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いつかにさよならまた明日

「お前、尾形か?」

そう声をかけてきたのは、端正な顔の真ん中に歪な十字傷を走らせた男の人だった。年の頃は恐らく私や彼と同じか、もう少し上か。少なくとも年下に見えないのはそのがっちりとした体格の所為だろう。
この人は確か、私と同じ駅から乗り込んできた。一つ進んだ駅から乗り合わせて来た彼を見るなりぎょっと目を剥いたから何かと思ったが、どうやら人違いだったらしい。だって彼はオガタという名前では無い。

「違う」

私の三歩手前で足を止めていた彼は、そうとだけ答えて歩みを再開する。
否定されたことが信じられないという顔をしていた傷の人は、如何にも他人ではない距離の私達を見て更に驚いていた。
その様子におやと首を傾げる。多分傷の人は、人違いと否定されても納得出来ないくらいには彼に見覚えがあるのだ。しかし、果たしてそんなことはあるのだろうか。
普通なら一方が覚えていないだけで実は本当に知り合いだと思うべきところだが、如何せん彼は元亡霊という、私以外の人間には到底受け入れてもらえないであろう経歴の持ち主である。生身の身体を得たのはほんの二年半前で、その僅かな間に築けた交友関係は皆無だと知って居る。だって彼は暇さえあれば私のところに来てしまう。スマートフォンに登録してある個人名の連絡先は友人のものじゃないのかと問えば分からないと嘯いて、その実本当に個々の顔と名前を照会出来ないのだから呆れる他無い。
…もう何処にも居ない幼馴染は、初対面の人とも直ぐ打ち解けられる様な人懐こい子だったのに。

「知り合いじゃないの?」
「知らん」

傷の人と私とを隔てる様に立ち塞がった彼は、勘付いているであろう背後からの視線をものともしていない。いつもの様に胸先を預け合うくらいにまで距離を詰めて、晩飯はどうするなどと言う。

「あれが食いたい。 お前のだし巻き卵」
「また? 晩御飯だよ?」
「美味いんだよ。 大根は俺が下ろすからいいだろ」

他は肉でも魚でも何でもござれと胸を張る彼はいかにも好き嫌いがありませんと言いたげだが、先ず見慣れない食べ物には手を出そうとしないし、椎茸なんてどんなに細かく刻んでもきっちり選り分けて絶対口にしない。もしかしてキノコが嫌いなのか思えばしめじやえりんぎは平気な顔をしてよく食べる。では亡霊になる切っ掛けの死因が椎茸だったりしたのだろうか。それがどうしてうちの村で地縛霊をやっていたかまでは察しがつかないけれど。

「じゃあ豚肉で生姜焼きでもつくろうか」

確か冷凍室に豚肉が残っていた筈だ。だし巻卵に合うメイン料理としてぱっと思いついたそれを挙げると、彼はいいなと頷いた。

「汁物は鶏ガラにしてくれ。 卵溶いたやつ」
「いいけど…本当卵好きだね」

そうかと首を傾げて見せる彼は自分の好き嫌いにすら頓着が無い。食べたいものを食べているだけと言うだけで、味が好みだから食べているというつもりがないのだろう。

「もう少し寒くなってきたら鍋物ばっかりになると思うけど、ゆで卵は好きだっけ」
「入ってりゃ食う」
「椎茸は食べないのに」

気まずげに目を逸らし、あんなの食い物の食感じゃねえと小声でぼやく様には珍しい可愛げがある。それに免じて多分嫌いなのは食感だけじゃないのだろうとは言わないでおいた。細切れにした椎茸に嫌う程の食感があるとは思えないとも。

「おい、尾形」

彼の向こうから傷の人の声がする。会話の切れ間を待ってくれただろう律義さを平然と無視する彼に、何故か私が落ち着かない。そんな私の様子に気付いた彼がふうと深い溜め息を吐き、私の頬を擽ってから振り返った。

