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真昼のサバト

身支度を整える。と言っても弱視である私では精度に欠ける為、どうしたって母の手に頼らざるを得なかった。きちんと出来たと思っていた髪も結わえ直されて自信を失くす。
しかし帯が何度も解かれるのは母の拘りだろう。未婚の娘なら、けれどもう子供じゃないのだからとぶつぶつ呟きながら、あれやこれやとあらゆる結び方を試していた。
今日、鶴見中尉が我が家にお見えになられる。
表向きは商いをしている我が家に相談があっての訪問となっているが、真意が私とのお見合いであることは一握りの人間しか知らない。もう少ししたら一日限りの随伴を務める兄と共に、あの方は現れるだろう。

「粗相の無い様にね」

普段私をしっかり者の娘だと褒めてくれる母は、朝からこれだけを繰り返している。私の行く先は親戚筋の後妻入りしかないと長く憂いていたから、今回の話を逃したくないと考えているらしい。恋われてもらわれるならそれ程の幸せは無いと父も頷いている。
…当人の私はと言えば、あの朝に抱いた不安が拭えていない。あの人はとても怖い人なのかも知れないと言う印象が、どうしたって消えないのだ。
一階の奥座敷で鶴見中尉の訪ないを待つ。格子越しに外を見ても私の目では人の顔形など分かりはしないのに、見るのを止められなかった。良くも悪くもあの方だけは分かる気がして。
と。

「かなみ、来たぞ」

とすとすと、廊下を爪先で軽く駆ける音が近付いてくる。襖の前でぴたりと止まったその持ち主が兄であるとは声を聞く前から分かっていたが、やはりその声を聞くとほっとするものがあった。

「兄さん、お帰りなさい」

この奥座敷に放り込まれてから初めて発した自分の声が少し震えていることに誰あろう私自身が驚いた。これでは緊張しているのだと誤解させてしまうかも知れない。

「大丈夫か? 鶴見中尉は今父さんと話をしている、来られる前に白湯でも飲むか?」

兄は私に対して少し過保護だ。それが思いやり故のものだけでないと知っていても、私はそんな優しい程に意気地なしの兄が大好きだった。

「大丈夫だよ。 白湯なら今こっちで沸かしてるから」

火鉢の上に渡した網の上に鉄瓶を乗せ、ぐらぐらと煮立つ音を聞いている。そろそろ下ろしておかないといけない。鶴見中尉が猫舌かは分からないが、熱さに強い人でも耳朶を触る温度だろう。

「緊張しなくていい、鶴見中尉はお優しい人だ。 お前ならきっと大丈夫」
「うん。 ありがとう、兄さん」

襖越しのやりとりを終えて、兄が去っていく足音を聞く。実家であるというのに足音を憚るその素振りはきっと鶴見中尉への敬意なのだろう。
あの日までの、鶴見中尉と出会うまでの私なら、そんな兄の姿を微笑ましく見守れた。けれど今はその袖を引いて止めたくなってしまう。死なないでと、兄が志願兵として旅立って行ったあの日の様に。
…足音が聞こえる。
すっすと、廊下を滑る様な足音。それに続くとすとすという爪先立ちの歩き方は兄のものだ。だから先行する足音はあの人のものに相違ない。

「入ってもよろしいかな」

嗚呼やはりと息を吐きそうになったのを堪え、どうぞと返す。すらりと開かれた襖の向こう、見覚えのある配色の人影───鶴見中尉が立っていらした。どうやら襖を開けたのは兄らしい。

「御機嫌ようかなみさん。 数日振りだね」

言いながら部屋に入ってくる鶴見さんを、三つ指着いて出迎える。

「御無沙汰しております、鶴見中尉。 本日は態々出向いて頂き、恐縮至極にございます」

本来なら然るべき場所にて行われるはずの見合いがこうなっているのは、鶴見中尉から申し出があったからだ。
慣れぬ場所で食事をするというのは、弱視の私にとっては酷く神経を使う。先ず椅子と机の間合いを掴むのに一苦労するし、運ばれてきた料理が何か分からなければ手が着けられない。特に見合い相手の前で、折角の御馳走を箸で穿り返す真似なぞ出来る訳が無い。
そう言った事情を汲み取ってくれたらしい鶴見中尉が、気取らない席で他愛なく話をしたいのですと言ってくれたから現在がある。或いは兄が訴えてくれたのかも知れないが、それを聞き入れてくれたのなら素直に鶴見中尉の気遣いと受け取るべきだろう。感謝の念を込めて下げていた頭を、上げる様促される。

