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密室ロマンス

取引先で最近、セクハラによるお裁き騒動があったらしい。誰が誰にどういう不埒を働いていたかまで聞こえてくるのだから、やはり人間、真面目に堅実に生きるべきだとひしひしと実感した。件の加害者はこうまで名が知れてしまった以上、もう同じ業界で顔を見ることはないだろう。

「いや、実に参りました」

疲れを濃く滲ませた顔で笑い、その人はグラスに注いだ白ワインをくいと煽った。普段なら香りを楽しみながら一口一口、ゆったりと嗜む人にあるまじき仕草に同情を禁じ得ない。
この方はとある大手デパートのバイヤーで、鶴見さんと言う。
中年太りなどとは無縁のスマートな体型に即した、洗練された物腰。オーダーメイドのスーツをパリッと着こなし、用意された重役の椅子よりも現場が良いのだと前線を張る彼は正しく理想の上司且つ紳士で、この方との付き合いは二年に及んでいる。付き合いといっても個人的なものではない。包装資材を扱ううちの会社と鶴見さんの務めるデパートは密接な取引をして長く、私が鶴見さんのデパート担当に割り当てられてからの付き合いという意味だ。
直属の上司よりも余程親身に面倒を見てくれる鶴見さんに私はすっかり骨抜きで、鶴見さんもこんな娘を儲けられていたらと笑ってくれる。
…だから今夜、愚痴に付き合ってくれないかと呼び出されて驚いた。

「大変でしたね。 只でさえ今は世間の…と言うか、世界の目が厳しいですから」

件のセクハラ騒動は鶴見さんの務めるデパートであったことだった。それも加害者も被害者も鶴見さん直属の部下ときていて、お裁きも後処理も鶴見さんが行なったと本人の口から聞き、その心労はいかばかりかと心配になった。
特に被害者である女性のケアには神経を使うだろう。加害者と同じ男である鶴見さんを敬遠する動きを見せるというから輪をかけて慎重にならざるを得ないはずだ。

「彼女とは付き合っているのだという加害者の言葉を鵜呑みにして、野放しにしていた私の責任は軽くはありません。 被害者である彼女は仕方ないと言ってくれましたが…嗚呼情けない。 本来気遣うべき相手に気遣われてしまうとは」

言って鶴見さんが手酌でワインを注ごうとするのを慌てて止めて、ボトルをそっと取り上げる。お酌させて下さいと言いつつグラスの半ばにも届かないくらいの量で調整した。
何せ鶴見さんは下戸である。ワイングラス一杯だけでほろ酔いになるこの人が、今夜はボトル一本空けようとしていると言えば危険度が分かるだろうか。
事情が事情であるだけに気の向くまま飲ませてあげたい気持ちもあるが、私では鶴見さんを抱えて帰れない。かと言って大切な取引先のベテランを、何より尊敬する人を放って帰れる訳が無い。
だからここで踏ん張らなければ、いや、踏ん張ってもらわなければならなかった。

「鶴見さんの気持ちはきっと伝わっていますよ。 大丈夫です」

鶴見さんのお知り合いが経営するワインバーに隠された、このVIP席。靴を脱いで上がる座敷席であり、八畳程度の部屋には毛足の長いカーペットが敷かれ、間接照明の明かりをガラステーブルが反射して不思議な明るさが演出されている。所謂人をダメにするクッションに背を預けながらワインを嗜んでいると、いつの間にか眠ってしまいそうな危うさがあった。
事実、鶴見さんの涼し気な目元がとろりと眠たげに落ちている。
目の覚める様な冷たさのお水か熱く渋い煎茶か、どちらか飲ませた方が良いかも知れない。
扉の脇にある内線電話へ向かおうと腰を浮かせたその時、ぐいと腕を引かれ、つい膝でたたらを踏んだ。

「鶴見さん?」

部屋には私と鶴見さんしかいない。私の肘あたりを、らしくない無遠慮な強さで掴んで引き止めた鶴見さんの手が更に予想外の動きを見せる。
つうと、男の人にしてはひび割れの少ない手が一の腕の内側を滑る。ぞわりと肩が跳ねるも振り払うのは失礼だとして動きは最小限に収めて、そのまま手首が擽られるのも甘んじて受け入れた。

