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鼠の尾は既に踏まれている

私の年上の幼馴染が不登校になって少し経つ。元々気紛れな人だったから、義務教育が終わっても集団行動を強いられる場所に居続けることがとうとう我慢ならなくなったんだろうなと納得してしまう。だからと言って放っておくことは出来ず、私は毎週金曜日、彼の家に通っていた。
周囲の大人から彼の説得を頼まれているからというのもある。彼の担任しかり、学年主任しかり。果ては校長先生にまで頼まれては嫌とは言えなかった。
それでももっと仲の良い人に、例えばクラスメイトの誰かに頼めばいいんじゃないかとも思ったが、そも私に真っ先にお鉢が回ってくる時点で御察しだったとは彼の担任の顔を見て知った。そう言えば野良猫みたいに警戒心が強くて、滅多なことじゃ他人に懐かない人だった。

「ごめんくださーい」

彼のクラスメイトから預かったノートにプリント、担任からの手紙を持って彼の家に上がる。
昭和を感じさせる佇まいの彼の家は平屋で、鍵は今時捩じ込み式になっている。ご近所付き合いが濃密な為に昼間はそれすら掛けられておらず、それを良い事に私は呼び鈴すら使わずに上がり込んでいた。
だっていくら呼び鈴を鳴らしても彼は出て来ない。同居しているおじいちゃんとおばあちゃんはデイサービスやら老人会の用事やら、とかく昼間は元気に外で過ごしていることが多くて不在がちだ。つまり勝手に上がり込むしかないのである。

「尾形先輩、居るんなら出て下さい」

廊下を突き当りまで進み、一度折れた先の奥詰まりに彼の部屋はある。襖をノックするというのもおかしな話で、その向こうから聞こえてくる物音に在宅を確信して先ず文句を述べた。

「勝手に入れ」

大分下の方から声がする。また寝そべってスマートフォンを弄っているのだろう。いくら相手が私だからと言って随分な態度だと呆れながら襖を開け放つ。

「またパジャマのまんまで」
「どうせ出掛けねえからいいんだよ」

こちらをちらりとも見ない坊主頭は布団を片付けてはいたが、二つ折りにした座布団を枕に畳の上にごろり横になっていた。上下揃いのスウェットは彼にとっての寝巻であり、日がな一日これで過ごしている。平日の日中に出歩くと補導されるからという方便の下、外出しようともしないのだから不健康極まりない。それなのにだらしない身体にならないあたり運動はしているのだろう。

「これ、いつものです」
「その封筒は捨てろ」
「一応読んでくださいよ…あっちは先輩の返事読んでるんですから」

担任からの手書きの手紙を、彼は一切の気兼ねなく捨ててしまう。そしてパソコンで打ち出した返事を封筒に仕舞いもせず私に託すのだ。礼儀として中身を見たことは無いが、彼の担任の反応からして何がしかの定型文なのだろう。それでもめげずに手紙を寄越す担任のよく分からない根気を、私は密かに評価している。

「それより座れよ」

たしたしと、傍らの畳を叩く仕草は餌を強請る猫の様だった。
言われるままにその場に腰を下ろす。正座を少し崩した座り方を咎める者はこの場におらず、むしろ丁度良い高さになるからその座り方にしろと指導してきた張本人がごそりと動いた。
腿の上に陣取る坊主頭を丸く撫でる。

「まだ学校行く気にならないんですか」
「あの担任嫌いなんだよ、クソ鬱陶しい」

訪ねる度に膝枕を強請られている内に習慣となってしまった。膝を貸している間だけはどこを触っても怒らない彼は、特に顎の下を撫でられるのがお気に入りらしい。頬を撫でていると顔を自ら動かして、顎へ誘導してくる。

