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この手にある

「…ウォッカ、シェリーの奴寝やがった」

炊飯器にセットした米が炊き上がるまであと四十分余り。保たないだろうなと察してはいたが、やはりシェリーは寝落ちてしまったとジンはメールで知った。
酷い文面だ。寝ぼけ眼の所為か熱の所為か、或いは両方か。お粥が出来たら起こして欲しい旨を告げているのだろうとあたりをつけられたのは、先程粥の準備のことを教えた時、望洋とした瞳が一瞬煌めいたからだった。相変わらず食い意地が張っているとジンが笑ったことに、シェリーは気付いてはいなかった。

「起き抜けでペットボトル一本飲み干せたんなら、小一時間も寝りゃあ粥も喰えるでしょう。 味は濃いめにしときやす、残った米は冷凍室に放り込んどくって伝えてもらえやすか」
「ああ」
「洗い物は流しに置いとけともお願いしやす。 明日の夕方…遅くとも日が落ちて直ぐくくらいには来れやすから」
「ああ」

甲斐甲斐しいことを並べ立てるウォッカの背を何気なく眺める。
シェリーがレトルトの粥を要求したことを知り、そんなんじゃ治るものも治らねえと声を上げた彼はジンを送り届けるに留まらず、スーパーに立ち寄って何やら買い込んできた。長い付き合いだが料理が得意だと聞いたことは無く、訊いてみれば謙遜なのか人並みですと返してくる。まあ自分が手間をかけるでなしと、ジンは止めなかった。ネギを刻む包丁の音は小気味よく途切れない。

「あ、アニキ、シェリーの奴に熱冷ましシート頼まれていやせんでしたか」
「ああ…これか」

ペットボトルの詰まったビニール袋とは別に詰められた袋から箱を取り出す。とにかく一番多く入っている物を選んだが、今見るとフローラルの香りなどという表記があった。箱を開けた途端に匂わないだろうなと思わず眉を顰めつつ封を開ける。一先ず大丈夫の様だ。

「取り替えてきてやって下せえ」
「あ?」
「鍋を見てて貰えるなら俺が行きやすが…」
「……てめえ、風邪だなんだの貰いやすいだろうが。 出汁の面倒見とけ」

自発的に体調を崩すことは皆無の癖に、周囲の誰かが風邪を引けば漏れなく貰うウォッカを今のシェリーに近付けられない。すいやせんと頭を下げるのを一瞥して箱を鷲掴み、出てきたばかりの寝室へ戻る。
くったりと萎れる身体は掛布の下へほぼ隠れているが、投げ出される様にベッド外へ垂れる手に目が吸い寄せられる。思わず口角が上がるのは、あの手が何かを求めていることを知っているからだった。

「よう。 …俺はここだ」

下を向く指先に、己の指先をくっつけては離す。一度目でひくりと反応を示した綺麗な爪のついた指は、ジンの指を捕らえようと都度うごめく。
それを幾度か楽しんで、ジンは動きを止める。待ってましたとばかりに指先が握り込まれるのを見つめる瞳は、平生の鋭さが嘘の様に蕩けていた。

「そうだ、それでいい。 俺を離すな」

その脳裏に蘇るのは数年前、シェリーの目付役から外される以前の一夜のこと。
今日と同じく、酷く熱を出して寝込む幼いシェリーの世話を苛立ちながら渋々こなしていた。「あの方」からの命令でなければこんな面倒は誰ぞに任せたものをと、シェリーが目を覚ます度に睨みつけ怒鳴りつけた。しかし熱で聴覚を鈍くした彼女は大して堪えた様子も無く、それがまた腹立たしくて声を荒げる。
とうとう縊り殺してやろうかと、その身体を跨いだ時だった。
床に着いた手に熱が触れる。指先を包んだそれは完全に不意打ちで、思わず硬直しつつもジンはその正体を検めるべく視線を走らせた。
ここは生まれ故郷のあの街とは違う。蛇なぞいないはずだと己に言い聞かせて逸る鼓動を抑え、目を凝らす。そして絶句した。

「俺の手を取ったのはお前からで、俺はそれを拾い上げてやったんだ。 今更離すなんざ叶うと思うなよ」

己のシェリーに対する扱いはぞんざいなんてものでは無かったと、ジンは自覚していた。機嫌の赴くままに小突き回し毒づいて、彼女が他の構成員に訴える機会が無いのをいいことに当たり散らして。看病だってろくなものではなかった。熱を冷ませと顔に水をぶち撒け、レトルトの粥を温めもせず皿にも開けず投げつけた。
だと言うのに、何故か彼女はこの手を握っていたのだ。熱の為に昂る体温が絡みついた指先を呆然と見つめる。幼い寝息が深く響く中、その手を振り払うことは叶わなかった。
当時のジン自身、己の心境の変化が分からなかった。けれどそれから、彼女を視界に入れる度に湧き上がっていた苛立ちだのはすっかり無くなってしまっていた。
翌日には一人で動き回れるまで回復した彼女にだんまりでいることを随分不審がられたが、更に翌日も、翌々日も、翌週も同じ態度で居れば何も訊かれなくなった。
彼女を見る度に指先に蘇る熱がどうしようもなく暖かい。常に抱えていたどす黒いものが溶かされていく心地は、安堵に似ていた。

「…ガキくせえ寝顔しやがって」

汗でしっとりとした前髪をかき分け、すっかり温まった熱冷ましシートを剥がす。ウォッカに持たされた蒸しタオルで顔やら首筋の汗を拭ってやり、新しい熱冷ましシートの封を開けると嗅ぎ馴れない芳香に鼻腔を擽られた。熱のある人間に香り付きの物など意味があるのかと内心だけで毒づきながら貼り付けようとして、手を止める。
…すっかり寝入った顔はあの頃のままだった。
だから中身も変わっていない。己を選んだ本心を秘めて、宮野かなみはここに在る。
それに彼女自身が何時気付くかは知れず、気付かないかも知れないことを思えば己が執る道はひとつだった。心置きなくこの手の中に落ちて来られるようお膳立てをしてやればいい。取るべきはこの手だけなのだと気付ける様、他の選択肢を潰してやろう。一度や二度の失敗など構わない、潰せれば、消えるならそれでいいのだから。

「俺だけだと教えてやるよ、かなみ」

熱い吐息の漏れる唇を食む。かさついた唇を労る様に舌先で撫で、ちゅうと吸い上げることを繰り返す。小まめに唇を離すのは起こさない為だ。よく寝なければ早く治らない。この行いを気付かれたくない訳では、無い。
ーーーしっとりと濡れた唇を指先で一撫でし、ずっと手に持っていたそれを漸く貼り付ける。僅かに皺が寄ったものの支障は無く、ぴたり張り付いたその上から額に口付ける。
胸を満たす心地が愛情だと呼ばれるものだということに、ジンは薄々勘づいていた。