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いざコキュートス

私の恋人は少しおかしい。

「ねえ、寒い」
「だからほら、こっち来いって言ってるだろ」

なんの変哲もない職場恋愛だった。一年先輩の彼と同じ部署で働いている内に距離が近付いて、何となくお互いにいいなと思っているのを察した周囲の後押しを受けて踏み切って。
そうして付き合う前からちょっと変わった男なのは分かっていたし、解りにくいところに惹かれた様なものだったから今更文句は言えない。予想以上だったというのは私の勝手で、別れを切り出す程破天荒に偏屈という訳でもないから。

「クーラーの温度上げてよ…フローリング冷え切ってて素足で歩けないんだけど…!」
「…仕方ねえな」
「なにが仕方な…え? ちょっと、なんでこっちに来るの、ねえ?」

例えば真夏の蒸し暑い夜に突然冷房をガンガンに効かせたり、人が怯えるところを見てにんまり笑ったり。
会社でだって他人のケアレスミスを後日まであげつらって揶揄うし、面倒な案件は相手方が音を上げるまでちくちくとやり込めて撤退させる。あんな性悪とよく付き合ってられるねとは同僚の悪態だが、人が言う程憎たらしく思えないのだから仕方ない。この男は何故か、出会った頃から私を悪く扱わないのだ。その理由を特に気に障らなかったからだと嘯いていたが、少し前に退職した係長とはしょっちゅう衝突していたからそんなことは無いと思う。嗚呼だから私に気があると周囲に悟られたのかと納得する。

「あーあ重てえ」

只の営業マンにはあるまじき逞しさを誇る腕は私を軽々と横抱きで抱き上げ、毛足の長いラグマットまで移動する。人をダメにするクッションを背もたれにして座り込んだ尾形はしかし私を下ろそうとはせず、むしろしっかりと抱え直して寛ぎ始めた。

「…くっつきたかったの?」
「…寒いんだろ。 俺は涼しいくらいだけど」

暑がりで寒がりのクセに何を言っているのか。しかし何故突然部屋を極寒に至らしめたかが分かった今となってはこの強がりも可愛いと思える。可哀想な剥き出しの腕を撫でてやりながらこちらからも身を寄せれば、背を支える尾形の腕に力が篭った。

「風邪引くよ」
「ハッ、白石じゃあるまいし」
「バカなんだって笑われたくなかったらちゃんと予防して。 来週は出張でしょ」

不服そうに唇を真一文字に引き結び、渋々リモコンを取って冷房の設定温度を上げるのを見届けて漸くほっと息を吐く。プライドが高いというか、単純に負けず嫌いだから言葉を選べばある程度コントロール出来る点は惚れた欲目でなく可愛いと思う。周囲もこう扱えば尾形も早々反目しないのではと思うが、一社会人相手にそんな手間をかけるなんてやってられないという気持ちも分かるからなんとも言えない。
と。

「なあ」
「ん、」

尾形が首筋に額を擦り寄せてきた。洗い立ての髪は下ろされていて、普段は後ろへ撫で付けられている前髪がさらさらと頬にまでじゃれついてきて擽ったい。口に入りそうになったそれを避ける為、いつもの尾形の手つきを真似て髪を撫で付ける。
…尾形の膝の上で、尾形に覆い被さられて。なんだかぬいぐるみか抱き枕にでもなった気分だ。

「眠い?」
「ヤリたい」
「だめ」

設定温度を上げたとはいえ、まだ部屋はとんでもない寒波で満たされている。にも関わらずその分厚い身体が温かいのは眠気故かと思いきや、まさかの発情宣言に呆れと羞恥が込み上げる。明日も会社だと言うのに何を考えているのか。

「…一回だけ」
「いつもそう言って一回で終わったことないでしょ。 だめ、ほら、立って」

飲み会などで程々に下ネタを嗜みつつ嫌いな相手を下品に罵倒するのが常套手段の尾形だが、それでも不思議と実際の性生活は淡白なのだろうという印象があった。普段の様子から、例えば物を受け渡す際には手ずからという手段を先ず取らないから、尾形が他人との接触を好まないというのは誰しもが見て知っている。つまり私だけでなく同期や同部署の総意だったのだ。
それがいざ付き合ってみればとにかくくっつきたがるしほぼ毎日求めてくるしで、そのギャップに私がどれだけ驚いたか。
流石の尾形も付き合い始めは浮かれるのかと思ったが、もう倦怠期に入ってもおかしくない年月が経てばこういう男だったのだと認めざるを得ない。意外に愛情深いのだと、その矛先が自分となると悪い気なんてするはずがなかった。

