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明日は明日の風が吹く

姉が逃げた。切羽詰まった表情でそう言った父の顔からは、完全に血の気が引いていた。

「かなみ、今すぐ支度しなさい」
「嘘でしょ…」
「大丈夫、お姉ちゃんとお前はそっくりだから」

言われるまま出掛ける支度をする。いや、正しくは支度をする為に家を出る。向かう先は駅前の美容室で、きっとあちらはあちらで予定時刻を過ぎても現れない私達に気を揉んでいるだろう。
今日は大安吉日。私の五歳上の姉のお見合いの日───だった。

「無茶だよ…正直に言った方がいいって」
「この話を組んだ人の顔があるんだよ。 相手は独身貴族を謳歌してる人だから元々形だけの見合いだし、な? 二時間くらい着物着てにこにこしてくれてたらそれでいいから」

私の姉は正しく大和撫子を体現した人だった。身内の欲目を差し引いても断言出来る。さらさらの長い黒髪に白磁の肌は人形じみて、けれどくりくりの大きな瞳から放たれる愛嬌は見つめたものを尽く虜にし、細筆で引いた様な薄紅の唇から歯茎が覗いたことはない。
対して私は良くも悪くも平凡で、ともすれば心無い人から姉の出涸らしとさえ揶揄される出来栄えだった。
しかしそんな無礼者を黙らせるのもまた姉で、悲しげに眦を下げ、どうして妹にそんな酷いことをと呟くだけで私に頭を下げない者はいなかった。皆、姉に嫌われることをとても恐れていた。

「それにお前も結婚出来ない歳じゃないしな。 相手方がお前を気に入ればその時にお姉ちゃんのことは話すさ」

周囲はそんなだったけれど、幸い両親は姉妹分け隔てなく育ててくれた。いや、場合によっては私の方を優遇していたか。自然と周囲が手を差し伸べてくれる姉と違い、私は放っておけば延々と一人で四苦八苦しているから。
…だから、実は。姉が今日逃げた理由が分からないでもないのだ。

「三十路も終わろうかって人と話が合うとは思えないけど」

姉の元に舞い込んだ今回の縁談は、長く独り身を貫くとある男性の境遇を憂う周囲のお節介に端を発している。当の本人は縁があれば歳がいくつでも伴侶は得られるでしょうと宣っているらしいのに、その歳で初婚もまだとなると人格ないし背景に問題がある様に勘繰られるとして焦っているとか。あらぬ誤解を避ける為に身を固めさせなければと、私がそんな世話を焼かれたら怒鳴りたくなる様なお節介に今回巻き込まれたのが我が家だった。
姉の評判を聞きつけたあちらの取り巻きの誰かが、この人ならばと白羽の矢を立てたのである。そして伝手を辿り、父に断らせない相手から話を持ちかけてきて今に至る。

「まあ綺麗な格好して美味しい物が食べられるって思ってくれたらそれでいいさ。 正直、俺はまだどっちにも嫁にいって欲しくないなあ」
「お姉ちゃんは適齢期だけどね」

車を運転する父の後ろ首を見つめながら、お見合いしてくれと頭を下げた父の後頭部を呆然と見下ろしていた姉の唇を思い出す。嫌だと声に出せず、しかしはくはくと喘いだ唇の動きは明白だった。
…姉に言い寄る輩は多かった。見てくれに誘われる有象無象の中から、例えば毎日たこ焼きでもいいくらい好物なんだと言っても幻滅したなんて言わないでいてくれる人を、姉は必死に探していた。それこそ部屋着が中学時代のジャージだって目を逸らさずにいてくれる、そんな普通の恋人を求めていたのに。

「…お姉ちゃん、今頃何処かな」

姉の手を取って逃げてくれた人がいたなら、妹としてこれ程嬉しいことは無い。出涸らしと揶揄された恨みを向けたことがないと言えば嘘になるけれど、勝手な理想を貼り付けられた姉はいつ窒息してもおかしくなかったことを知っている。
…車が停まった。
慌てて店から駆け出してくる美容室のスタッフさん達は、車から降りてきたのが姉でないことに目を白黒させている。姉がいなくなりましてと苦笑いで説明する私は、さてどこまで姉に近付けてもらえるのだろう。



金襴の帯を締め、長く垂れた袖が前後に大きく振れない様に努めて歩く。廊下を滑る足袋の感触は心許なくて、いつ勢い余って後ろにひっくり返るか分かったものではない。
お見合いの場は、いかにもな料亭だった。
立派に聳える松の木を畔に備えた池を中心にしていくつかの離れが点在し、それらを繋ぐ渡り廊下の下には水路がある。足早に案内してくれるのはどうやら女将さんらしく、あちこちで見かける女性達とは明らかに着ている物が違っていた。

