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舗装済みの恋路

「おはよう、かなみさん。 身体の具合はどうですか」
「おはようございます、音之進さん。 はい、ご覧の通り上々です」

私が拾われてからこちら、毎朝この方は私を探し回る。目的はこの他愛ないやりとりの為で、大丈夫だと答えて漸くほっと胸を撫で下ろす姿には心温まるものがある。

「もうお発ちですか」
「ええ、勤めて参ります。 いつも通りの時間に戻れるとは思いますが、急に移動を命じられる場合もあるでしょう。 着替えの準備だけ、整えておいてもらえますか」

すっかり軍人さんらしい出で立ちに着替えた音之進さんは、きっと市井の婦女子が見れば溜め息を漏らしてしまう様な美男子である。薩摩のご出身故にたまに訛りのきついお国言葉が出てきて意志の疎通に困るけれど、基本的にはきはきと物を仰るので裏を探る必要が無くて良い。挙句、代々続く軍人一族ということで年若くも少尉の階級に就き、将来も約束されているとなれば婦女子にとって垂涎のお相手だろう。なのにどうして今以て独り身なのか私には分からないが、知る必要も無いと割り切っている。
何せ私は己のことすら分からない行き倒れの身だ。雪山で凍死寸前のところを雪中行軍訓練中の音之進さんに救われ、今まで面倒を見て貰っている。どうして行き倒れていたのか、そも己の名前すら忘れたと言う怪しい女を受け入れてくれた音之進さんには感謝の念が堪えない。あのまま放り出されていたら、きっと私は野垂れ死ぬか女を売って生きていくかの二択しかなかった。
だから身体がまともに動かせる様になってから、恩を返すせめてもの手段として下女らしい働きを始めてみた。小樽の町の中にある、音之進さんが私費で購入したという邸宅は最低限の掃除をするくらいしか使用人が置かれていない。この立派な御家が、行く行くは上位の将校になろうという人の家がそれではいけないと勝手に始めた真似事は今のところ上手く行っている様だった。

「行ってらっしゃいませ」
「行って参ります。 くれぐれも外出はなさいません様に」

いつも通りのやり取りをして、音之進さんを見送る。今日も出かけてはいけないのかと少し憂鬱になるが、何も意地悪を言われている訳ではないのだからと己を叱咤する。
凍死寸前だった割には後遺症も何もなく快癒した私の身体は、お医者様からももう大丈夫ですとお墨付きを頂いている。けれど音之進さんは用心深いのか心配性なのか、未だに私の外出を禁じていた。

「出歩いたら、思い出せることもあるかも知れないのに」

最初は自分の名前はおろかあらゆる言葉も忘れていた私だが、寝込んでいる間、枕元にやってきた人々の交わす会話を聞いて徐々に取り戻していった。三日も経てば日常会話に支障はなくなり、七日経つ頃には自身の痛覚の有様をお医者様に陳述出来るまでに回復して。
しかし自身の名前や家族の有無だとか、そういう事柄に関しての一切は未だに何も思い出せていなかった。音之進さんが仮初でつけて下さったかなみという名前の方に愛着が湧いてきている今、名前くらいは思い出さなくてもいいかという想いすら抱きつつある一方で、心配しているだろう家族がいたらという懸念が消えない。それにいつまでも音之進さんのところで厄介になっていたら、それこそあの方の良縁の邪魔をしてしまいそうで怖かった。

「せめて働けるところを探さないとなあ」

料理も裁縫も人並みにしかこなせない手のひらを眺める。一年後の今日も同じことをしているのかと思うと、少しだけ怖かった。

*

「彼女の様子はどうだ」
「…お身体は快癒されたものの、変わらず記憶は戻っていないそうです」

目の前に座る、誰よりも敬愛すべき上官の質問に答える為に傍らの部下に耳打ちする。囁いたままを報告する部下はこの時ばかりは至極真剣に耳を傾けており、普段の報告もこうして中継ぎをしてくれれば良いのにと臍を噛む。
花沢かなみを、第七師団長花沢幸次郎の血の繋がらぬ遺児を見つけたのは偶然だった。
旭川から小樽へ呼び戻されての道すがら、立ち寄った町で保護されていた死にかけの少女。身一つで雪山に放り出されていたところを町の猟師に発見され、最寄りのこの町へ連れられてきたらしい。小さな診療所は右へ左への大騒ぎとなっており、何故あんなに騒々しいのかと訪ねたのがある意味運の尽きだった。軍人であるというだけで警察代わりに駆り出された鯉登は、青白い顔で横たわる彼女を見てあらん限りの声を上げた。いつか友人である花沢勇作に見せられた写真の少女が、死体の様な有様で目の前に横たわっていたのだから。

「そうか。 まだ戻らんか」

御労しいと首を横に振る上官は心から少女を慮っている。少なくとも鯉登はそう信じきっていた。傍らの部下も沈痛な面持ちをしているのは意外だったが、亡き花沢勇作は義妹が出来たことをあちこちで吹聴していたと言う。それに彼の遺骨を引取に来たのはその義妹当人で、彼女の応対に当たったのは敬愛する上官だ。ならば側近たる部下も居合わせて、二言三言くらいは言葉を交わしたのだろう。自分は生憎同席することが叶わなったが、出迎えた他の隊員達はこぞって健気な少女だったと庇護欲を掻きたてられていた様だから彼も例に漏れなかったと、それだけの話だと思われる。

