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亡霊だった男

自分は何者で、何故ここに居るのか。そんなことを考えるのはとうに止めてしまった。
一つ瞬きをする間に木々は青葉から紅葉へと移り変わっていることも少なくなく、あたり一面が真っ白に染まる冬には己が死霊であると思い知らされる。あの刺すような冷たさを感じる為の生身の身体がもう無いのだと、無垢な白が知らしめてくるのだ。
不思議と春の頃に目覚められないのは業というやつなのかと自嘲してみて、己の名前も失ってしまったのに、何故そんな言葉は覚えているのかと更に腹を抱えて嗤ってしまった。
この身は、否、魂は、てっぽう橋と呼ばれる橋を越えられない。その袂にある石碑に繋がれた犬の様に、限られた距離を彷徨う亡霊として時が過ぎるのを見ているしか出来なかった。
自分は何がしかの罪を犯して、その贖罪の為にこんな無為な存在に追いやられたのかと考えたこともある。記憶を、名を失った様に、いずれ自我も溶けて消えるまでじっくりと甚振られることが課せられた罰なのだと。
…そんな日々を壊したのは、ひとりの少女だった。

「ごめんなさい!」

まるで鼓膜を直接揺さぶられたかの様な感覚と共に、久方振りに意識が鮮明になる。地に投げ出した足の先に誰かが立っているが、何故その爪先は自分に向いているのかが分からない。こちらは石碑の裏手で、供養の為に来た誰かであるなら無用のはずだが。

「服、濡れませんでしたか」

跪いた少女の瞳がこちらを見つめている。自分を、見ている。自分を、自分を。

「…あれ?」

こちらの足の下にある地面が濡れているのに、衣服が全く濡れていないことに気が付いたのだろう。少女の顔に戸惑いの色が広がり、触れようとした手がすり抜けて泥に落ちる。
───瞬間、少女の顔色が変わった。

「心配要らねえよ、お嬢さん。 俺は幽霊だからな」

通りすがりの人間を眼で追うことはあっても、誰かに声をかけるなど記憶にある限り初めての行いだった。
きっとこの声は届くという確信の下、少女の反応を待つ。

「ゆう、れい」

呆然と繰り返す唇を見つめる。大きな瞳に映し出されているのは自分の背後に聳える石碑だけだが、間違いなく彼女は自分を視ていた。
これを奇跡と呼ばずになんとする。

「初めまして」

少女はかなみというらしい。今まで全く気付かなかったが、彼女の祖母は毎日の様にこの石碑の世話にやってきていたと言う。しかし最近足腰が悪くなり、その代わりをこれから彼女が務めるのだとか。
それから自分は瞬きを止めた。また瞳を閉じれば驚く程の時間が過ぎ去っているかも知れないのが恐ろしくて、一瞬でも彼女を見逃すのが惜しくて。
自分の存在に怯えながらも祖母にそれを悟らせまいとして、少女は、かなみは健気にやって来る。一歩近付けば三歩逃げる彼女を追い回し、石碑周りを何周したことか。
…楽しかった。ただただ、嬉しかった。

「どうしてここに居るんですか」

腰程しか背丈の無かったかなみの背が胸元にまで届こうかというくらいに至った時、不意にそんなことを訊ねられて首を傾げた。そんなもの、こちらが訊きたいくらいだというのに。

「さあなあ。 気が付いたらここでこうなってた。 なんにも思い出せねえ」

魂だけになった時、生前の記憶は身体に置いて来てしまったのかもしれない。或いはここで死んで、記憶諸共身体は地に還り、魂だけが置き去りになったのか。何れにせよ何も分からないとしか答えようが無かった。

「自分の名前も?」

名前。親から譲り受けた姓と、授けられた名。そのどちらも欠片も思い出せないのだからとんだ親不孝者だ。

「好きに呼べばいい」

名無しの権兵衛と名乗っても良かったが、古臭いと笑われるのは嫌だった。投げやりに託して、かなみが自分を何と呼ぶのか楽しみに待つ。けれど彼女は自分をどうとも呼ぶことは無かった。
それもそうだろう。呼びかける必要が無い。
会う時はいつも二人きりで、彼女が口を開けばそれは自分に対する言葉に他ならない。隠れて呼ぶ様に仕向けようかと画策もしたが、幽霊を名乗った癖に姿を消すことも出来ないのだからお笑い草である。

