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宮野さんの自称恋人

組織への潜入捜査の許可が下りた時、果たして自分はどんな顔をしていたのだろう。長年の付き合いである上司でさえ表情を引き攣らせていたのだから余程張り切ってしまっていたと思われるが、仕方が無い。実の母親から勘当されることも覚悟してFBIに入った動機にして悲願、その達成が直ぐそこまで来ているのだから。
下調べは既に済んでいた。幾度にも及ぶ申請を始めた時から手を抜かず、GOサインが出たのなら直ぐに実行に移せるよう綿密な準備は常にあった。だから彼女との出会いは偶然であり必然と言えよう。

「大丈夫ですか!? ごめんなさい!!」

どちらが被害者か分からない悲痛な声を上げて駆け寄ってくるその姿は、写真で前以て確認していた姿と何ら変わらない。間違いなく標的であることを確認して、大丈夫だと答えながら立ち上がる。
しかし我ながら少し無茶をしたと思う。彼女が徐行運転をしていたことを確認して当たりに言ったとは言え、その気で無ければ骨折は免れなかっただろう。否、その方が彼女との接触の機会が確実に次へ繋げられていたことを思えば失敗したかも知れない。ボンネットに乗り上げるくらいはすべきだった。こんな軽く足が当たって尻餅を着いた程度では精々捻挫しか訴えられない。

「す、直ぐに救急車呼びますから…! 警察も、あ、先に救急車…!!」
「いや、いい、大丈夫だ」

通報しようとする震える手を握り押し留める。人を害することにまるで耐性が無い彼女は本当に組織の人間なのかと、己が調べにも関わらず一瞬疑ってしまった。こういう人間を今から誑し込んで足掛かりにしようとしていることに罪悪感さえ湧いてくる。
が、そんな感傷は無用だと振り払う。待ちに待った潜入の機会を不意にする手は無い。

「でも」
「軽く足が当たっただけだ、念の為病院には行くが警察は大袈裟だろう」
「だめです」

警察を呼ばれると困るのは自分なのだが、この際恩着せがましく言ってしまおう。こんな形で前科一犯となることは誰だって避けたいはずだからと、そんな悪企みにしかし彼女は乗ってこなかった。まだ手の震えは収められないくせに、決然と断じてみせた。

「悪いことでしょ、それ」

その後彼女と数十分押し問答を続けることとなったが、その主張するところを纏めるとその一言に尽きた。悪いことはしないと、したくないと言外に語っていた。いっそ悪いことだからしたくないと口にしないのが不自然なくらいに、彼女は言葉をより分ける。根が深い何かを抱えていると察した。その何かが彼女が組織にいる理由そのものなのかも知れないと。
結局その場は自分の勝利で終わった。警察に届けられると困るんだと、言葉少なの暴露に押し黙った彼女の頭が悪くなかったことに安堵する。治療費を全額負担すると言う申し出を受け、交換した連絡先にかけたのは三日後だ。よもやその再会の場で胡乱な眼差しに迎えられることになろうとは思いも寄らず、更に潜入に成功した後に面と向かって当たり屋呼ばわりされるとは想像だにしなかった。

『ライ、今どこ』

そんな懐かしい思い出になってしまった記憶を掘り起こしつつ煙草の煙を燻らせていると、上着の内ポケットに忍ばせていたスマホが振動で着信を知らせてきた。また仕事かとうんざりした心地で画面を見る。が、表示された名前は予想外の彼女のものだった。

「施設内に居るが…どうした、シェリー」
『車をジンに持って行かれた』

憮然とした顔が目に浮かぶ様だった。つい漏れた苦笑はばっちり聞こえていたらしく、声に険が混じる。

『笑い事じゃない!! さあ帰ろうって駐車場行ったら車が無かった時の私の気持ち分かる!? あのだだっ広い地下全部走り回ったんだから!! メモの一つでも寄越せばいいのに、ジンのヤツ、こっちから電話かけて漸く自分が持ってったって言って!!!』

彼女の声が僅かに反響して聞こえる。どうやらまだ地下の駐車場にいる様だ。まだ半ば程も燃えていない煙草を灰皿に押し付けて立ち上がる。彼女の要求は分かりきっていた。

「なんだ、また車検出し忘れたのか」
『……日付けなんか一々数えてない』
「フッ、ジンも世話焼きになるワケだ」
『頼んでない!!』
「ああ、だから構いたくなるんだろう」