「頭の医者に診せましたが、見て取れる様な異常は無いとのこと。 なので死に瀕した恐怖を忘れる為に自ら過去を封じたのではないかと、そういう見立ての様です…と言っています」

頭の医者を自宅に招いたとあっては醜聞が立つ。上手く偽装して招いた医師には万一漏れることがあれば謀反の罪で引き立ててやると脅してあるから後顧の憂いは無い。

「それには私も同意見だ。 うら若き女性が自宅から浚い出された挙句、雪山で遭難しかけるなど…なんと痛ましい。 うん、当人から確認が取れてから発令するつもりであったが、こうなれば猶予はあるまい」

浚い出された、というのは鯉登にとって初耳だった。当主の自決に伴い瓦解した花沢家から忽然と姿を消したと聞いた時に一度考慮したが、それならそれで捜索網が敷かれるはずだろうといつしか視野外に追いやっていた可能性。───下手人はどいつだと毛が逆立つ。
と。

「鯉登少尉」

こつんと、上官の指が机を打つ。ぴっと背筋を正して続く言葉を待った。

「かなみ嬢を心身喪失するに至らしめた下手人の捕縛をお前に一任しよう。 第一容疑者は現在脱走兵に身を窶した尾形百之助元上等兵…知っていたかは定かでないが、彼女にとって義理の兄に当たる男だ」
「───」

尾形百之助。上等兵に取り立てられるだけの技量を持つ、師団の鼻つまみ者。鯉登も例に漏れず疎ましく感じていた男だ。報告も無しに単独行動に出た結果、深手を負って入院するなどという失態を犯した矢先に雲隠れしたのだったか。
いくら射撃の腕が良くても一人では何も出来まいと軽んじていた自分を張り飛ばしてやりたくなる。いくら旭川で別任務に当たっていたとは言え、少尉という地位にある自分には出来ることがあったはずなのに。己の怠慢の結果があの少女の現状である。握り締めた拳が有り余る怒りで震えた。

「〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッ! キエエエエエエエ!!」
「うん、全然分からん。 月島、聞き取れたか?」
「いえ全く」

気合の雄叫びを上げて部屋を飛び出す。背後で上官と部下が何事か言葉を交わしていた様だが、呼び止められないということは止まらずとも良いということに違いない。
尾形の足取りは茨戸で再び途絶えている。差し当たってはあちらで情報収集に当たり、追わなければ。いやその前に一度彼女の元へ戻り出立の旨を伝えておかないとならない。加えて、再び尾形が彼女を狙わんとする可能性もあるのだから警備の手配をかけることを考えればやはり今日中の出立は難しいだろう。
しかし躊躇いは無い。一刻を惜しんで事に当たる決意が生まれている。実の両親も養父も義兄も喪い、義母と実姉は心労の為に倒れた彼女を護ってやれるのは自分しかいないのだ。嗚呼、ならば連れ歩いて常に手元に置いておくのが一番安全ではないか。

「かなみさん! おいが、おいが貴女を護いもす! じゃっでん安心して待っちょんくんやっせ!」
「はい? …はい?」

*

「…本当に尾形が、かなみ嬢を?」

鯉登の足音がけたたましく遠ざかって行くのを見送って、月島は口を開く。そのまま逃げ切ってくれと願った少女の無残な生還に、あの時手を尽くして捜索していれば良かったのかと揺らぐ心を必死で押し殺す。

「花沢の屋敷から彼女を浚い出したのは間違いなく尾形だ。 殺意があって放り出したのか、はぐれたか、或いは彼女が逃げ出して遭難したか…そこまでは分からんがな。
 だがこれは好機である。 養子縁組という手続きを踏んで正式に花沢幸次郎中将の子として名を連ねるかなみ嬢を鯉登と娶わせれば、彼の家の人脈、財力、その全てを掌握出来る。 海軍少将の嫡男と縁を持てるとなれば親戚筋も文句は言うまい。 海老で鯛が釣れるのだから」
「しかし…かなみ嬢が記憶を取り戻す可能性もあります」

冗長な鶴見の語りは無慈悲で、そこに少女の意志は無い。意見することが叶わないとは身に沁みて分かっているものの、黙っていることは出来なかった。
にいと、鶴見の薄い唇が弧を描く。

「鯉登がしっかり面倒を見ていれば記憶の有無は問題では無い。 彼女が恩と縁に背けぬ善良な人間であると、月島、お前もようく知っているだろう?」
「…はい」

血を吐く想いで声を絞り出す。結局あの少女の幸せは、この北の最果てに足を踏み入れた時点で絶えていたのかもしれない。せめてもの望みが鶴見の言う通り、鯉登が彼女を慈しむことであるという事実が皮肉であった。
…どうしたら、どうしたら彼女を逃がせる。

「それとも月島。 お前が立候補するか?」
「御冗談を」

最早その顔は見れぬと腰を上げ、一礼の後に部屋を出る。あの猪突猛進な青年将校の後を追わなければならない。最早その影さえ見えずとも行先の予想はついた。尾形の最後の足取りが茨戸であるとは、自分が報告した事項である。
───聞き慣れた叫びを門前で聞く。護ってやると、衒いなく口に出来る若さが羨ましかった。