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死神を知る(前編)

私の家の近所には、中将御殿と呼ばれる立派な御屋敷がある。その名の通り陸軍中将のお住まいで、ご家族だけでなく、使用人達の住まいさえ敷地内に内包しているとあってとかく広い。途切れぬ塀を回り込むのには一苦労で、初めてこの御屋敷を訪ねる人は方向を間違えて大回りし、正門の呼び鈴を鳴らす頃には酷く息切れしているのだとか。裏門もあるにはあるが、中将を訪ねようと言う人間がそちらを使う訳も無く、専ら使用人の方々の勝手口として使われていた。
私はある日、その裏口の前で佇む人を見た。着古した軍服の、見慣れない軍人さん。
じっと御屋敷を見上げる姿に何か不気味なものを感じて一瞬足を止めたが、中将の部下の方だろうと思い直し、その後ろを通り過ぎようとした。

「お嬢さん、少しものを訊ねたいのですが」

振り向かないまま発された声に、やはり足を止めてしまった。お嬢さんなどと呼ばれる柄では無いが、辺りに人影は無い以上、自分のことだと思わざるを得なかった。

「何でしょうか」

答えた声は我ながら震えていた。雲の立ち込めた空は真昼だというのに薄暗く、人の喧噪も聞こえないからだろうか。凍える様な恐怖が爪先からじわじわと上り詰めてくる様だった。

「花沢勇作少尉殿を御存知ありませんか」

深みのある声が紡いだのは、花沢中将の御令息のお名前だった。
私は彼を実際にお見かけしたことは無いが、聯隊旗手を任せられる程に優秀で高潔な方なのだと誰もが口を揃えて褒め称える。けれどそんな評判を同じ軍人さんが知らないはずは無いだろう。

「とても評判の良い軍人さんだと伺っております」

おまけに場所は花沢御殿の裏口だ。下手なことが言える訳も無く、ただ無難に返した。

「実際にお会いになられたことは」

だから、問いが重ねられたことは意外だった。一拍の間を置いて、正直に答える。

「ありません。 近所に住んではおりますが、商いをしている訳でもありませんので…」

父君の花沢中将ならば見かけたことがある。奥方を後ろに従えて堂々と道を往く姿は正しく理想の軍人であり、夫であった。

「左様ですか。 いや、妙なことを訊いてしまって申し訳ありません。 私、少尉殿の顔を未だ知らぬのに迎えを任されてしまいまして。 特徴だけでもお聞きできればと目論んだ次第です」

軍人さんは口調こそ明朗で言い分も筋が通っていたが、一向にこちらを振り返ろうとしない姿は異様だった。軍帽を目深に被っているのももしや顔を隠す為なのだろうか。善からぬことを考えている輩では無いと、私では言い切れない。

「お役に立てず、申し訳ありません」

しかし御令息は優秀な軍人さんだと言う。ならば暴漢の一人や二人、どうということも無いだろうと自分に言い聞かせる。況して中将の御屋敷の裏手でこうも堂々と待ち受ける暴漢など、私の取り越し苦労かも知れない。人に知らせるにも憚られる。

「いえ、とんでもありません。 今日は道が暗いですから、お気をつけて」

軍帽を僅かに浮かせて軽く頭を下げる仕草を視界の端で捉えながら、私は漸く足を踏み出した。結局一度も目を合せぬまま別れたその軍人さんの、声だけがいつまでも耳にこびりついていた。
…それから間もなく中将の御令息と、中将御本人の訃報を耳にした。するりと背筋を寒いものが走り抜けて肝が縮み上がる。まさか私が見たのは死神だったのだろうかと、そんな馬鹿げた不安にまで付き纏われる様になってしまった。

「かなみちゃん。 三島さん、亡くなったんですって」

ある日、母を訪ねて来た叔母の雑談に付き合う中で、不意に声を潜めて切り出された話題に声を失う。
三島さんとは叔母の娘、つまり私の従姉妹と好い仲になりつつあった若い軍人さんだ。私もちらりと顔を見たことがあるが、成程面食いの従姉妹が熱を上げるのも無理は無い顔立ちをしていらした。彼が日露戦争から帰ってきた時は涙を流して喜んでいた従姉妹の背を擦ったことを思い出す。