「鶴見さん、あの、擽ったいです…」

ふふと、鶴見さんの薄い唇の間から呼気とも笑みともつかぬものが漏れる。漸く手首に飽いたらしい指先は下を向いていた私の手のひらの中央へ至り、やおらそっと押し上げた。
───手の甲に触れる、鶴見さんの唇。
一度だけ、一瞬だけ触れて直ぐ離れたと思いきや、離れた間こそ一瞬だった。一度目とほぼ同じ場所へ口付けて、そのまま唇で私の手の甲を無秩序に滑る。
…余りの驚きと羞恥に、私は動くことも出来ない。ただ皮膚に触れる鶴見さんの唇の熱さだけがリアルで、他の感覚は鈍ってしまった様にそこにしか意識がいかなかった。
なんなのだろう、この、ぞわぞわとした、怖気じゃない感覚は。

「…駄目だろう、抵抗しないと」

もう右手の甲に鶴見さんの唇が触れていない場所などなくなった頃、静かな声に咎められる。年下の私相手にも取引相手なのだからと丁寧な言葉で接してくれていた人が、まるで部下を、身内を叱咤する様に語調を強めたことに動揺する。

「鶴見さん、どうされたんですか…?」

鶴見さんとはこれまでにも何度か宴席で御一緒したことがある。挨拶代わりに注がれるお酒を断り続けることは流石の鶴見さんでも出来ず、漸く私が挨拶に伺える頃になると前後不覚一歩手前になっていることが多かった。
つまり、鶴見さんはお酒が入ると眠たくなってしまう人なのだ。
こんな風に絡んでくる様な酔い方をするだなんて知らなかったし、聞いたことも無い。

「セクハラに限らず、ハラスメントと名が付くものはとかく酷いな。 その殆どが相手の立場故の弱みに付け込んで、己の欲望を押し付ける醜悪極まりないものだ。
 例えば日鳥さん。 きみならこういう酒の席で、明らかにアルコールが頭に回った人間にこういうことをされたなら…」

こういうことと言いつつ私と同じ様に膝立ちになった鶴見さんは、つい先程まで私が身を預けていたクッションへ居場所を変えた。但しその右側には不自然なスペースが空いており、しかし一人分には少し足りない。そこへ割り込もうと思うならどうしたってわずかながら鶴見さんに乗り上げることになるだろう。
と、鶴見さんに取られたままだった右手が強く引かれる。
不意を突かれたこともあって容易く傾いだ私の身体はクッションに舞い戻ることになり、衝撃に備える様に思わず瞑っていた目を開けると、そこには至近距離で微笑む鶴見さんの顔があった。じんわりと熱の籠った指先で頬を撫でられる。

「どう対処する?」

頬を撫でた鶴見さんの左手はそのまま私の身体のラインをなぞり、腰のあたりで止まった。正直、腰かお尻か、かなり際どいところだ。知らず硬直していた私の身体を解きほぐす様にその際どい部分を撫でさする鶴見さんに、この時私は初めて恐怖した。
こんな、何を考えているか分からない鶴見さんは初めて見る。ストレス過多のところへアルコールを放り込んだから悪酔いしているのだろうか。

「は…離して下さい」
「そんな言葉だけでは抵抗にならない。 ほら、私の手はまだきみに触れているだろう?」

鶴見さんの左手がつと下へ赴く。尻たぶをひと撫でされた瞬間、私は弾かれる様に身を起こすと同時に後方へ飛び退いた。
しかし座った体勢のままだったので大した距離が空いた訳では無い。ゆったりと身を起こす鶴見さんの瞳は変わらず私を捉えていた。

「ふふ。 素晴らしい反射神経だな。 若いからだろうか」

いつか雑談の中で、学生時代はずっと文化部だったから運動が得意でないと零したことがある。そんな仕事に全く関係ない話もうんうんと頷いて聞いてくれていた鶴見さんはもう何処にも居ない気がして、じわり涙腺が緩んだ。

「なんですか、なんでこんなこと」

膝で歩いて迫ってくる鶴見さんの方を向いたまま後ずさる。間接照明の柔らかな逆光は鶴見さんの表情を全て隠すには至らず、不気味な陰を落とすに留めているから性質が悪い。いつもはこちらの気持ちを解してくれるはずの柔和な笑みさえ空恐ろしいものにしか見えなかった。

「うん、それよりも後ろを確認した方がいいな」

直後。ぽすりと、背中に柔らかいものが当たる。部屋に点在するあの大きなクッションが私の行く手を遮っていた。

「さあ、今度はどう逃げる?」

私が愕然としている隙に間を詰めて来た鶴見さんの両腕が、左右の脇腹の横に杭の如く打ち立てられる。投げ出していた足は跨がれて、勿論男性を跳ね飛ばす脚力が私に有る筈も無い。
…下から覗きこむ様に寄せられる鶴見さんの顔を、見る気にはなれなかった。
ぎゅっと瞼をきつく閉じて顔を逸らす。ふふと笑う声が、今度ははっきりと聞こえた。
と。

