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彼女が振り返らない理由

杉元くんと再会して早くも一年が経とうとしている。
梅ちゃんと寅ちゃんの結婚式は恙無く終わり、田舎特有の酒気多めであったこと以外は本当に良いお式だったと思う。寅ちゃんが途中で涙ぐんだ時には大泣きしやしないかと冷や冷やしたが、そこは杉元くんを始めとする元悪ガキ集団達の励ましだったり挑発だったりが功を奏した。
きっと皆、寅ちゃんが昔と変わらずの感激屋なのを知っていたから作戦を練っていたんだろう。杉元くんの変顔には私も梅ちゃんも、仲人さんまでつい笑ってしまいそうになったことを思い出してまた口許が緩む。
…懐かしい。佐一ちゃんはあんなに男前なのに本当に酷い顔をするって、小さい頃はよく梅ちゃんと笑わせられたっけ。

『かなみちゃん、寅次と梅ちゃんの結婚式の写真出来たよ。 いつなら都合がいい?』

杉元くんが弾んだ声で残した留守番電話を聞いて途方に暮れる。焼き上がった写真を手渡ししたいという旨の誘いを断るのは難しく、手間を取らせるのも悪いから郵送でと頼んでも杉元くんは聞き入れてくれないだろう。
再会してからこちら、杉元くんは少し様子がおかしい。
最初の頃はもっとよそよそしいというか、他人行儀に距離を測りながら接してきていたのに、今や見る影もなくべったりと引っ付いてくる。毎週末の様に誘われる居酒屋では対面に座らず隣を陣取ってくるなんて当たり前で、私が緊張を誤魔化したくて酒のペースを速めているともうダメだよと甘い声で止めに来る。メニュー表に伸ばした手をぎゅうと握り込んで制し、そのまま離してくれない流れに至る度に酔いが醒めた。そして元恋人の彼の顔が脳裏を過ぎる。

「はあ…」

自分の未練がましさに嫌気が差す。杉元くんへの失恋しかり、元恋人への恋心しかり。
どちらも吹っ切れずにぐすぐずしてどれくらいになるだろう。特に杉元くんへの失恋の痛手は十年もので、年季の入りように我ながらぞっとする。逃げに逃げ続けたツケが今回って来ているのか。
観念して水曜日の夜なら会えると返信した。
仕事終わりに居酒屋で会うなら翌日も仕事があるからと早々に解散出来るという打算は、しかし杉元くんの返信で御破算になった。

『ごめん、出来たら金曜日の夜がいいな』

杉元くんは私と同じ勤め人である。だからまあこういう返事を予想しなかった訳ではなくて。仕方ないと諦めるしかない。いつも私を気遣ってこちらの最寄駅まで来てくれるのだから、日時くらいは出来る限り私が譲歩すべきだろう。
いいよと返信して、スマートフォンのスケジュールに予定を登録する。曜日しか気にしていなかったが、ふと日付が目にとまって思わず顔を顰めてしまった。

「もうこんな時期かあ…」

杉元くんとの約束の翌日、今週の土曜日は元恋人の誕生日だと表示されている。そう言えばお正月デートの時、今年の誕生日は休日だからどこか温泉にでも行こうかなんて企画していたっけ。旅好きの友人に良い宿を紹介してもらうと言っていたのは結局どうなったのかと考えて、止める。
彼とはもう終わったのだ。返信のない連絡先もとっとと削除してしまわなければ。

「…お風呂入ってこよ」

数回タップするだけで終えられる作業なのに、最後の一押しをどうしても躊躇ってしまう。こんなに簡単に出来る作業なのだから今やらなくてもいいだろう、どうせ使わない連絡先でも残しておくくらい良いだろうと囁く声がある。
結局今日も諦めて、スマートフォンを充電器に差して立ち上がる。
今週末の休日はショッピングだ。お気に入りの雑貨屋に、梅ちゃんと寅ちゃんの結婚式の写真を収める為のアルバムを買いに行こう。