「なんで。 もう戦争は終わったのに」

叔母は軍人さんとのお付き合いには反対していた身だが、流石に亡くなったと聞いては諸手を挙げて喜べるはずも無かったのだろう。従姉妹はどれ程消沈しているか、想像するだに胸が痛む。

「それがね、よく分からないのよ。 まあ親族でもない私達に詳細を話してくれるはずも無いんだけど、雪山での訓練中に不慮の事故でって、それだけなの。 三島さんと仲の良かった人達も話してくれないし…何か良くないことに巻き込まれて亡くなったんじゃないかって、心配で」

叔母の家は小料理屋で、兵営の近くにあることから軍人さん御用達になっている。商売相手として軍人さん程固い相手は居ないが、いざ我が子の交際相手となると何時死なれるか分からないからと敬遠する親は少なくない。戦争が終わった今なら尚のこと。
私なんかは戦争が終わったのだから何時死なれるも何も無いのではと思っていたが、そうかこういうこともあるのだなと、いやに冷静に納得してしまった。叔母の危惧は正しかった。

「かなみちゃん、軍人さんだけはやめておきなさいね。 また何時戦争が始まるか分からないんだから」

憂いに沈みながらも忠告してくれる叔母の言に頷く。程なくして用事から帰ってきた母に相手を譲り、私は財布を手に小間物屋へ走った。何か従姉妹の慰めになる様な品を見つけられればいいと、最初の角を曲がった時だった。

「今日の道は明るいですが、足元にはくれぐれもお気をつけて」

足を止め、振り返る。我が家の前に立って笑う、白い外套の誰か。裾から覗く軍服にもしやと思い至った時にはもう、彼は踵を返して歩き去ろうとしていた。
追いかける気になんて、とてもではないがなれなかった。

*

「最近、谷垣さんを見ないんですって」

叔母の訪問から数日経ち、母の方が叔母の家を訪ねた日のことだった。夕食も終わり、寝るには少し早いからと囲炉裏の傍でくつろいでいると、風呂から上がってきた母がやって来た。それから父の姿が無いことを確認して切り出された話題に、数日前の三島さんの訃報を思い出す。

「谷垣さんって…あの体格の良い、猟師だったっていう人?」

谷垣さんは叔母の小料理屋の常連のひとりだ。頭抜けた体格の良さから一目で顔を覚えたと言う叔母の密かな御贔屓さんだと聞いた、様な気がする。

「そう、その人。 最近お店に他の軍人さんも早々来なくなったらしくて、どうしたのか分からないって叔母さんがぼやいててねえ。 ほら、戦争で頭が少し吹っ飛んだ将校さんが居たでしょう? あの人が来てくれたら分かるのに、その人も、御付の人も来ないんですって」

軍人さんは規律があるので誰も彼も同じ格好をしているが、件の「頭が少し吹っ飛んだ将校さん」は別だった。目の周囲の火傷跡は勿論、欠けた頭に宛がった額当てもかなり特徴的で、あまり人の顔を覚えられない私の頭にも一目で焼き付いてしまう程だ。反面、顔をじろじろと見ることは憚られたが。

「折角戦争が終わったのに、なんだか物騒なことがあちこちで起きてるみたいで嫌だわ」

戦争は終わった。けれど賠償金が取れなかったことから日本の各地が逼迫しているとは、私でも知っている。それ故の騒乱だろうが、確かに最近の北海道は物騒だと思う。

「お父さんに相談してみようかしら。 私の実家に頼って、あっちで暮らすのも良いと思うのよ。 何にもない田舎だけど、平和が一番だもの」

母の実家は、確か茨城だったか。数度しか会ったことの無い祖父母の顔はもう思い出せない。

「…お父さん、何時帰って来るんだろうね」

母に聞こえないよう、そっと呟く。父が雪山で行方不明になったという報せが来てから日に日におかしくなっていく母の後ろに、あの死神じみた軍人さんの影がちらついた。

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