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夢見た安寧とは程遠く

仕事でへとへとになった身体と心を引きずって家に帰る。去年当たった宝くじで購入し、リノベーションまで済ませた我が家は古式ゆかしい古民家だ。一人暮らしには少々広すぎるけれどこの家があるから働こう帰ろうと思える。ゆくゆくは猫を飼うのが夢だが、その前に転職しないとお世話の時間、ひいては遊ぶ暇が無い。やはり宝くじの当選金で家を買うのは早まったかなと思わないでも無いが、寝床の心配をしないでいいというの大きかった。

「ただいま〜」

引き戸の向こうの広い土間に靴を脱ぎ捨て、土間と部屋との間に段差として横たわる地板に手をつく。返ってくる声はないと分かっていてもこう言ってしまうのは家を買ってからのクセだった。
と。

「お帰り」

帰ってきた低い声に、一瞬、比喩表現ではなくて心臓が止まった。
夜の暗さに飲まれた部屋の中はよく見えない。けれど誰かいることは今の返事が証拠だ。
ぱちりと音がして、部屋の灯りが点く。明滅するそれについ細めてしまう目を懸命に凝らし、声の主、今明かりを点けた誰かの正体を探した。

「随分遅いお帰りだな?」

土間から覗ける部屋は八畳の部屋が二間だが、普段は襖を閉じている。その襖が大きく開かれ、そういえば土間と部屋とを区切る障子も開かれていたことに遅ればせながら気が付いた。
そして奥の間に立つ、ひとりの男性。
オールバックに昏い瞳がひどく印象的で、こんな目で見られたら悪い意味で忘れられないだろう。現に今、私は視線だけで射竦められていた。
…誰だ、このひと。

「男と会ってたのか」

苛立ちと殺意を隠しもせず、男性はこちらへのっしのっしと歩いてくる。畳を踏み締める音は好きなのに、今程その音に脅かされたことはない。だって彼はその手にとんでもない物をぶら下げている。あんな刃渡りの長い包丁なんて我が家には無い。

「おい、何か言えよ」

地板に座り込んだままだった私の前に屈みこみ、彼は薄く笑う。その手の凶器は最早突き出すだけで容易く私の胸を貫くだろう。

「…仕事で、遅くなりました」

定時をまわっても終わらない仕事になんとか目処をつけて無理矢理帰ってきた矢先にこれだと思うと泣けてくる。何故私は見知らぬ男性に不法侵入された挙句、帰りが遅くなったことを糾弾されているのか。

「本当だろうな。 聞いてるんだぞ、男が出来たってウワサ」

ぴたりと頬に宛てがわれる刃物の冷たさに息を呑む。しかし一方で頭は冷静に働いており、一体誰からそんな話をと訝しんでいた。

「そんな時間無いです、仕事が忙しくて…社内の人はみんな大分年上ですし…」

私は彼を知らない。だから共通の知人にも見当がつかない。しかし私とある程度交流がある人は私がブラック企業務めと知っているから、そんな噂を流すことは無いと言いきれる。
…いや、そもそも本当に恋人がいたとして。
なんで私はそれをこの人に咎められないといけないのか。

「…まあ、確かに男に会う格好じゃねえか」

私の縒れたスーツ姿を一瞥し、男性は漸く凶器を引いてくれた。お化粧だって朝から一度も直せていないから酷いものだろう。電灯の灯りを照り返す包丁の表面をうっすら汚すファンデーションの疎らさは、そのまま私の化粧崩れの度合いを示している。
と、その包丁がどんと地板に突き立てられた。
突然の凶行に声も出せず、突き立てた包丁の柄からその手が離れ、ふわり中空で止まるまでを沈黙と共に見守っていた。なんのつもりかと包丁から男性の方へ視線を移すと、彼は部屋と地板との段差を椅子代わりに、私の真ん前に両腕を広げながら腰を下ろしていた。…本当に、なんのつもりだろう。

「誠意を見せろ」
「せいい…?」

言葉だけなら金銭を要求されているのかと思うところだが、今の彼の体勢からして違うはずだ。まるで飛び込んで来いと言わんばかりに広げられた左右の腕を見比べながら何度考え直しても同じ結論に辿り着く。まさかと躊躇う理性を、もう限界だからとにかく何とかしたいという本音が凌駕する。

「ん」

地板に膝で立ち、目線を同じくしてから倒れ込むようにして抱き着く。見知らぬ異性にそんなことしたくなかったけれど、ここですげなくしたら彼はまた包丁を手にするだろう。かと言ってこの行動が正解という自信も中々無くて、どうして疲労がピークに達する一日の終わりを狙ったのかと恨みが募る。いつもならもっとマシなことも考えついただろうに。
と、背中に腕が回された。