仕事を終えて、いつも通りの時間にいつも通りの電車に乗る。普段と変わらない帰り道だが、最寄駅に着いたら杉元くんとの待ち合わせ場所である居酒屋に向かう為、いつもとは別の方角の改札口を使う。既に暮らして長いところではあるが、駅を挟んであちら側には滅多に行くことがないので少々不安だ。迷うことも考慮して早めに動こうとも思っていたのだが、やはり定時上がりだとこの時間以上に早くというのは無理だった。
ホームに降り立ってすぐ、ホームの天井から吊り下げられた時計を見上げる。七時半の待ち合わせまであと三十分強。ネット上では駅から徒歩十分とあった居酒屋に迷わず辿り着けたなら、寄り道したって充分に間に合う時間だった。
と。

「…杉元くんから?」

上着のポケットに入れていたスマートフォンが震えている。メールの着信の震えとは違うそれに電話だと思い至って取り出すと、そこに表示されていた名前はもう直ぐ会う人で、何かあったのかと首を捻りながら応答のボタンをタップした。

「もしもし?」
『かなみちゃん? 今どこ?』

息急き切った杉元くんの声に面食らう。思わずもう一度時計を見上げて遅れていないことを確認してしまった。うん、やはりまだ待ち合わせ時間前だ。

「今最寄駅に着いたところだよ。 どうかした?」
『改札から出てない?』

私の言葉尻を食うような勢いに気圧される。急いでいるというか、焦っている様なそれに危機感を煽られた。

「うん、まだだけど…どうかした?」
『かなみちゃんがいつも使ってる改札口、南口だっけ? 俺、今その南口側のロータリーにいるんだ。 北口の方でなんか騒ぎがあったみたいで、かなみちゃん、巻き込まれたんじゃないかって心配で…』

北口も南口も、ホームから金網越しに様子が見られる。北口の方を見れば確かにロータリーには救急車が停まっていて、集まった野次馬がやいやいと騒いでいる。一目で何かあったと分かる有様に納得したが、これでは約束の居酒屋に行くのは南口から出て踏切を通ってと遠回りをしなければならないことに気が付いて憂鬱になった。あの踏切は一度捕まると長いのだ。

『かなみちゃんが無事でよかった』

…杉元くんの声は、心なしか震えていた。
そんなに心配してくれたんだと嬉しくなってしまうのはどうしてだろう。

「えっと…心配させちゃってごめんね? 私も南口に降りたら良いのかな」

言いながら階段を登りきり、改札を前に進退を決めかねる。
いつも改札を出たら二股に分かれる人の波が、どこか南口へ偏っている。北口から南口へ向かう流れも一筋あって、これはもしかしなくとも北口の一部が封鎖されているのだろう。只事ではない様子にいよいよ肝が冷えるが、杉元くんがいると思うと何故か和らぐものがあった。

『うん、ちょっと大回りになるけど踏切渡って行こう。 電話切らないで、このまま降りてきてもらっても良い?』
「良いけど…」

改札に定期をかざして通過する。南口へ流れる人の波の速さに合わせ、足早に歩いた。
杉元くんの不思議な提案を二つ返事で承諾したが、訝しんでいるのが声に表れていたのが彼にも伝わったらしい。ごめんねと苦笑混じりの声の向こう、人の騒めきが濃い。

『心配なんだ。 かなみちゃんに何かあったらって思うと怖くって…かなみちゃんはすごくしっかりしてるって昔から知ってるけど、最近久々に会ったら全然知らない人になったみたいに…』

杉元くんの言葉はそこで詰まってしまった。
それにしてもそろそろ再会から一年経とうというのに最近だなんてと可笑しくなる。それでなくとも離れていた期間よりも杉元くんと呼び出した期間よりも、佐一ちゃんと呼んで親しんでいた時間の方が長いのに。
いや、だからかもしれない。杉元くんの中では、自分を佐一ちゃんと呼ばない幼馴染の存在は慣れないものだろう。それを漸く受け入れ始めたからこそ最近再会したという心地なのかもしれない。
階段を降りきる。人波に押される様にしていつもより速い歩調で下った階段の下、ロータリーの隅っこにあの立派な体躯を発見した。