潜入捜査は順調だった。女を足掛かりに組織入りした悪辣さは一部では高く評価され、持ち前の狙撃の腕もあってコードネームを与えられる様になるまでそう間は無かった。
厄介だったのは足掛かりとして目をつけたのがシェリーだった為にジンに睨まれてしまったことか。自分が目付役を務める子飼いの研究員が誰を、何を招き入れたのかと今尚精査の目を光らせている。お陰で今はシェリーのスマホを掠め取ることも出来ない。
と言うのも組織の構成員として取り立てられて直ぐ、もう用済みでしょと吐き捨てられたのが気になって一度盗み取ってみたところ、自分の連絡先もメールのやり取りも綺麗に消されていたことがあった。何故今になって接触を絶とうとしているのか分からず、取り敢えず登録し直して返しておいたところ、数日後に気付いたシェリーに怒鳴りつけられてしまった。当たり屋野郎だのストーキングだの、成程客観的に省みれば不気味なことをしたと気付く。しかしあの時はそれが当然のことだと思ったのだ。極々普通に、連絡が取れなくなったら困るじゃないかと。

「それで、お宅まで送ればよろしいのかお姫様? 寄り道があるなら付き合うが、他の男のところへ行く足にはしてくれるなよ」
『相手が居ないって分かっててそれ言う?』
「うん? 俺がいるだろう?」
『はあ? これでも美食家なんですけど?』
「偏食家の間違いだな、その歳でしょ……おっと失礼、セクハラになるのだったか」
『私を送り届けた後に単独事故で死ね』

こんな組織に居てまともな恋人なんか出来るかと泣き言を漏らす声は弱々しく、どうにも愛おしい。半ば駆け込む様に乗り込んだエレベーターに後を任せ、ちょっと声がイイからってからって調子に乗るなと悪態かよく分からないことを吐いてくる彼女に愛車の傍で待つ様伝える。彼女のことだからジンから自白をとって直ぐ自分に連絡をとってきたと思われるが、急ぐに越したことは無いだろう。
チンと鳴り、エレベーターの扉が開く。薄暗い地下駐車場は不気味な静けさに包まれており、その中を記憶を探りながら歩く。今朝は愛車を何処に止めたのだったか。と。

「ライ! 何処行くの!」
「…ああ、そこか」

明かりの切れた暗がりの下、見慣れた赤が潜んでいた。そう言えば今朝、ジンの車が停めてあるのを見てせめて少しでもと目立たないところへ置いたのだった。助手席の扉の前でぶすくれる彼女に自然と笑みが向いた。

「中々の残業だったな、その熱心さには全く頭が下がる」
「…普通に労えない? スコッチを見習って」
「人には向き不向きがあると思わないか? 俺は口下手だからな、こうして行動で示すさ」

キーを取り出し鍵を開ける。憮然とした面持ちのままではあったが、彼女が乗り込むのを待って運転席へ身を滑らせる。シートベルトを締めながら耳を澄ませてみたが、他の車のエンジン音は全く聞こえなかった。ここまで来れば安心とばかりに差し込んだキーを思い切り捻る。駆動直後のエンジン音がけたたましいのはご愛敬である。

「で、俺で良かったのか?」

広い駐車場なのだからと大周りをして方向転換し、地上への通路を目指す。一体組織は何を考えてこんな巨大とも形容出来る駐車場を作ったのだろう。

「他に頼める仲のやつなんていないし」
「ジンが居るだろう。 送ってやるとか言われたんじゃないか?」

研究員としてネームドになったシェリーは組織の中でも異例の存在になる。他のネームドである工作員とは、工作員の方から興味を持って彼女の研究室を訪ねない限り接触は皆無となる。実際自分が把握している限りでは目付役のジン、その相棒のウォッカ、やたらと仲の良いスコッチの三人しか関わりを持つ者は居ない。彼女自身の口からベルモットと面識があると聞いたが、どんな仲かはまだ裏が取れていない。幹部の中でも古株であるベルモットの身辺を探るにはまだ時期尚早だった。

「またいつもの軽口でね、言われたよ。 代車寄越さないし嫌がらせ酷すぎない? こんなに勤勉なのに」

毛程もジンの言葉を信じない姿勢に、一体どんなやり取りをしてきたのだろうと首を傾げざるを得ない。ジンの彼女への執着は一目瞭然だと言うのに、それを向けられている当人はこうして淡白に過ぎる反応を示している。自覚が有るのか無いのか、判断を迷う。

「長い付き合いと聞いたが」
「あの男は付き合いの長さだけで愛着持つような人間性持ってない。 と言うか、ジンに気をつけろって言ったのそっちでしょ」

忘れたのかとバックミラー越しに睨まれる。覚えていたことは驚かない、素直に従っていたことが意外だった。あの忠告を受け入れるということはジンからの執着を認めることになる。あの時、どこか他人事めいた口振りだったことも含めて聞き入れられるとは思っていなかった。自覚は無い、否、実感が薄いがその前提を持っておこうということだろう。フロントガラスに僅か映る己の顔にじわりと喜色が滲んだ。