「もっときつく」

合っていたのかと脱力しそうになったのを堪え、脇から背へ回した腕へ力を込める。分厚い身体は抱き締めづらくて仕方ないし、抱き返されたことで更に動きが制限されて少し気を抜くと腕が落ちてしまいそうだ。
何より疲れが酷い。彼が包丁を手放した瞬間から訪れた安堵により、恐怖で抑え込まれていた疲労が盛り返してきている。

「あの、ねむい…」

嗚呼このひと、不思議といい匂いがする。男性物のコロンかと思ったがそれにしては優し過ぎる、石鹸に似た純粋な「いい匂い」。ずっと嗅いでいたくなる。でも嗅げば嗅ぐ程に意識が遠くなっていく。もっと、もう少しだけ。

「おい、…おい、かなみ」

ずるりと、彼の身体を伝って落ちた手が畳にぶつかる感触を最後に私はとうとう意識を手放した。
起きたらぜんぶ夢だったらいいのに───そう願いながら。



結論から言えば夢オチにはならなかった。
翌朝、つまり今日の今。
自室のベッドの中で目を覚ました私の眼前に、見知らぬ寝顔がある。

「……うそでしょ……」

私をがっちりと抱き込む腕は硬く、起こさない様に解いたり抜け出したりは出来ないだろう。おまけに足の間に割り込む様に絡められた彼の足からも逃げられる気がしない。
…恐る恐る自分の格好を確かめる。
縒れたスーツが壁にかけられているのを見てある程度諦めてはいたが、肌に擦れる感触は着慣れた寝巻きのそれだ。ワンピースタイプの、所謂ネグリジェに近いが生地はもっと野暮ったく分厚い。着替えさせられた事実に赤くなるべきか青くなるべきか、非常に困る。
それらしい気だるさは無いことが救いだが、身体の疲労困憊振りを鑑みるに自分自身を信じ切れないところもある。

「…起きたのか」

不意に旋毛に落とされた声に顔を上げる。
うんうん悩む私の声に起こされたのか、寝惚け眼を晒す彼に昨夜の殺気は見当たらない。流石に起き抜けにあれは勘弁して欲しいので一安心だ。

「おはようございます…」

しかし今度は彼がどう出るか分からない。その腕の中に収まったまま朝の挨拶を投げかけると、彼の口の端が僅かに上向いた。

「ん、おはよ」

接近しすぎた彼の顔が視界を埋めて、眉間を柔らかいものが掠めていく。再び彼の顔を視認出来るくらいの距離に戻った時初めて口付けられたのだと察し、その眦がとろりと落ちているのを見て絶句した。
昨夜の物々しさとは比べものにならない、まるで恋人を愛おしむ様な表情をこの人から向けられる心当たりなんて無いのに。

「よく寝てたな」

太い指の腹が頬を撫でていく。
そうだ、お化粧。ぱっと頬に手を当てた私の仕草から察したのか、彼は薄く笑ったまま口を開いた。

「メイクなら着替えついでに落としといた。 綺麗な肌なんだから塗りたくるのは止めとけよ」
「…血色が悪いので」

お世辞か本心か判じかねる睦言に困惑してしまう。どちらにせよそんな風に褒めてもらったのは何時振りだろう。今の会社に勤めてから褒めてもらったことなんて、無い。

「充分に寝ればいいだけの話だ。 あんな風に寝落ちるくらいなら…まあ、ああいうお前も可愛かったけど」

その言葉を受けて初めて、自分がどこで寝落ちたかを思い出した。
疲れて帰ってきたところで思いがけない恐怖に晒され、それが途切れるなり人の温もりといい匂いに包まれて。夜、一度も起きずに朝までぐっすりと眠れたのは随分久しぶりだ。

「今日は会社休め。 無理なら辞めろ」

…一瞬、言われたことが分からなかった。

「それは…そんなこと出来ないです、仕事が残ってるのに」
「お前のスマホ見た。 とんだブラックじゃねえか、辞めちまえよ」

私のスマートフォンに入っているトークアプリには、仕事をせっつく上司の再三にわたる暴言が残っている。休日出勤を命じながら休日手当は出さない宣言だとか、労基に言えば損害賠償を請求するだとか。セクハラにあたるものもある。それを部外者に見られたのかと思うと恐怖で身体が震えた。どうしよう、また怒られてしまう。