「来年になるまで絶対行かねえ」

それだと私と同学年になってしまうのだけれど。
そう喉元まで出かかった言葉を呑み込んで、彼の顎の下を指先で撫でる。途端にきゅうと細められる目は、顔は、とても満足気だ。
…彼の不登校がどうして始まったか、その詳細は分からない。
私にお使いを頼んでくる彼のクラスメイト達も担任も、一向に分からないと言う。
きっかけだったと明確に分かる事件は無かったらしいし、彼自身の口から真意を聞ける程親しい者も居なかったから。
ただある日の朝、彼は学校に自ら電話をかけてもう行かないとだけ告げたらしい。彼の担任が突然私の教室に乗り込んできて、彼に何かあったのと詰め寄って来た時は本当に驚いた。

「なんで来年なんです?」

学生にとって来年と指す区切りは二つある。無論十二月が明けたら迎える新年と、四月に進級して迎える新年度。
担任を毛嫌いする態度からして後者だとは思うが、そうなるといよいよ留年が洒落にならなくなる。何にも興味が無い様に見えてプライドが高いから、自らの経歴を徒に傷付ける人では無かったはずだ。

「あのババア、来年は学年主任に成ることが決まってるんだと。 つか下手な敬語やめろ」
「…そんなに嫌いだったんだ」

どうやってその情報を手に入れたかは分からないが、その為にこうまで思い切ったことをするのなら確かなことなのだろう。
険を滲ませた目つきを見て、宥める様に顎下から喉元、鎖骨あたりまで撫でる範囲を広げる。ふんと満足気な鼻息にとりあえず機嫌が直ったらしいことを知り、胸を撫で下ろす。
彼との、尾形百之助との出会いはそれこそ言葉の概念も分からない赤ん坊の頃になる。彼の母親が赤ん坊だった彼を残して突然失踪し、弱り果てた彼の祖父母が隣家の母に助けを求めてきたのが始まりだ。元々赤ん坊にしては夜泣きどころか昼間も滅多に泣かない赤ん坊だったという彼は然程手がかからなかったらしいが、偶に生きているか不安になるくらいじっとしていたと言う。
それに比べて、私は非常に泣き喚いて母を困らせていたとか。並べて寝かせられることの多かった彼にも大変迷惑をかけただろう。だが赤ん坊として正しいのは私だと思う。

「お前、その封筒の中身読んでみろよ」

私の腿に預けるのを頬から後頭部に切り替え、見上げてくる大洞の瞳を見返す。
アルバムで彼と自分とが赤ん坊だった頃の写真を幾度と無く見ているが、その頃と何ら変わらぬそれを見ていると底無し沼を覗き込んでいる様な心地に襲われる。
実際彼は、尾形百之助と言う男はそういう人間だと思えて仕方なかった。
一度内側へ踏み入らせた人間を離そうとしない性質をひしひしと感じる様になってどれくらいになるだろう。最初におやと思ったのは小学生の頃だったと思う。
真新しいランドセルに黄色いカバーをかけて、初めて登校するという日に彼は我が家の門扉の前で待ち構えていた。通学班の集合場所まで連れて行ってやるという彼は、その頃私にとっては何故か同じ家に住んでいないけれど大好きな「お兄ちゃん」だったから嬉しかった。手を繋ぎ、少ししか離れていない集合場所へ向かう。
そうして毎朝欠かさず迎えに来る彼は、当然ながら私より一年早く卒業した。新学期からは一人で集合場所に行かねばならないと思うと物悲しかったが、解放感があったのも事実だ。
当時、私はクラスに好きな男の子が居た。足が速くて明るくて、夏になると誰よりも真っ黒に日焼けする様な活発な男の子だった。
小学生ながら既に彼氏彼女関係になり始める同級生がいたことから、感化されてませていた私は彼と付き合いたいと思っていた。けれどそんな望みは、同じ登校班のクラスメイトに打ち砕かれる。
曰く、私は一つ年上の幼馴染と両想いなのだと。
彼女がそう発してあっという間に広がってしまった噂は勿論意中の男の子の耳にも届き、付き合うってどんなことするんだと無邪気に訊ねられる形で私の初恋は終わった。帰り道、私の手を引いて歩く彼にお兄ちゃんの所為だと八つ当たりしたことを覚えている。何の話だよと憮然としながら、一切反撃せずにいた彼の横顔も。
ともあれこの事件がきっかけで、私はお兄ちゃんと慕う彼と距離を置きたくて呼び名を百之助くんに変えた。残念ながら当人は名前で呼ばれることがお気に召したらしく、何か無くても呼んでいいなんて上機嫌になっていたけれど。
だから彼が一足先に卒業した時、これで独り立ち出来る気になっていた。朝の集合場所までは勿論、帰り道も一人で、或いは仲の良い友人と連れ立って帰るのだと張り切って新学期を迎え───門扉の前に立つ学ラン姿を認めて膝から崩れ落ちた。