「こちらで鶴見様は既にお待ちでございます。 …急かしてしまって申し訳ありません」
「い、いえ、遅れ、たのは、こちらです、から」

やっと先方の待つ離れに辿り着いた時には私の息は少し切れていて、それに気付いた女将さんはバツが悪そうに頭を下げた。大急ぎで支度を整えたものの、始めの遅れは取り戻すことが出来なかった為に十分遅刻している。この料亭はお見合い相手の鶴見さんという方の行き付けらしく、その縁でお見合いの場にと指定された様だから女将さんも気が気で無かったのだろう。お得意様を待たせる小娘がと内心睨まれている気がしてならない。大きく、しかし静かに深呼吸を三回繰り返す。

「…はい、大丈夫です」
「では開けます。
…鶴見様、日鳥様がお見えになられました」
「どうぞ」

廊下に膝を着いた女将さんが障子越しに声をかける。ほぼ間を置かずに返された声は調子こそ穏やかだが、やはり内心どう思われていることやらと気が重くなる。姉ならば一目姿を見せるだけで全てチャラにしてみせただろうに、私ではそれは望めない。
…いや、どうせ姉ではない時点でこの話の行く末は決まっているのだ。気負うことなど何も無い。障子が引かれると同時に勢い良く頭を下げた。

「遅れてしまい申し訳ありませんでした!」

障子を開けてくれた女将さんの肩がぴくりと跳ねたのが視界の端に映る。少し声が大きかったかもしれないと反省してももう遅く、ただ鶴見さんとやらのお声を待った。
ふふと、軽やかな笑い声が響いた。

「聞いていたよりも元気なお嬢さんだ。 なに、この程度待った内に入りませんよ。 どうぞお顔を上げてお座りになって下さい」

落ち着き払ったその声音は、私と同年代の男子には出せない逸品だ。耳に心地好く馴染むそれに促され、私は意図せずつい顔を上げていた。
…正直、意表を突かれた。
何かと理由をつけて周囲のお節介を出来る限り躱しつつ独身貴族を謳歌する中年、そういう情報を全てマイナスに捉えていた自分の浅はかさを思い知らされる。結婚を枷にしか思わない様な、きっとそういういい加減な男なのだという先入観が砕け散った。

「鶴見篤四郎と言います。 初めまして」

前から後ろへ、緩やかに撫で付けた髪は自然な光沢を放っている。鼻下と顎に蓄えられた髭もきっちりと整えられていて不潔さなどまるでなく、むしろかっちりと纏った仕立ての良いスーツと相俟ってまるで隙がない。有り体に言えば、そう、紳士という形容が相応しい人だった。
気がつけば吸い寄せられる様に鶴見さんの正面に腰を下ろしていて、いつの間にやら私の前にはお茶が置かれていた。にこりと深まる彼の笑みに、慌てて目を伏せる。

「日鳥、ユキエと申します」

…慌てるあまり自分の名を名乗ろうとしてしまった。しかし鶴見さんは妙な噛み方を嘲笑う様子もなく、変わらぬ柔和な笑みを浮かべている。

「ユキエさん。 今日はお会いできて良かった、待ち遠しく思っていましたよ」
「それは…ありがとうございます。 私はどうにも緊張してしまって…」

鶴見さんの言葉に含むところがあるのか無いのか、いまいち分からない。姉の見合い写真と釣書は手元に渡っていたはずで、それを見ているのなら目の前の私が別人と分からないはずが無い。美容室のスタッフさん達はとても頑張ってくれたが土台が違うのだ。

「女将、もう外してもらって結構。 今時は男もお茶を蒸らすくらい出来ますから」
「…はい、では失礼致します」

部屋の隅に黒子の様に控えていた女将さんはちろりと私に視線を走らせ、それから恭しく頭を下げて静かに退出して行った。
うん、いくら私でも今の視線の意味は分かる。鶴見さんにそんな真似はさせるなよという牽制に他ならない。
すっすっと、廊下を滑る足音が遠ざかる。それが聞こえる程の沈黙が私たちの間には横たわっていた。
と。

「…ふう。 やっと足を崩せますね」

やおら鶴見さんが正座を崩し、胡座をかいた。スーツの上着も脱いで座椅子の背もたれに着せてしまい、浮かべる笑みも人懐こい親しみを秘めたものに変わる。ああ、今までのは余所行きだったのかと納得した。