「かなみ」

尾形の低い声が耳に直接吹き込まれる。背を叩いて立つ様に促していた手が、知らず止まる。

「来週の出張、同行者はお前に変わるからな。 準備しとけよ」
「え…」
「さ、寝るか」
「わっ」

どういうことだと聞き返す前に勢いよく抱き上げられ、問い質そうと開いた口からは代わりに小さな悲鳴が漏れた。思わずしがみついた尾形の太い首から伝わる脈動は落ち着いていて、一切の乱れが無い。
…来週の出張。内容は従来の顧客と新商品の打ち合わせ、並びにあちらの社内プレゼンに参加する為だったか。
元々その顧客の担当だった尾形がメインなのは言わずもがな、同行者には新商品の開発に携わった一人が選ばれている。確か入社して三年かそこらの女性社員だったはずだ。やっと新人気質が抜けてきたであろう頃に尾形と二人っきりの出張だなんて大丈夫かと同僚と心配したことは記憶に新しい。企画開発部にいる杉元先輩も同じ心配をしていたから、もしかしたら違う人に代わっているかもしれないけれど。
でもその代役は、営業部の私になるはずがない。なのにどうして尾形はあんな確信めいて言い切ったのだろう。
…これだから私の恋人は少しおかしいのだ。
本当に突拍子もないことをなんてことのない顔でやらかすから。
せめて仕事に私情は持ち込まないで欲しいものである。

🌾

杉元は元々営業部にいた。しかし商品の売り込みをこなせる話術に乏しく、杉元自身も次第に商品開発の方に興味が移って行ったことから企画開発部に異動願いを出し、今に至る。
自身の発案した物が商品化されるこの仕事の達成感は病み付きだった。時に顧客のニーズに応えた物を手がけることもあれば、既存商品の改良或いは改造もある。コストダウンの為にグレードダウンさせる開発はなんだか憂鬱だが、顧客にも都合があるのだと割り切って臨んでいる。

「…あ? 尾形?」

長らく携わっていた新商品の開発も大詰めとなり、 あとは営業部を始めとした各部署に回す書類作りだけとなっていたある朝。今日こそ営業部のOKを貰ってやると意気込んでやってきた仕事場には、予想外の人物が待ち構えていた。
入社当時から何かと衝突することの多かった同期、尾形百之助。手堅い顧客を探り当てる手腕により、上層部からの覚えの目出度い男だった。

「よう、杉元班長」

わざとらしく役職名で呼ばれ、思わず眉を顰める。無遠慮にも杉元のデスクに腰掛けたその男はにたにたと嫌な笑みを浮かべていて、それはある種の威嚇だと知っているからこそ警戒を強めざるを得ない。

「何の用だよ」
「書類取りに来たんだよ、新商品の。 なにチンタラやってンだ」

お互い今更取り繕うことはしない。お前が気に入らないと全身で威嚇し合いながら間合いを詰める。
が、ひらひらと振られる手のひらが求める物は未だ準備出来ていない。その後ろめたさが視線をあらぬ方向へやることとなってしまい、それは無言の自白だった。ただでさえ底知れない尾形の瞳がすうと細められる。

「おい。 ふざけんなよプレゼン来週なんだぞ」
「分かってる! だから今必死に作ってンだろ!!」
「はあ…叩き台だけでも午前中に上げろ。 いちいちリテイク入れてちゃ本当に間に合わねえ」
「……わァったよ! ったく、だからフォーマットを営業部で作ってくれって頼んでたってのに…」
「甘えんな。 なんで俺らが他部署の書類まで世話してやんなきゃなんねえんだ」

それはその通りなのだが、こちらが上げる書類にケチをつけるのは大体営業部なのだから手間を無くすという意味でも協力して然るべきだろうというのが本音だ。しかしそれをこの尾形に投げかけたところでまた憎まれ口で叩き落とされるのは目に見えている。

「あーあ…日鳥さんならうんって言ってくれたのに」

だから彼女の名前を出したことに他意は無い。一年後輩の、可愛らしい外見に反して気骨のあるあの子。杉元が異動になるまでの短い間であるが、直接指導に当たっていた縁があって今も先輩と慕ってくれる彼女なら、きっと二つ返事で頷いてくれただろうと。あったのはそれだけの期待だ。

「…あ?」

地を這う様な声には殺気があった。その源は室内に一人しかいないことを踏まえれば直ぐに分かって、しかしこの一瞬でどんな地雷を踏んだかは全く分からない。

「…なん、だよ」

殴り合いでは先ず負けない。けれど新卒の頃、ある飲み会で派手にやり合ったことが会社に知られており、次があれば始末書ではすまないと釘を刺されている。折角やり甲斐のある仕事を楽しんでいるのだ、不意にしたくはない。その為にも尾形を鎮めなければいけなかった。