「…いいの?」

他人に宛てられた手紙の中身を視るというのは気が引ける。宛てられた側の許可があっても、どちらかと言うと手紙をしたためた側の了承が欲しいところである。
けれどずっと、気になっていた。毎週金曜日に受け取る封筒は常に分厚い。便箋を五枚程折り畳んだらこのくらい膨らむだろうかというそれに、よくもそれだけ書くことがあるものだと感心してもいた。

「読めば俺があのババアに反抗したくてしてるワケじゃねえって分かる」

言って横を向き、眼を閉じる彼は寝入る体勢に入ってしまったらしい。足が痺れるから勘弁してほしいのだが、そうして侭ならなくなった私の足を突くのを楽しみにしている彼は絶対に止めないだろう。
封筒から便箋を取り出す。三つ折りにされていることを差し引いてもやはり厚みのあるそれは枚数が嵩んでいるからだとは予想の範疇だったが、その内容に怖気が奔った。
先ず一枚目は一行毎に空白を設けて当たり障りのないご機嫌伺いの文が連ねられ、二枚目は同じ仕様で家庭訪問がしたい旨が綴られている。何日なら都合がいいかと訊ねてはいるが、提示されたいくつかの日にちがやたらと近いあたり、何か切羽詰まったものを感じた。
しかしあからさまな異様を感じさせるのは三枚目からだった。一行毎の空白が無くなり、余裕のあった文字と文字の間隔が狭まり始める。尾形くんという呼び名が百之助くんに変り、更にあなたの連呼に変じるのも不気味だ。締めにある署名は誰の名前かと首を捻ったが、これを書いたのが誰であるかを思い出せば自ずと判明する。苗字ではなく下の名前だけを記したそれに、改めてぞっとした。

「…これ…えっと…」

四枚目以降はろくに読めなかった。いじらしい恋心を覗かせる文面は、差出人を知らなければ読みふけってしまっただろう。会いたいのだと、心配なのだと切々と訴えかけてくる情熱がある。
…これを私は毎週運んでいたのか。読んで返事を書かなきゃだめだよなんて、言って。

「あのババア、毎年受け持ったクラスからお気に入り見つけちゃ付き纏ってるんだと。 次のお気に入り見つけたらとっとと移るらしいが、毎日あんな目で見られてたら気がおかしくなる」

目を閉じたまま、彼はただただ面倒そうに語る。この文面からして彼に音を上げさせた「あんな目」は想像に容易く、もしかしたら想像を上回るかも知れないと思うともうあの顔を直視出来る気がしなかった。来週からどんな顔をして手紙を受け取ったらいいのだろう。

「ストーカーってこと…?」
「家までは来ねえけどな」

だから不登校を選んだのだと言外に白状した彼の指先が、便箋を持ったまま震える私の左手を取る。はらはらと畳に散らばった便箋を集めようと言う気にもなれず、ただ私は途方に暮れて膝の上の彼を見下ろした。

「どうしてもっと早く言わなかったの」

私の指に自分の指を絡め、すり合わせて遊んでいた彼の閉じられていた目がすうと薄く開く。隙間から覗く黒々とした瞳に情けない顔をした私が映った。

「お前、何か出来んのか」
「…手紙を断ることくらいなら」
「どうだか」

小馬鹿にした笑い方だがその実こちらの返答に満足していると、手の甲に立てられた爪の食い込みの弱さが示している。本当に気に入らなければ容赦なく皮膚を削ることは、この長年の付き合いで知っていた。
高校に入学して、初めて尾形先輩と呼んだ時は酷かった。今もうっすら痕が残る右手の甲に残る三本筋と、一の腕に残る歯型がその名残だ。心配する両親や友人にはでかい野良猫にやられたと誤魔化して、それが受け入れられた時はちょっと驚いた。まあ確かに人間相手に喧嘩してこんな形の傷なんて、普通は考えられないだろう。

