要な行為を達成するための催促。
けれど、ヴィンセントは。ヴィンセントから、してみれば。


「この状況で煽るとは、……覚悟はいいな」
「あ、えっ?ん、んぁ……ふ、ぅんんっ」


濡れた瞳。桃色に染まる頬。吸い付いた唇は艶やかに色づき、誘うように淫らに動く。
そしてその口から紡がれるのは行為を求める言葉。
わかっている。nameが"そういう"意味で求めていないことを。
けれど、これは。"そういう"意味で受け取ってしまっても文句が言えない程に、魅惑的だ。

ヴィンセントの激しいキスが再び口内を荒らす、荒らされる。
鼻で呼吸をして静かに受け入れていたキスとは違う。口で息を吸うことしか呼吸法が無いかのように、それは激しく、絶え間が無い。
絡む舌。なぞられる歯列。擽られる口蓋。
ぞくぞくと背筋を昇る熱に身体をぴくぴくと震わせていると、ヴィンセントはわかりやすくその背に指を這わせた。

「あっ!?んぅっ……」
「ふ……」

跳ねた身体をそのままに、後頭部を押さえつけてヴィンセントが貪り喰らう。
呼吸の合間に聞こえた小さな含み笑いに彼の上機嫌さを悟るが、どうしてそこで笑うのか理解が及ぶはずもなかった。

腰から、肩へ。
背を幾度も緩やかに往復する丁寧な指の動きに合わせてただ身体を跳ねさせ、熱いキスを受け入れる。
あれ、これって、なんだかおかしい。
おかしいのは始めからなのだが、快楽を与えるかのような明らかに必要の無い動きに、熱に浮かされ始めたnameもさすがに思いとどまった。

「ま、待っ、こ、ぇ……んっぃああぁ……っ」

待って、これ、嫌。
それすら音にならず、呑み込まされる。

ヴィンセントの指先が幾度も背筋をなぞる。
下から上に。それは拾い始めた快楽を高めさせるような動き。
ぢゅ、と舌を吸われながら喉を鳴らし、身体を震わせるその姿はこれから起こり得るであろう行為をどこか期待しているように見えなくも、ない。
薄らと微笑んだヴィンセントにnameが気が付けるはずもなく、その指先が衣服の下に侵入することをあっさりと許してしまった。

「っ!?ひ、んんっ、あ、ぁ、っヴィン、セントぉお……んむぅっ」

背筋を辿っていた指先が下着に触れ、その留め金を弾く。
え、どうして、なに、なにが起こっているの。
慌てふためきながらも素直に受け入れるのは熱いキス。
そしてこれから先、自分の身に降りかかるであろう快楽への期待に身体を震わせたのは、見ないふり。


白い部屋。絶え間ない水音。女の嬌声。男の荒い息遣い。
閉じ込められた男女がこの後まるで恋人のような睦言に興じたのかどうかは、ふたりのみぞ知る。




・途中で思い出したけどヴィンセントってルクレツィアにプロポーズしてましたね。


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