「俺の名前はオガタじゃねえって言っただろ。 誰だ、お前」

彼の肩越しに見える傷の人は、こちらが怖くなる程に真剣な眼をしている。その眼差しをしらっとした顔で受ける彼の図太さはイコール肝の据わりではなく、偏に他人に興味が無いからだ。或いはまだ亡霊だった頃の名残と言おうか。
すっかり生身の身体を使いこなしているのに、彼は自分が誰しもに認識される存在になったということを失念した様に振る舞う時がある。自分を補足出来るのはお前だけだとばかりに私のところに通い、構えと強請ってくるあたりが最たるところだ。
だから亡霊だったあの頃といまいち変わっていない様な気がするが、すっかり太く逞しくなった腕が私の腰に絡んで引き止める様になったのは大きな違いだ。気が付けば私の行動範囲も彼の傍に留まる様になっていて、大学に入ってから出来た友人と出掛ける機会はめっきり減っていた。

「杉元だ。 杉元佐一」
「知らねえし覚えねえよ。 人違いだ」

初対面の挨拶とも知己の再会とも思えない剣呑なやりとりを黙って見守る。
こうまでばっさり切り捨てられているのだからいい加減人違いかと納得してもよさそうなものなのに、傷の人は、杉元さんは動揺を見せない。まるで彼がしらばっくれているのだと確信している様だった。

「なんだ、生き別れの兄弟でも探してんのか」

一向に退こうとしない杉元さんに何か思うところがあったのか、彼が嘲る笑みと共に問いかける。杉元さんにとって、こんなに真剣な眼をして質さねばならないオガタさんとは一体なんなのか、私も気になった。

「…そう、言われると、俺がなんで探さなきゃなんねえんだって言う様な男ではあるんだが…いやそもそも探してなんかいねえ。 ただそっくり同じ顔を見かけたらそりゃ声かけずにはいられないだろ」

どうやら血眼で探していた肉親とか親友という訳ではないらしい。そうか、そもそもオガタとは苗字だから親戚にしても余所余所しい呼び方になる。じゃあ一体杉元さんはどうしてそんなに食い下がるのだろう。

「で、その人を喰った様な話し方も一緒と来た。 尾形じゃないなら何て名前なんだよ」
「他人だって言ってんだろ。 誰が名乗るか」

車内に居合わせた人達もこの物々しい雰囲気に気付いたのか、ちらちら様子を窺う人もいればそっと隣の車両に移っていく人がいる。毎日同じ車両に同じ時間帯を狙って乗り込んでいる身としては、あまり目立つことはして欲しくないのだが。
…電車が停まる。本来降りるべき駅より三つ手前だが、杉元さんを撒く為にぎりぎりで彼を引っ張って降りるのも良いかもしれない。

「降りろよ」

と、どうやらここは杉元さんの目的地だったらしい。
顎をしゃくって促す杉元さんを、彼はじとりと睨んでから私を振り返った。

「先帰ってろ。 そんなにかかんねえから」

じゃあ一緒に行きたいと言おうとして、止める。私にだけ見える様にやりと口の端を上げた彼の腹積もりが何となく分かってしまった。

「ごめんね、直ぐに帰すから」
「、」

彼に喰ってかかっていた剣幕から一転して、杉元さんは私に軽く頭を下げた。彼を睨みつけていた眼差しの印象しかないから思わず肩を竦めてしまったが、どうやら素の顔は穏やかであるらしい。苦笑と共に生まれた笑窪には年季が見える。
と。

「とっとと降りろ」

再び私と杉元さんを隔てるべく立ち塞がった彼の背で視界が埋まる。私が怯える素振りを見せたのがいけなかったのか、声音は先程の比では無く冷えていた。
それに触発された杉元さんの表情は再び険しくなり、硬く握られた拳の力強さは一の腕に浮く血管の数が教えてくれている。降りた瞬間に殴り合いが始まってもおかしくない雰囲気に圧され、固唾を呑んで一歩退いた。
…大丈夫。私の勘違いでないなら、きっとそんなことにはならない。
警戒しながら先を行く杉元さんは、肩越しに彼の動向を見張っている。彼の顔は真後ろに立つ私からは見えないが、首の向きから見て睨み返すことはしていないのだろう。正面を見て、何気ない足取りでホームに降り立つべく歩いている。
そしてホームに軽快なメロディが鳴り響く。ぷしゅうと空気の抜ける音と共に扉が動いて───バックステップの要領で、彼が車内へと舞い戻る。その鼻先ぎりぎりのところで閉まった扉の向こう、杉元さんは未だ気付いていなかった。