「どうした」

びくりと竦んだ私の身体を抱き直し、背をさする手のひらは大きい。素直に安心していたいのに、上司という存在は思考から消えてくれない。どうしよう、どうしよう。視界が涙で滲む。

「…あの男が怖いのか?」

昨夜聞いた第一声と同じくらい低い声に鼓膜を打たれて我に返る。知らず顔を押し付けていた厚い胸板から額を離そうとすると、首根っこを掴まれて強い力で戻された。

「お前に散々言ってたあのゲス野郎だな? なんにせよ許さねえつもりだったから安心しろ、直ぐに消す」
「え…?」

あまりに物騒な発言に声を上げるが、やはり顔を上げることは許してもらえなかった。どんな顔をしているのか正直なところ見たくない。けれど確認して止めないといけないと、私の中の良心が訴えている。

「あの…あなた、誰なんですか」

もっと早く、それこそ昨夜のうちに質さねばならなかったことをやっと問う。私の記憶違いでなければ彼は私の名前を呼んでいた。出会った覚えの無い人に名前を呼ばれて、家に押しいられるというのは筆舌に尽くしがたい恐怖である。
しかし問いかけてからしまったと思った。例え素直に名乗られたところで分かる訳が無いのに。

「…尾形だ。 尾形百之助」

…オガタ。尾形、さん。

「もしかして…北鎮商事の?」

私の勤務先の顧客の中でも最大のお得意先であり、業界の中でも有数の企業である北鎮商事。そこの営業部とメールでやり取りをすることも私の仕事の一つなのだが、少し前から営業部宛にしていたメールを自分宛にして欲しいと言われ、今は特定の営業部員宛にしていた。その特定の相手の名前が尾形百之助さんで、目の前のこの人…ということ、らしい。

「なんで尾形さんが…」

尾形さんはいつだって仕事が速かった。こちらの質問に過不足なく答えてくれることは勿論、半日以内に必ず返信をくれる上に納期の相談にも応じてくれる。こちらの送付した資料に不備があっても丁寧に再送を頼んでくれる様な出来た人で、私はこんな人が上司だったならと憧れていた、のに。
昨夜の、私の頬に包丁をあてがって来た姿を思い出す。遅く帰ってきた私に男と会ってきたのかと問い質してきた昏い瞳を。

「…文面からして卑屈なのは分かってた。 ちょっと優しくしてやっただけでバカみたいに嬉しそうにしてるのがメールなのに分かって、でも仕事ぶりは良いと来た。 そういう扱いやすい部下が欲しくて調べたんだよ、お前のこと」

昨夜、凶器の冷たさに晒された頬を温かい手のひらが包む。そういえばあの包丁はどうしたのだろう。まさかあそこに突き刺さったままなのか。

「女だと分かってもっと丁度いいと思った。 惚れさせりゃ便利な手足になるってな。 その為に下心見え見えのメールを寄越してたってのにお前と来たらちっとも靡かねえ。 ただ懐き具合が上がるだけで、人語を解する犬か何かかとすら思ったが…でも本当にそういう人間なら、それなら部下じゃ勿体無えだろう」

旋毛に柔らかいものが落とされては離れる。頬を包んでいた手のひらが腰に触れながら通り過ぎ、お尻に触れて裾を手繰る。止めなくてはいけないのに、怖くて身動ぎ出来なかった。

「偶然を装ってお前の家の前でばったり…って出会いを想定してたのに、お前の帰りがあんまり遅いから変な想像して早まっちまった。 でも仕方ないよな。 お前がちゃんと帰って来てたら、俺は真っ当に口説いてたんだから」

本来なら膝下にあるべき裾が腰まで捲られている。下着越しにお尻を撫でる手のひらが、時折いたずらに太腿を揉んだ。

「ごめん、なさい」
「お前は悪くない。 悪いのはお前を使い潰そうとしたあのクソ会社だ」

ゆっくりと肩を押されて仰向けにされる。私の動きに沿うようにして覆い被さる尾形さんの顔が、やっと見えた。

「だから何とかしてやる」

不敵な笑みを湛えた口元が静かに降りてきて、鼻先を掠める。
…私は知っている。尾形さんの仕事ぶりの速さを。
何とかすると言ったら今日中にでもなんとか、いや、何かしてしまうのだろう。

「かなみ、俺のかなみ。 一生可愛がってやる」

…その日の夕方。
スマートフォンも家の鍵も取り上げられて自分の家に軟禁された私は、何気なく見ていたテレビで会社が全焼したことを知る。焼け跡からは男性の遺体がひとつは出てくるだろうことを察し、チャンネルを変える。

「…早く、辞めてたら良かった」

本当に尾形さんは仕事が速い。

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