「ん、」

首筋に熱く湿った何かが触れ、ちゅ、ちゅと繰り返されるリップ音が静かな部屋に響く。時折吹きかけられる熱い吐息に、恐怖とはまた違ったなにかを感じて身体が震えた。

「…綺麗な肌だ。 肌理細かく滑らかで…鎖骨の形も美しい」

首元を締め付けられるのが好きでない私は、襟元にボタンの無いシャツを愛用している。それがこんな場面で災いするとは予想だにしなかった。
首筋から鎖骨へ、キスを繰り返しながら下りて行った鶴見さんの唇が鎖骨を吸う。痕がついてしまうと慌ててその肩に手を添えて引き剥がそうとしたが、鶴見さんのしなやかな身体はびくともしない。

「やめて、やめてください!」

とうとう大声を出して拒絶する。気が付けば鶴見さんの右手はまた腰裏に回されており、あの際どい部分を撫でていた。今度はお尻を触られまいとカーペットに埋めるが如く腰を落とすと、鶴見さんが更に身を乗り上げて来る。しまったと思っても遅かった。

「この部屋は密談専用の部屋なんだ。 つまり…分かるだろう?」

防音仕様と遠回しに告げられ、目の前が暗くなる。つまり私は鶴見さんの下になった時点で逃げられない。しかし諦める訳にはいかなかった。

「これ、セクハラ以上ですよっ…早く降りてください、そしたら私、誰にも言いませんから…!」

ぴったりと身を寄せてくることで動きを封じようとしてくる鶴見さんの下で必死に足掻く。こんな時なのに鶴見さんのつけているコロンの香りは相変わらず良い匂いだし、至近距離で視るそのお顔は端正という言葉がよく似合う。何より手つきが優しくて、撫でられているところがお腹だったりしたら介抱の手だったと信じられただろう。

「やだ…」

倒れまいと突っ張っていた上体が、とうとうクッションに埋まった。完全に鶴見さんの身体の下敷きにされた身体は身動ぎすることさえ難しく、首筋を優しく舐られる度に跳ねる身体も鶴見さんの身体は易々と抑え込んでいる。それどころか自らの首元を片手で寛げる余裕さえ見せる有様だった。

「まだ諦めるには早いぞ。 引っ掻くなり目を突くなり、きみにはまだ出来ることがあるはずだ」

確かに片手は動く。耳や髪を引っ張ることは勿論、首から上だって動くのだから噛み付いたり頭突きすることだってやろうと思えばやれる。
…でも鶴見さんは、会社の生命線の大部分を握る大口の顧客の窓口を務める人だ。
そんな人に怪我をさせてしまったらこれからの取引にどう影響が出るか分かったものではない。襲われたから抵抗した結果だと訴えても、私と鶴見さん、どちらの方が信じられるか目に見えている。

「…可哀想に。 なまじ周囲を思い遣れるからこそ竦んでしまうとは」

手を振り上げようとして止めた私の動向を見つめて、鶴見さんは痛ましげに呟いた。そして私を哀れんだ口で私の耳朶を齧るのだから本当に酷い。妙な声が漏れそうになる口を手で覆いたいのに、動く方の手はそこまで届かない。上に圧し掛かり、今も私の首元に顔を埋める鶴見さんの頭が障害物になっていた。

「つる、つるみさん、やめて、やです、ほんとう…ほんとに、いやです」

鶴見さんのシャツを引っ張りながら必死に懇願する。耳朶を舐る水音に鼓膜を犯される羞恥と快感が、恐怖を超えようとしている。このまま続けられたら私にとって最悪の事態になる確信があった。
が。

「ふふ。 嫌だと言う割には随分可愛い声で呼んでくれる」

嘲る調子は無かった。ただ本当に可笑しそうに、愛おしそうな声で返されて言葉を失う。

「本当に止めて欲しいのかな」

鶴見さんの指が鎖骨の間を通り、いつの間にか第三ボタンまで開放されていた胸元へ降りて行く。僅かに覗く下着を隠したいけれどやはり鶴見さんの身体に阻まれて叶わず、僅かに、しかしわざとらしく胸に触れては失礼と指を引っ込める鶴見さんを涙の幕越しに睨んだ。

「やめて欲しいです」

実際に止めてくれるとの期待はもうしていない。けれどこの意思表示だけは譲れず、今度はどこを触られるのかと身を固くしながら答えた。
流石にこんなところで最後までことに及ぶとは考えにくいが、今日の動向を見るに、もうこの人は私の知っている鶴見さんとは別人と割り切るべきだろう。