「かなみにさせようってか? なあ、てめえ今そう言ったよな?」

瞬きが極端に減り、開いた瞳孔の昏さは底なし沼を思わせる。向けられる殺気は苛立ちの延長線のものとは思えない程に刺々しくて、尾形の手元に刃物が無いかをつい確認してしまう。

「させようっつうか、日鳥さんならやってくれたんじゃねえかなって思っただけで…なんだよ、それでなんでお前が噛み付いてくンだよ」

新卒の頃、殴り合った時もこれほどの殺気は無かった。その切っ掛けが彼女だと察するが、何故名前を出しただけでこうも睨まれないといけないのか。
確かに彼女は尾形の恋人だ。しかしいくら尾形でも恋人の名前を呼ばわれたくらいで怒髪天を衝く程狭量ではなかったはずで、そもそこまで熱烈な関係だとは聞いたことがない。
…杉元は二人の仲を後押ししなかった数少ない一人である。まさかそこから恋敵と勘違いしているのではないかと思い至り、杉元ははっと顔を上げた。

「おい、何か勘違いしてるみてえだけど俺は別に」
「てめえもかなみに余計な仕事押し付けようってクチか。 あの薄らハゲみてえに、頑張りたいって言ってるかなみに誰でも出来る書類仕事ばっか回して潰そうってか」

…言葉を呑み込む。
尾形が杉元越しに睨んでいるのは、恐らく杉元が営業部にいた頃の係長だろう。尾形はよく彼のことを指して薄らハゲと陰口を叩いていた。杉元もあの悪い意味での堅物のことは大嫌いだ。女子社員には臨機応変さの求められる現場職は無理だと言い張り、半ば悪意で営業としての仕事をろくすっぽさせずに追い出し続けていたから。

「別に誰が潰されようが構わねえが、かなみだけは別だ。 やめろって何度も忠告したのに、あの薄らハゲ、かなみにまで散々やりやがって。 かなみがあとちょっと打たれ弱かったら間に合わなかった。 かなみが自分から諦めるならそれは仕方ねえ、でも邪魔をしてへし折ろうってンなら俺の敵だ」

かなみ、かなみと連呼する頻度はそのまま尾形の執着心を表している様だった。こんなに惚れ込んでいたとは知らなかったと驚嘆する反面、どうしてこんなにと訝る自分を認めて杉元は口を開いた。

「アイツ…確か、事故で、退職して…」

杉元が企画開発部に異動になって少し、あの係長が一身上の都合で退職したという話が聞こえてきた。定年後も居座る気満々だっただろうと耳を疑い、話を確かめてみれば事故により片足を失ったと、確かそういう話だったはずだ。

「…事故、な。 そうだな、朝のラッシュ時間にホームと電車の隙間に落ちて引き摺られたんだ、事故だよな」

あの駅は乗り換え駅だから降りるにしろ乗るにしろ、かなりの人波があると嘯く男の口許には笑みが浮かんでいる。この朝に相応しくない、酷薄な笑みが。

「杉元。 お前はかなみが慕ってるからギリギリまで見逃してやるが…かなみをがっかりさせてみろ。 その日がお前の命日だ」

固く握り締められていた尾形の手のひらがゆっくりと開き、手刀の形で腹を掻っ捌く動作を見せる。成程片足では勘弁してくれないらしいことを冷静に受け取りながら、微動だにせずその背が翻るのを見送った。

「書類だけとっとと寄越せよ。 お前のトコの応援も要らねえから」

扉が閉まる間際に寄越された捨て台詞に言われるまでもないことだった。誰があんな危ない男に大事な部下を派遣してやるものか。
…例えば、万が一。
尾形の同行者が女性であることに彼女が難色を示したら、尾形は躊躇い無く同行者を処分してしまうだろう。そういう確信が今、生まれた。

「…日鳥さん、やっぱやっべえのに目ぇ付けられてんじゃん…」

あの厄介な係長に彼女が真っ向から噛み付いた時にも同じことを口にした。庇いきれないクセに中途半端に先輩面の忠告をして、ずっと後悔していて。
でも今度も守ってやれそうにない自分が不甲斐なくて情けない。尾形があんなぶっキレた男だとは今日の今日まで知らなかった。

「…書類、やろ」

のろのろとパソコンを立ち上げる。漸く効き始めた冷房の風に晒される冷や汗は、肝が凍りそうな程ひんやりと冷たかった。