「百之助くん、痛い」

我慢できない程でも無いが、痛みには違いない。やんわり爪を立てられた手を引きずり出そうとすると、その掌がまるでネズミの尾を狙う鋭さで降ってきた。ばちんという音から一拍遅れて痛みが来る。

「…痛い」
「逃げようとするお前が悪い」

じとりと恨みがましく睨み下ろしても鼻先で軽く笑い飛ばす彼に悪びれる様子は全く無い。しかしわずかに赤くなった私の指の背を撫でる手つきは優しくて、逃げの姿勢さえ見せなければそのまま優しいことも私はよく知っていた。生まれてからこちら、共に過ごした時間は親と同等に長いのだから。

「学校の、他の先生に相談しないの」
「今まで野放しにしてきたんだぞ。 今更何かしてくれるなんて思えねえな」

けれど彼は私の家族では無く、兄では無く、幼馴染でしかない。良いところも悪いところもよく知っているからこそ今更恋も出来ない相手と一緒に居ては本命を逃してしまうとは小学生の時に知ったことだ。
小学生では彼の卒業をきっかけに一人で登下校しようと企てるも、中学校に登校する前に私を集合場所へ送り届けるという奇行に走った彼に邪魔された。中学生の頃には部活に入って生活時間をずらそうと試みたが、生徒会で活動していた彼に引っ張られてあれよあれよと言う間に生徒会の一員になってしまった。
そして高校。私が何かしらの行動に出る前に突如不登校となった彼との時間は望み通り一気に減ったが、何故かそれを喜ぶことは出来なかった。担任にストーキングされているなんて事情を知る前であったにも関わらず。

「留年しちゃうよ?」

進級するのにどの程度の出席日数が必要かはわからないが、今からなら冬休みや春休みを補修に充てれば補えるかも知れない。保健室登校とか、事情を話して別室登校なら担任の干渉も避けられるのでは無いか。彼の様子はどうだと定期的に声をかけてくる校長先生に話してみる価値はあると思う。

「そしたら修学旅行、一緒に行けるな」

うっそりと笑う彼の顔には不思議な程悲壮感が見当たらない。それどころか怒りや焦りといった、当事者でない私が感じているものに苛まれている様子がまるで無かった。
担任にストーキングされて不登校に追い込まれて、その上で平然としているなんてあるのだろうか。

「沖縄より北海道が良かったからちょうどいいぜ」

くつくつと彼が喉を鳴らす度に、下敷きにされた私の腿に振動が走る。無意識に手触りの良い坊主頭を撫でつけながら考えるのは、自意識過剰とも思えるまさかの想定だ。
…まさか担任がストーカーであることを大義名分にして留年を狙っているんじゃないか、ひいては私と同級生になる為じゃないかなんて、そんなバカなこと。

「…その為に留年しようとしてる、とか?」

いつもの様に小憎たらしい顔で否定してくれることを願って問いかける。
それまで私の左手にじっと注がれていた視線が、ぐりんと動く眼球の動きに引っ張られて私の顔に移る。にいと弓形に細められる目は、挿絵で見たことのあるチェシャ猫によく似ていた。

「俺から逃げられると思うなよ、かなみ」

…門扉の前に立っていた学ラン姿の彼が脳裏に蘇る。あの日彼はこれからも迎えに来るぞというだけだったが、当時の私は今とよく似た心境になっていた。
つまり、逃げられなかったという諦めの境地。
膝の上でにゃあと彼が鳴き真似を発する。野太くて可愛くもないそれに彼は猫ではないのだと思い知りながら、私の手は誘われる様に彼の顎に伸びる。今日も彼は機嫌が良い。