「おはようございます」

毎朝花を持ってやって来るかなみにおはようと返して、学校に向かう後ろ姿を見送る。てっぽう橋を楽々と越えて行く後ろ姿は羨ましい程に生きていた。

「ただいま」

夕方、朝供えた花を回収する彼女をお帰りと出迎える。今日は調子が良かったのか、祖母が昼間に打ち水に来たぞと教えてやることもあった。それ以外はかなみが話すに任せ、偶に相槌を打ってやりながら聞いている。記憶が呼び起こされる様なことは無かったが、人らしい営みを聞いて想像することは良い暇潰しになった。彼女を待つ時間は苦ではない。が、会える時間はあまりに少なかった。

「私のあだ名、墓守なんですよ。 酷いと思いません?」

ランドセルという背嚢から黒い手提げ鞄へ、男の様な袴から頼りなげなスカートというらしい着物へ装いを変えた頃、彼女は心底不服そうにそう零した。
田舎町と言えど、やはり石碑の世話を毎日欠かさず行う彼女は少々浮いているらしい。登下校の行きがかりだからと彼女は然程手間に感じていない様だが、その行いは信心深さが無ければ出来ないものだろう。自分の存在があるからだと言ってもらえたら、これ程嬉しいことは無いけれど。
それにしても、墓守。石碑を指して墓とは少々意味が違う気もするが、子供らにとっては変わりない物なのかもしれない。

「何も出来なくてつまらなくないですか」

時折彼女はそう訊いてくる。日がな一日、ここで空を見上げ鳥を撃つ真似をするくらいの日々に気が狂わない自分はやはり人間では無いのだろう。幽霊を名乗ったがもっと虚ろなものである自覚はある。言うなれば亡霊か。

「お前がいる」

しかしかなみと出会うまでの日々に比べれば今はとても充実していると言えた。思索に耽る程の自我が蘇り、少し前から瞬きが恐ろしくなくなった。木々は青いままで、ゆっくりと紅く色づいて行く様を彼女と見守る日々を過ごせている。
そう、つまらないなんてことは無い。偶に自分が生きているのではと錯覚してしまうくらいに楽しんでいる。

「この中に覚えのある名前はありませんか」

かなみが広げたノートには人名らしい文字がずらりと並んでいる。どうやら文字の知識はまだ失われていなかった様で、それぞれが何と読むものかくらいは分かった。
一つ一つ、辿っていく。しかし是と来るものは無く、それを告げると彼女は悲しそうに目を伏せた。

「やっと呼べると思ったのに」

初めて、名前が欲しいと思った。

「…もう帰るのか?」
「これから友達のお見舞いに行くんです。 小さい頃に寝たきりになっちゃった子が居て…まだ起きる見込みは無いんですけど」

スカートの色が黒から紺に変わって少し、かなみは日暮れを待たずに去ることが多くなった。初めて出会った頃からは見違える程に一端の女性となった彼女が通う先が気になって仕方ないのに、この足はてっぽう橋どころか石碑からそう離れることも出来ない。
寝たきりということはかなみが見舞いに行っても分からないのだろう。それなのに自分との時間を切り詰めて向かうことが、次第に許せなくなっていた。本当はもっと会いたいのに、行くなと引き止める為の手が己には無いことが悔しかった。
…それにしても今まで見舞いに行く素振りなど無かったのに、何故今になって通う様になったのか。最近かなみの表情に陰りが見えることと関係があるのか。
石碑を見上げる。表面に掘られていた名前の羅列は風化と共に削り取られ、読み取ることは難しい。

「…もう、お役御免だろ?」

彼女は言った。現代において女性は嫁がなくてもひとりで食べていける様に変化したのだと。だからまだ嫁に行かないのだと。
それがもし、嘘だったなら。嫁ぎ先が決まって、そこが善くないところだから怯えているのだとしたら。
自分が殺してやらなければならない。
夜中、石碑に向けて銃を構える。今までは自分同様実体の無い物だからと戯れに鳥に向けているだけだったが、何故か今夜は撃てる気がした。
幾度と無く引いた引き金の感触に相違は無い。照準の合わせ方も無意識が覚えている。
恐らくこの石碑が自分をこの地に縛り付け、この世に留めている要なのだろう。これを中心に行動を制限されているのだからそうとしか思えない。これを撃てば自分の魂は途端に霧散するのかも知れないし、鎖の切れた犬が暴れるが如く、怨霊となるのかも知れない。何にせよもう二度とかなみと会う朝が訪れないことだけは確かだ。それでも撃たねばならない。