「楽になさってどうぞ。 うら若き女性を跪かせるなどという罪深き行いは胸が痛む。 それが貴女となれば尚更です」

極近いところに鶴見中尉が腰を下ろしたことを、物音と気配で察する。ぽんと肩に置かれた手に導かれて顔を上げると、視界の中央を白が占めた。やはり近い。

「ああ、今日は一段と美しい。 そのおめかしは私の為と思ってよろしいかな?」

母が整えてくれた髪は、項が見える様結い上げられている。いつも下ろしっ放しか、左肩に垂らして一本に結ぶだけなので少々頭が重くていけない。知らず俯いてしまうのはその重みに耐え兼ねたからなのか鶴見中尉の言葉に照れたからなのか、我ながら分かりかねた。

「似合っているでしょうか」

両親は揃って褒めそやしてくれたが、鏡を見ても自分の顔はまるで分からないから実感が無い。着物だって母が祖母から受け継いだというとっておきの物を出して来てくれたのに、その見事な細工だという柄が分からなかった。まだよく見える頃に見ていたら今も覚えていられただろうかと詮無いことを考える。

「勿論です。 世が世なら太閤を惑わせた淀君と比肩したことでしょう」
「そんな…畏れ入ります」

大袈裟な例えに増々俯いてしまう。本気にしろ世辞にしろ、こうまで真摯な声で告げられては否定する方が罪深い気がする。
と、旋毛に突き刺さっていた鶴見中尉の視線が外れた気配がした。

「下がって良い。 月島以外は取り次ぐな」
「はっ」

一拍の間も置かずに兄の足音が再び遠ざかって行く。軍人として務める姿を目の当たりにしたのは今日が初めてだが、思っていたよりずっとそれらしい姿に安堵と寂しさが入り混じった。
あの兄は、私が知っている兄では無い。

「…お茶と白湯と、どちらをご用意致しましょうか」

鶴見中尉は下戸だと言う。将校ともなれば付き合いで口にする機会も多いだろうに大変だと言ったのは父だったか。

「では白湯で。 …ああ、温かい。 湯呑も温めておいて下さったのですね」

湯に浸して温めておいた手拭いで包んでいた湯呑は温かく、白湯を注いだ後で浮いた水滴を拭き取った。茶托に置いて畳を滑らせようとしたそれをすかさず受け取った鶴見中尉の指は酷く冷えていて、改めて足を運ばせてしまったことが申し訳なくなる。

「お寒い中、足を運ばせてしまって申し訳ありません。 本来なら私が出向かねばならないのに…」

私は、極端に言えばぼやぼやと色の塊が浮いた世界を見ている。かつて目が見えていた頃の記憶を頼りにそれらが何であるかを判別しているから何とかなっているが、何より困るのは遠近感が無いことだった。故に食事で難儀する私に、料理など出来る筈もない。

「なんの、むさ苦しい上に堅苦しい兵営を出る良い口実です。 ふふ、実はこちらに来る前に寄り道をしましてね。 日鳥君から貴女が甘い物がお好きだと聞いて、これをお持ちしない訳にはいかないと」

ぱさりと紙を広げる様な音がする。鶴見中尉の傍らにずっとあった白い塊はお手荷物だろうと気にしていなかったが、今の話から察するに手土産だったらしい。

「私は花園公園の団子がいっとう好きなのです。 さあ、ほら。 お口を開けて」
「えっ」

鼻腔に届くだけで喉が渇きそうなくらいの甘ったるい香りに負けない、蠱惑的な声に囁きかけられる。膝に触れる硬い感触は鶴見中尉の膝だろう。鶴見中尉の目印と言ってもいい白と赤が私の目線より少し高いくらいにあって、いくら遠近感が掴めない私にでも近いと分かるところを漂っている。みっともなく宙を掻く手を割り込ませられない程、近くに。