「かなみさんもどうぞ楽に…と言っても振袖ではそう足を崩すことも出来ませんね。 やはりフレンチにするべきでしたか」
「いえ、畳の方が落ち着きます、から…」

足が痺れる前に切り上げられたらと企んでいた所為で反応が遅れてしまった。今鶴見さんは、私をなんと呼んだのか。

「…あの、私の名前は…」

かなみという名の妹がいることは釣書に書いてあったかも知れない。けれど姉とはまるで違う私の顔を見ても訝しむ素振りさえ無かったということは、見合い写真を見ていないはず。釣書にだけ目を通して相手の写真を見ないなんて、そんなことあるのだろうか。鶴見さんは変わらず微笑んでいる。

「かなみさんでしょう? ユキエさんから聞いています」
「え…?」

姉から私のことを聞いているという、有り得るはずのない言葉に二の句が継げなくなる。二人は知り合いだったのだろうか。

「この話が持ち上がってすぐ、ユキエさんの方から私にコンタクトがありました。 用件は勿論今回のお見合いを取り下げて欲しいということでしたが、最初からこれは私の意向を無視した話です。 私にもどうすることも出来ないと告げたところ、ひどく悲しまれまして…想う方が居たのでしょうね」
「…姉にそういう人がいたとは、知りませんでた」

そういう人がいて良かったと、胸を撫で下ろす自分がいる。ならば姉は今、一人では無いのだろう。或いは身一つでその人の元へ飛び込んだのか。何にせよ私の知る姉からは想像もつかない行動力に舌を巻く。
と。

「かなみさんには申し訳ないことをした。 父君もさぞ肝を冷やしたことでしょう。 ユキエさんに逃げてしまいなさいと唆したのは私なのです」
「えっ?」

まさかの暴露に再び絶句する。
いや、自分の見合い話だというのに撤回出来ないとあれば相手にその選択肢を与えることはまだ分かる。
私が驚いたのは。

「…姉が来ないと分かっていたのに、何故今日ここに?」

姉が来ないことを分かっていてここへ現れたこの人の魂胆の底知れなさにだ。すっぽかしを喰らう姿なんて早々見せたいものでは無いだろうに、一体なんのつもりで。

「───ふふ。 賢い人だ」

…少し、ほんの少しだけ、鶴見さんの眼差しが変わった気がした。何だか尻の座りが悪くて足を崩したいが、着物では正座を崩すくらいしか出来ない。出来ればいつでも走って逃げられる体勢になりたいのに。

「私がそういう扱いを受ければ、周囲の者もまた見合いをなどと言っては来ないだろうと考えたのです。 ユキエさんには泥を被ってもらうことになりますが、そこは逃げ出す以上仕方ないことだと承知してくれました」

成程。つまり。

「まさか妹君を、かなみさんを替え玉にしたててくるとは予想外でした。 どうやら余程強引な手で父君にこの見合いを受けさせたようで…申し訳ない限りです」
「…いえ、そこは、こちらもお恥ずかしい限りで…」

こんな似ても似つかない替え玉が現れた時、果たして鶴見さんはどう思ったのか。それを考えるだけで顔から火が出そうで、今さっきとは別の理由から逃げ出したくなる。俯いた先、湯呑みの中に称えられた煎茶の鮮やかな水面に映る己の顔は直視に耐え難い。少しでも姉に似せる為、こってりと塗りたくられた顔なんて。

「埋め合わせと言ってはなんですが、どうですか、改めてフレンチなど。 イタリアンの方がお好きでしたら良い店を知っています」
「埋め合わせ…ですか?」

そんな私の気を知ってか知らずか、鶴見さんはその底知れない瞳を私から逸らしてはくれない。それこそ眼力だけで白粉が剥がされてしまいそうで、私はつい頬に手を宛てがった。

「元はと言えば私の無精が全ての発端です。 迷惑をおかけしたお詫びに、そして姉孝行のかなみさんを労う意味で是非一席設けさせて下さい」
「いえ、そんな、お気遣いなく」
「かなみさんの父君のお仕事に直接関われない私にはこのくらいしか報いることが出来ないのです。 年寄りの頼みと思って、どうか気安く受けて下さいませんか」
「年寄りなんて…」

そんなお歳では無いでしょうと言いながら、私は鶴見さんの誘いを断れる気がしなかった。どう言い募ろうとも回り込まれてしまいそうで、けれどそこまで食い下がられると思うのは自惚れている様で気恥ずかしい。ただ単に、振り回された小娘を可哀想に思う年長者の労りに過ぎないのかもしれないのに。
鶴見さんはにこにこと笑っている。ぴりぴりと痺れ出した足をこっそり擦りながら、私は腹を括る。

「……あの、では、是非フレンチで」

承知しましたと一層笑みを深める鶴見さんと、これから二度三度と会い続けることになるなどと、この時の私は知る由もなく。更に一年後、同じ料亭で同じ振袖を来て、随分歳上の婚約者と手を取り合う自分など想像だにしていなかった。