「杉元くん!」

通話口を少し離し、小走りで駆け寄る。こちらの姿に気がついた杉元くんの口元がほろりと緩むのを見る。

「待たせちゃってごめんね」
「ううん、俺が勝手に早く来ただけだから。 って言うか現地集合の約束だったのに…まだこんな時間だ」

杉元くんの腕時計は防水防塵機能に守られた、非常にゴツい時計だ。動作が粗雑だからこういう頼もしいやつじゃないと長持ちしないんだと照れ臭そうに言っていたのは何度目の飲み会だったろう。
その時計が指す時間はホームで確認した時刻から三分程しか進んでいない。花の金曜日だ、こんなに早く行っても席の準備はまだかも知れない。かと言ってカフェに入るにしても微妙な時間に困り果てる。自販機で缶コーヒー一本がいいところか。

「目的の居酒屋近くに公園あるみたいだし、そこで缶ジュースでも飲もっか」

その提案に思わず顔を上げる。精悍な顔に一文字の傷を刻んで尚、無邪気な面持ちできょとんとする杉元くんの顔を見つめた。

「どうかした?」
「いや…その、丁度同じこと考えてたから驚いちゃって…」

公園が目的地近くにあるなんて知らなかったし、想定していたのは缶コーヒーだけれど。
いや、そもそも一服しようかという発想が被ったくらいで私は何をときめいているのだろう。もう学生じゃないんだと自分に言い聞かせて無理矢理笑みの形を作る。杉元くんはそんな私を見守る様な、穏やかな笑みで待っていてくれた。

「そっか。 なんか嬉しいな」
「あ…はは、そう、だね」

杉元くんの素直な言葉にはこちらが衒いを覚えさせられてしまう。当人の性格であるとはわかっているのだが、職場にはこんな素直な人はいないから戸惑うところも多い。
…そう言えば寅ちゃんも昔と変わらず直情的なままだった。それを静止する梅ちゃんの意外な頑強さも、面倒見の良さも。
良くも悪くも変わらない幼馴染達のことを、勝手に気まずくなる存在のままにしておきたくはなかった。だから私は杉元くんからの誘いに何度も応じて克服しようと試みている。何度も挫けそうになっているけれど、そうしないと私は前に進めない気がした。

「じゃ、行こっか」
「うん、…えっ」

言って杉元くんの手がするりと私の手を取る。あまりに自然な動作に反応がいくらか遅れてしまい、振り返った杉元くんが不思議そうな顔をしている。

「どうかした?」

指と指の間、杉元くんの太い指が割り込んでいる。杉元くんの指の根元にがっちりと挟まれた私の指はちょっと引っ張ったくらいではびくともせず、それが然して力を入れられたものではないことに気づいて愕然とする。杉元くん、まだ柔道やってるんだっけ。

「…手、嫌だった?」

対して、ハの字にひそめられた眉には雄々しさなど無い。子犬の甘えた仕草にそっくりなそれに見下ろされて、今度は私が言葉に詰まった。

「嫌じゃなくて、違くて…お、男の人と手を繋ぐのなんて、久々だから…」

なんとも青臭いことを吐露してしまった。
けれど元恋人に振られて以来、男の人と手を繋ぐなんて機会が無かったので緊張しているのは本当だった。それが杉元くんとなれば尚更。

「嘘、かなみちゃんこんなに綺麗なのに」

へ、と落としていた視線を上げる。見上げた先では顔を赤くした杉元くんが口元を覆って視線を右往左往させており、今の一言が嘘や世辞ではないことを物語っていた。
つまり本心から私のことを、綺麗だと。

「…さっき言いかけたことなんだけど」

さっき、言いかけたこと。知らない人になったみたいにの先のことか。

「かなみちゃん、久々に会ったら全然知らない人になっちゃったみたいに…綺麗になってたから。 だから変な奴に付き纏われたりしないかなって、どうしても心配になるって、そう言おうとしてた」

ぴたりと張り付きあった掌が熱い。私の熱か杉元くんの熱か、或いは両方か。
杉元くんの熱を帯びた視線を浴びていると私の割合の方が大きいんじゃないかという気がしてくる。

「北口の騒ぎも、だから心配だったんだ。 怪しい男が駅員に声かけられて逃げ出して、階段で足滑らせて転げ落ちたんだって聞いて…もしかしてかなみちゃんのストーカーじゃないかって、そんなこと考えたら居ても立っても居られなかった」