「今更ひとりになんて戻れるか」

パンと乾いた音が響いて、夢は覚める。



目の前にひとりの少年が横たわっている。
痩せぎすだが髪や眉は念入りに整えられ、纏った衣服も小奇麗だ。丁寧に、まめに世話をされているのだろう。それが空っぽの器だとも知らないで御苦労なことだと嘲笑を漏らし、そんな暇は無いのだったと首を振る。
石碑を破壊した途端、自由と引き換えに意識が混濁し始めた。明滅を繰り返す視界の中で必死に歩を進める。亡霊なのだから飛べないのかと悪態を吐いたところで出来ないものは出来ないのだから仕方ない。
かなみからそれとなく聞き出した情報を手掛かりに辿り着いた家はそれなりの構えの屋敷で、扉も壁もすり抜けた先の寝台でこの少年を見つけた。これがかなみの幼馴染なのかと戸惑ったのは、その話振りから彼女と同性なのだろうと思っていたからだ。
まあ違っていたところで構わない。肝心の魂を喪ってしまっているだけで、この身体の機能には何ら問題は無い。潜り込むには絶好の素体だった。

「待ってろよ、かなみ」

右手を伸ばして機械的な鼓動を刻む心臓を握る。その脈動に引っ張られる様な、吸い込まれる様な感覚と共に視界に変化が訪れた。
全身に奔る血管が脈打っているのがありありと分かる。機械によって送り込まれる酸素を取り込んでは排出する肺が痛い。
久方振りの呼吸は苦痛でしか無く、身動ぎすることすら出来ない身体は窮屈だ。それでもこころは歓喜で震えていた。この身体はもう、自分の物である。



「くっつきすぎだと思うんですけど」
「んなこたねえよ」

すっかり女性へと成長しきったかなみの身体はいくら抱き締めていても飽きが来ない。柔らかくて暖かくて、そういう意志を持って触れると可愛い声で鳴くところなど病み付きになって然るべきだろう。
今日も今日とて後ろから抱き込んだ身体に頬を摺り寄せる。憮然と不満を漏らす声をいなして、二の腕の内側を揉んだ。

「だから! 何でそこ揉むの!」

見た目からして年上だろうからとかつて敬語を使っていた彼女も、幼馴染の身体を得た自分のことを同い年の恋人として受け入れてくれたからか、今は大分砕けた口調で接してくれている。
きいきいと手足をばたつかせられたところでびくともしないこの身体は、きちんと己の物として調整し、管理している。折角のまたとない贈り物だ、粗末にしては罰が当たる。

「なんだ知らねえのか? ここ、胸の柔らかさと同じだって言われてるんだぞ」

言いながら二の腕をもう一度揉む。ふにふにとした柔らかさはもう手放せない。

「ち…痴漢みたいなことしないで!! 離して!!」

胸の下に回した腕に体重をかけて拘束を振り切ろうとする彼女は、そうすると本命の柔らかさを押し当てることになると気付いていないらしい。見下ろした首筋は真っ赤で、息を吹きかけると踏まれた蛙の様な声で鳴いた。無様だが、それも可愛いと口元が綻ぶ。

「恋人なんだからいいだろ」
「節度ってモノがある!」
「てめえの家で何をどう憚るってんだ。 ほら、触らせろ」

服越しに乳房を揉み上げる。途端口を噤んでしまうのだから、本来騒ぐべきはここだろうにと呆れ半分愛しさ半分で息を吐いた。成程これでは確かに痴漢の良い餌食だろう。満員電車に乗る時は自分がついてやらねばならないという使命感が再び燃え上がる。

「なあ、今日も泊まっていけよ」

初めて彼女を家に上げた日から間も無く恋人となったものの、まだ日は浅い。性的な接触に慣れない彼女を宥めながら抱くのも悪くは無いが、そろそろ少しは積極的になって欲しかった。
帰る帰ると情けない声を絞り出す彼女の背に手を宛がう。位置としては丁度左胸の裏側、どくどくと、掌の下で脈打つ鼓動に意識を傾けた。
亡霊のままでは分からなかった彼女の鼓動、体温、香り、柔らかさ。その全てが愛おしく、手放し難い。

「二度と俺を置いて行けない様にしてやるからな」

小さなその呟きは、腕の中で必死にもがく彼女には聞こえなかっただろう。その本懐を果たすことはこの身体で子孫を残すことと同義であり、それはこの身体の持ち主だった少年と、息子を決定的に奪ってしまったその両親へのせめてもの餞である。


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