「ばーか」

扉を隔てている上に電車の出発音がある。きっと聞こえていないだろうに、それでも彼は心底愉しげに杉元さんを嘲った。
そうして電車が動き出し、ホームにひとり取り残された杉元さんが見る見るうちに遠ざかる。きっともう数秒もしない内に彼に嵌められたことを知って怒り狂うのだろう。明日からも同じ電車を使うというのに何と怖いことをするのかと責めたくもなるが、彼が行ってしまわなくて良かったと安堵していたのも本音だった。
多分杉元さんは、亡霊だった彼の生前を知っている。
そんなことは冷静に考えれば有り得ないが、私の目の前には他人の身体を乗っ取って生きる亡者がいるのだ。有り得ないなんてことは有り得ないと、既に思い知っている。

「…良かったの? 話、聞かなくて」

亡霊として出会い、あの村で過ごしていた頃の彼は生前の自分に興味がある素振りを見せたことは無い。何を考えているのか分からない彼のことが不気味で、でも何時だって私を待ち侘びていたと迎えてくれる人を嫌いにはなれなかった。だから彼のことを知りたいと思って色々調べたこともある。しかし結果は芳しくなくて、あの時に手を尽くしても分からなかったことがそこにあるというのに、本人でない自分でさえこんなに惜しいと思っているのに。本当に振り切ってしまって良かったのか問いかけると、彼は大きな欠伸をひとつしてから私を振り返った。

「知らない奴から何言われたって信じようがねえだろ」
「そうかもしれないけど…」

実は知らない奴では無いかも知れないと言いかけるも、亡霊の頃に失ったものが今更戻って来るはずもないと思い直して口を噤む。
そう、彼はいつかの私の様に忘れたのではない。私と出会った時には既に銃が得意だったんだとしか語るものを持たない、擦り切れた亡霊だったのだ。
もし杉元さんが亡霊だった彼が取りこぼした記憶の一角を知っていたとして、もう彼にそれが事実だったのかを確かめる術は無い。

「オガタって呼ばれてぴんと来なかった?」
「なにも」

ホームから大きく離れ、既に車窓の向こうにあるのは夕暮れの住宅街に移り変わっていた。ドアに凭れて眠たげに私を見下ろす彼の手が不意に動き、私の手を握る。その手の甲に走る赤い一筋の火傷跡はまだ健在だった頃の幼馴染の名残で、それを見る度、私は目の前の彼がどんな経緯を辿って目の前に現れた人かを思い出す。
…たぶん、私は不安なのだろう。
彼は思いがけないタイミングで私の前から消えて、忘れた頃に戻って来たから。次にそんなことがあれば、私達は二度とこんな風に一緒にいられない予感がある。
例え彼が亡霊でなくなった理由が私だとしても、その方法に一切関知していない以上、彼を引き留める手立てなんてまるで思いつかなかった。
目頭を熱くする不安を拭う様に彼の手を握り返す。触れた火傷跡はつるりとしていて、皮膚の感触ではなかった。

「俺は成仏しねえぞ。 少なくともこの身体が使い物にならなくなるまではな」

彼の身体。幼馴染が遺した、彼にとっては他人の肉体。私にとっては…なんだろう。大切なものであることに間違いは無いのだけれど。

「…もしだめになったら」

幼馴染は奇病を患い、身体だけを残して逝ってしまった。完治したと豪語する彼も同じ身体を使う以上、同様の憂き目に遭わないなんて保証は何処にもない。
縁起でもねえこと言うなという彼の苦言を聞き流し、その顔を見上げて問いかける。

「今度は私も連れて行ってくれる?」

てっぽう橋の石碑が倒れた瞬間を、私は確かに見ているのだ。
死にかけてなんかいなかったし、死のうとも思っていなかった。それでも身体を置き去りに、苦痛なく魂だけ抜け出してあの日あの夜、彼の元へ行けたのだとしたら。
…それならそのまま連れて逝かれても良かったななんて、あの頃確かに考えた。

「…ははッ」

私の問いかけに息を呑んだ彼が、やがて堪え切れないと言った風に声を漏らした。彼の、こんな感情に任せた笑い声なんて初めて聞いた気がする。

「いいぜ。 元々泣かれたって離すつもりは無かったんだ。 これで晴れて両想いってワケだな」

車窓の外、黄昏時を超えた夜の色と同じ瞳に覗きこまれる。出会った時から何も変わってないはずの色に安堵を憶える自分を受け入れるのは簡単なことだった。