「さ、ほら。 あーん」
「あの…あ、」

楽しげなお声にからかわれているのかと不安になる。と、顎をかさついた何かに擦られて背筋が跳ねた。
…動きの繊細さからして指だと思われる。誰のとは考えるまでもない。私の口元に団子を突き付ける手とは逆の手で顎を捉えられているのだと、遅れて理解した。

「あ、む」

下唇に触れぬぎりぎりのところを押さえた指に力が籠められる。はくりと開いた口にそっと押し込まれた団子の蜜が口の端を汚すのが分かって、けれど鶴見中尉を押し退けることなんて出来ない。恥ずかしくて堪らなくて、口の中にある団子に思い切り歯を立てた。

「ふふ。 美味しいでしょう?」

それを確認した鶴見中尉が串を引いて下さってほっとしたのも束の間、顎を捉える手が離れない。離してくれと訴えたくてもまだ団子が咥内にあって、まさかこの方はこのまま咀嚼させようとしいるのかと最悪の想像が頭を過る。きっと離して下さらないと分かっていても、顎を苛む手に掴みかからずにはいられなかった。

「どうされました? ほら、よく噛んで飲み込まないと詰まらせてしまいますよ。 はい、いち、に、いち、に」
「ん、んん、む、ぐ」

団子を持っていた鶴見中尉の手が一度下がり、空になって返ってきた。その手は私に確認させる様に目の前を通って後頭部に回り、逆の手が無理矢理に私の顎を上下させる。自分の意志に依らない咀嚼は上手く行かなくて、ただ団子は丸いまま舌の上で転がった。ふふふと、鶴見中尉が笑う。

「すみません、どうにも貴女が可愛らしくて、つい」

漸く解放された顎を使い、急いで団子を噛み砕く。ごくりと嚥下する様までを間近で見届けられるだなんて、恥ずかしくていっそ消えてしまいたい。
と。

「、や、離してくださ、」
「じっとして」

蜜に塗れた口元を拭おうとした手が、顎を捉えていた手に捕まる。もう片方の手は後頭部に回された鶴見中尉の腕に阻まれて届かず、気が付けば私は身動きが取れなくなってしまっていた。
…こわい。やっぱりこの人は、とても怖い人だ。

「ひっ」

ねろりと、口の端を温かいものが這う。上から下へ、触れた時間は一瞬に等しかっただろう。鶴見中尉が吐息だけで笑うのが分かる。その吐息が拭われた蜜の跡にかかって、くすぐったいのにぞっとした。

「じっとして」

再び囁きかけられる言葉に、身体の震えすら制される。そうして右の次は左だと、当然とばかりに口元を這う温かさの正体を嫌々ながら理解した。兄以外の男性と手を繋いだことも無いのに、口づけだってまだだったのに、こんな、こんなこと。

「嗚呼、泣かないで下さい。 そんな可愛い顔をされると年甲斐もなく興奮してしまう」

膜のままで絶えていた涙が玉となって頬を滑って行く。折角母が出してくれた着物が濡れてしまうのに、恐怖に抱き竦められたままでは泣き止むなど出来る筈もない。後頭部を鷲掴みにしていた手が宥める様に背を滑る。

「大切にします。 鳥を囲う様に、鉢植えの花を愛でる様に。 良い医者も探しましょう。 どうか死ぬまでに私のこの醜い有様をそのまなこに焼きつけて下さい、可愛い人」

芝居の台詞の様な睦言を紡いだ口で私の唇を食むその人の眼差しは、瞼では防げないくらいに怖いのだろう。きっと一生見てはいけない人だった。あの日、あの道でこの人に見つかってはいけなかった。この人の隣で着る白は、死装束になる。

「かなみさん」

がちりと、錠の落ちる音が聞こえた気がした。