「ふむ、俺はそれなりに信用されているか」
「…ん、それなりにはね」

小さい声が肯定を返してくれる。ついアクセルを踏み込みそうになるのは抑えられたが、口元が緩むのはどうにも出来なかった。そうかそれなりか、と繰り返す己の声の弾み具合さえおかしくて、つい声を上げて笑いそうになった時だった。

「うわ眩しっ」

もう地上に出ようかと言う通路の終わり、反対車線に黒のポルシェが現れた。対向車を気遣うことのないハイビームにシェリー同様目が眩みそうになるが、道が直線であることが幸いだった。目を眇めたままアクセルを僅かに踏み込み、とっとと光の範囲から逃げ出す。後方へ流れていく対向車が鳴らすけたたましいクラクションの音が通路内に派手に木霊した。抗議の意味で鳴らしてやりたいのはこちらの方だというのに。

「大丈夫か? シェリー」
「ん…ちかちかする…」
「俺もだ、脇道で少し目を休めさせてくれ」
「了解」

対策を取ったとはいえ出会い頭に灼かれた目で夜道を走ることは危険である。施設内を出て直ぐの脇道に入り、車を端に寄せて停車させた。ぎゅっと瞼を閉じても視界は白んでいた。

「誰の車、さっきの…なんて傍迷惑な…」

助手席のシェリーが恨みがましく呻く。どうやら自分より重症らしいが、こればかりは時間を置くしか対処法が無い為何をしてやることも出来ない。
ちらと後方を窺う。どうやら幸い、追ってきてはいない様だ。

「さてな。 お前を迎えに来たジンだったかも知れん」

実際そうだったと教えてやるのもいいが、変なところで律儀な彼女の性格を考慮するとそれは憚られた。ジンへの好感度の低さからして考え難いが、迎えに来てくれたのなら戻ると言いかねない。研究室の明かりが点いていることに気付き、待っていた自分の立つ瀬がなくなってしまう。

「まさか、無い無い」

笑みを含んだ声で一蹴されるあたり、普段の行いというものは大事だと思い知る。一仕事終えて戻ってきた可能性も否めないが、あの抗議のクラクションはやはりそういうことだろう。ちゃんと迎えに行くから待っていろと言えば良かったものを。例えばこうして。

「シェリー、任務さえ無ければ暫く足代わりになってやろうか?」
「え、いいの?」
「ああ、パートナーの世話を焼くのは恋人の特権だろう?」
「その与太話はどうでもいいけどお願い。 ガソリン代は経費で落とすから」
「ちゃっかりしているな…」
「しっかりって言って。 って言うかその恋人っての、いつまで言うの? なんかもう鉄板ジョークになりつつあるけど」
「さて」

含み笑いを漏らしつつ、幾度目かの瞬きをする。もう運転に支障が出ない程度まで快復してはいるが、運転中では出来ない悪戯を思いついてしまった。まだぎゅっと目を瞑り快復に務める彼女の方へ身体を寄せる。座席に伝わった振動から何か察知したらしい彼女が顔を上げた。そう、その体勢の方が都合が良い。形の良い耳に触れそうな程唇を近付ける。

「お前がうんと言ってくれるまで。 続けてみようか」
「ッ!!?!!?! いったァ!!!??」

そうして常より低く潜めた声をそっと叩き込んだ。途端声にならない悲鳴を上げシェリーが飛び上がる。声の方向とは逆へ飛び退こうとした為に強かに頭を窓へぶつけ、もんどりうっている様は何と形容したものか。率直に言えば面白可愛いが。

「こ……のっ…! セクハラ野郎…!! 訴えて勝ってやる…!!!」

狭い座席の上で頭を抱えて小さくなっておきながら、その負けず口は全く減らない。逞しいものである。

「ハハ、俺の声はイイんだろう?」
「性格はサイアクだけどね!!!!!」

この期に及んでも声を否定しない彼女の絶叫に腹筋が震える。そんなにこの声が気に入っていたとは知らなかった。しかし一方で一つの謎が解ける。彼女のスマホを掠め取った時、何故留守番電話に吹き込んだ伝言データは残っていたのかという謎が。

「弱点を晒した者には逃げ場など無いということを教えてやらなければならないな」

アクセルを踏む。派手なスタートダッシュのエンジン音に紛れた呟きは、未だ悶える彼女の耳に届くことは無かった。