「ああ、悪かったね、日鳥さん」

が、そんな風に何をされても不思議じゃないと身構えている私を嘲笑う様に、鶴見さんはあっさりと身を起こして頭を下げて見せた。
その余りの転身振りに私は咄嗟に動けず、鶴見さんに手ずから引き起こされた挙句スーツの上着をかけてくれるまですっかり呆けてしまった。
今のは一体なんだったのか。

「あの…」
「怖がらせてしまって申し訳ない。 だがきみにはどうしてももう少し警戒心を持って欲しくてね。 特に私に対して。 こうして個室で酒を飲もうなどと持ちかけられて、ほいほいとついて来てはいけないよ」

だがまあ先ずはこれをと、先程まで鶴見さんが嗜んでいた白ワインが並々と注がれたグラスが口元に寄せられる。喉を潤せということだろうかと大人しく口を付けると、咥内に広がったのは予想とは少し違う甘さだった。

「これ…白ブドウのジュースですか?」

アルコールの風味は無く、ただ白ブドウの甘さだけがある。甘口のワインにしても有り得ないこれはジュースでしかないだろう。

「そういうことだ」

つまり鶴見さんが酔う訳はなく、今までの一連も悪酔いしての御戯れではない。素面でこの人は私に触れたのだ。
でもなんでそんな真似をして、その種明かしまでしたというのか。

「日鳥さん。 私の歳を覚えているかな」

突然の質問に鼻白むも、鶴見さんを慕う部下の方々が開いた誕生日会に招かれた時に聞いた歳を何とか思い出して答える。

「そう。 私はきみの父君よりも若く、況してきみくらいの歳の娘を儲けるには十程齢が足りないくらいだ」
「そう、ですね」

鶴見さんが言わんとしているところを図りかねる。これでも分からないかと物憂げに息を吐く鶴見さんの襟元は先程の行為の最中に乱れたままで、そこから覗く肌色から思わず目を逸らす。

「私はいつか、きみの様な娘を儲けられたらと言ったね」

それはよく覚えている。私もこんな父がいたら嬉しいと心底共感したから。

「あれは告白のつもりだったんだ」
「えっ」

えっ。

「きみに似た子供が欲しいと、プロポーズのつもりで言ったんだよ。 だがきみにはあっさり受け流されてしまって、少し遠回し過ぎたかも知れないと、それとも気付かない振りをして振られたのかと長く悩まされた。 私は年寄りのつもりはなかったし、きみを子供だとは思っていなかったから…まさかそのまま親子宣言に取られていたとは、部下に指摘を受けるまでまるで気付かなかった」
「それは…あの、すみません…」

だってお付き合いもしていない人からプロポーズを受けるだなんて誰が考えるだろう。
しかし鶴見さんが勇み足だったと糾弾するには少し後ろめたい。だって鶴見さんの歳を知っていてこんなお父さんがいたらだなんて、当人にしたら失礼千万である。

「だがその意趣返しにしてもやりすぎたことは認めよう。 手前勝手な話だとは重々承知しているが、どうか嫌わないで欲しい」

正座に直り、深々と頭を下げる鶴見さんの襟足を見下ろす。はいと直ぐ頷くには身体はまだ先程の恐怖を覚えており、けれど移された熱は決して不快ではない。触れた唇の感触を思い出す度に鼓動が跳ねる。

「…もうこんな強引なのは、ナシにしてください」
「ああ、勿論だとも」
「あと、プロポーズするなら先ず恋人から始めるべきだと思います」
「ああ正論だ。 …うん?」

訝しげに顔を上げる鶴見さんの視線を受け止めて、けれどやっぱり居た堪れなくてそっぽを向く。
うちの会社は取引先の人とお付き合いをすることを禁じていないが、必要以上の癒着を防ぐ為に担当に宛がわれない様配慮がなされることになっている。大手デパート相手の仕事は楽しかったから、少し残念だ。
意を決して恋人から始めてみませんかと告げる自分の声は蚊の羽音よりも小さくて、けれど聞き逃さなかった鶴見さんの抱擁は熱烈だった。
…居心地の良い体温に抱かれた所為か安心した所為か、急激な眠気が襲ってくる。まだ服も整えていないし、もう帰らなければいけない時刻だろうに抗える気がしない。慣れないワインなんて呑んだ所為だろうか。
鶴見さんの声が遠くに聞こえる。

「日鳥さん、日鳥さん? …ああ、薬が効いてきたのか。 大丈夫、安心しなさい。 互いに明日は休みなのだから、我が家でゆっくり過ごそう」