大袈裟だよと笑い飛ばすには、私達の間には緊張感があり過ぎた。渇いた喉から声を出そうと思うならもう少し気合が必要で、少しのそれをひり出すには杉元くんの視線から逃れなければ無理だった。
そろそろと視線を落としていく。杉元くんはそれを咎めなかった。

「ストーカーなんて…私にいるワケ無いよ」
「いるかもしれない。 雲隠れした元カレとか、そういうのが危ないんだから」

それが一番無いと思うのだが、杉元くんの口調は確信を得ているかの様に固く、反論するのが憚られた。実の親だってここまでの欲目を持ってはくれないだろう。顔から火が出そうな程に恥ずかしい。違う、嬉しい。
と、ざらりとした、でも温かい感触に頬を撫でられた。視界の端をちらつく袖口に杉元くんの手だと知る。手を繋いだ方とは逆の手が、丹念に私の頬を愛撫していた。

「好きだよ、かなみちゃん。 今更って思われても引けないくらい好きなんだ」

耳朶を吐息が掠める。ひそひそと囁きかけられる告白に、思考が呆けた。
杉元くんが私を、好き。
…佐一ちゃんが。私を。

「ちょっとでもあの時のこと許してもいいって思ってくれるなら、俺と付き合ってください」

許すも何も無い。だってあれは私が勝手に自爆しただけの話で、杉元くんは、佐一ちゃんは何も悪くない。
…そう言ったら、この告白を断ることになるのだろうか。
佐一ちゃんの恋人になれると思っただけで、心臓が止まりそうなくらい嬉しいのに。

「…あれは、もういいの。 私が勝手に焦ってただけの話で、佐一ちゃんは何も悪くなんて無いから。 だからそういう許す許さない無しに好きだって思ってくれるなら、それなら私、佐一ちゃんと一緒に居たい」

声に出して佐一ちゃんと呼ぶのは随分久し振りな気がして、それもそうだとひとり頷いた。だって中学の、あの時以来だ。
…耳元で聞いていた佐一ちゃんの呼吸が止まっている。
そっと盗み見てみると、俯いている為、目頭にいっぱいの涙を溜めた横顔が目に飛び込んできた。ぐっと噛み締めた唇は戦慄いていて、それ以上力を入れると噛み切ってしまいそうだった。

「さ、佐一ちゃん? 大丈夫?」

肩から下げていた通勤バッグの中から、苦労して片手でハンカチを取り出す。それをそっと目元に充てがうと、まるで鼻先をすり寄せてくる犬の様に自ら拭われに動くものだからつい笑ってしまった。本当に、佐一ちゃんは可愛い。

「ご、ごめん…情けなくて、俺…でも嬉しくって…」

ずるりと鼻を啜る音がハンカチの内側で鳴っている。これではもう寅ちゃんのことを泣き虫とは揶揄出来ないなと思いながら、私は可愛い恋人の手にハンカチを握らせてティッシュを探した。もうそのハンカチは捨てるつもりだから鼻を拭くのに使ってもらっても構わないのだが、佐一ちゃんはきっと遠慮するだろうから。それとも元恋人からの貰い物だと暴露すれば、思い切り鼻をかむのだろうか。想像して笑う。私のこころはもうすっかり佐一ちゃんに戻ってしまっていた。

「ふふ。 佐一ちゃん、もう歩ける?」
「平気…だけど、俺、目ぇ赤くない?」
「うん、真っ赤」
「やだぁ恥ずかしい!」
「可愛いから大丈夫だよ。 お店着いたらおしぼり貰おうね」
「うん…あ、マスクあるんだった」
「え、なんで? 風邪引いてた?」
「ううん。 ちょっとね、変装用」
「変装…?」
「これ以上はナーイショ」

言ってにっこりと笑う佐一ちゃんの向こう、サイレン無しに走り出した救急車を見送る野次馬が口々に囃し立てる噂が勝手に耳に飛び込んでくる。
…ふうん。駅員さんに追いかけられて階段から転げ落ちたっていうの、元恋人を待ち構えていたストーカーだったんだ。駅員さんに通報したっていうマスクの人、お手柄だなあ。

「…まさかね」

電車に乗る時にマスクする人なんて、いっぱいいるよね。