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合言葉は「ノック」

最近、スコッチが来ない。メールなり電話なりすれば連絡が取れるのに、この研究室へぱったりと姿を見せなくなった。お蔭でインスタントコーヒーの在庫が溜まってしまい、それに気が付いたジンが代わって消費している。

「安い味だな」
「当たり前でしょ」

美味い美味いと飲むスコッチの可愛げを見習えとばかりに睨むが、ジンがそんなことを知っているはずも無い。スコッチの指定席となっていた場所へ腰を据え、彼の好んだコーヒーを啜る姿に違和感と苛立ちが募る。裏腹に、ジンが上機嫌なのが気にかかった。

「何か良いことあった?」

ジンの機嫌が良い時は大抵任務が上手く行っている時だ。つられる様にウォッカも足取りを軽くしているのが常だったというのに、先程ちらりと顔を覗かせただけで退室した彼は戸惑った表情を浮かべていた。つまりジンの浮かれている理由はプライベートに起因している。普段はまるで興味も無いが、今ばかりは無性に気になってしまった。随分悪い顔をしているので十中八九ろくでもない内容だろうが。

「ああ、目障りなネズミの駆除の目途が漸く立ってな。 手こずらせてくれた分、どう料理してやろうかを考えれば楽しくて仕方ねえ」

殺しきれていない笑いで語尾が震えている。予想通りろくでもなかった内容になんと返していいものか分からなくなるが、ジンをして手こずらせたと言わしめるとは大したスパイが居たものだ。
…一瞬スコッチの顔がちらついたが、泳がされている感のある彼をそう評しはしないだろう。若しやするとバーボンか。

「そんなに有能なネズミならとっくに察知して、もう逃げる準備してるんじゃない?」
「ハッ! それはねえよ」

嫌な予感を振り払おうと適当に発した言葉は、間髪入れずに鼻で笑い飛ばされてしまった。何故そうも自信満々なのかと視線を向けると更にその口の端が吊り上がる。多分、悪魔ってこうやって嗤うんだろう。

「逃げやしねえさ。 身の程を弁えねえネズミは排水溝に逃げ込めることも忘れて陽向を謳歌していやがる。 その間に退路を一つ一つ潰してやるのはな、確かに手間だが遣り甲斐があるもんだぜ?」
「…手こずったってそういう意味?」

涌いた嫌悪は隠せなかった。くつくつと喉で笑うジンの帽子の下に角が生えていようと驚かない自信は元々あったが、今の会話で確信に変わった。先天性か後天性かは分からないが、この男の性根はどうしようもない程ひん曲がっている。

「帰る」

ネットに接続していない、実験結果を記録する為だけのラップトップの電源を落とす。画面が消えるのを待つ間に申し訳程度に広げていた器具を片付け、洗浄が必要なものはシンクへ置いて水に浸した。ちゃんとした洗浄は明日に回す。
ジンの手こずった、がそういう意味であるならこの嫌な予感は外れではないかも知れない、急がなければ。

「好きにしろ。 俺はもう一服させてもらう」
「安い味なんじゃなかったの」
「マズかねえさ、これはこれで味がある」

ジンは多分、私がこれから何処に行こうとしているのか、何をしようとしているのかを分かっていて見逃そうとしている。今更私じゃどうしようも出来ない工作を仕掛け終えたが故の余裕なのだろう。
ラップトップをバッグに仕舞い、ジンの横を擦り抜けて扉へ向かう。持久走には自信が無いがやるしかない。と。

「待て」

ドアノブにかけた私の手に、一回り大きなジンの手が多い被さる。気が変わったのかと危ぶみながら見上げた先、想定よりも剣呑でない瞳がじっと見下ろしていた。

「今まで、一度でも死体を見たことがあるか?」
「…無い」

両親の死を思い出す。死体が無いままに執り行われた葬儀や、空の骨壺を納めた墓のことを。私は見るべき死体を見ることが出来なかった。

「今日見る覚悟はあるのか」

ドアノブごと握り込まれた手の甲を、ジンの指が滑る。引き剥がすでも無い不思議な仕草だが、この男の真意は読もうとするだけ無駄である。

「そんなもの必要無い」

ドアノブから手を離すと同時、ジンの手を振り払う。緩やかな拘束は容易く解け、追い縋ってくることも無い。そうかという気の無い返事を聞き流して今度こそ廊下へ飛び出した。スコッチの死体など、今日も明日も、これからも見ることがあって堪るものか。

*

「なんっで繋がんないかな!!?」

昨日までは問題無く繋がっていたスコッチの番号に間違い無いのに、留守電どころかコール音さえ鳴らない状況に苛立ちと焦りが増していく。
地下駐車場、タイヤが四輪全て外された愛車の横で私は何をしているのだろう。窓ガラスに貼られた張り紙の筆跡からして実行犯はウォッカだと思われる。悪いな、なんて謝るくらいならやった振りだけしてくれればいいものを。ジンが立ち会っていたのなら仕方ないが。
薄暗い駐車場内を見渡す。バーボンが施設内に居れば事の次第を伝えて走って貰えるが、居なかったのなら表に出てタクシーを捕まえるしかない。スコッチの居場所はGPSで割れている為、必要なのは迅速な脚だった。

「あれは…確かライの」

残念ながら駐車場内に白の車は見当たらなかった。が、黒かグレイの車ばかりが並ぶ中、際立って目を引く赤に思い出す。何度か乗ったことのあるライの愛車だ。
慌ててスマホを操作し、履歴の一番上をタップする。着信頻度の順で並んでいる所為でトップに居ることが今程良かったと思ったことは無い。

『、シェリーか? すまん今取り込んでいる、後で』
「ごめんこっちも取り込んでる! 任務失敗してもベルモットに取り成し頼むから、こっち優先して! スコッチが濡れ衣で殺される!!」
『―――スコッチだと?』

正確には濡れ衣では無いが、スコッチがNOCと知らないライを引っ張り出そうとするならこう言うしかない。勝手な安請け合いをしてベルモットには申し訳ないが引き受けてくれるだろう信頼がある。
と、ライの声音が変わった。

『濡れ衣か、そうか…シェリー、俺は今そのスコッチの追跡中だ。 東都郊外の××区は分かるか?』

一瞬思考が停止した。スコッチの追跡を、ライが。

「分かる、けど…ライ、待って、スコッチはNOCじゃ無くて」

ライの狙撃の腕は言うまでも無く、近接格闘も抜群だとはウォッカの談だ。追手にはうってつけの逸材だと認めざるを得ない。

『落ち着け、俺にも狙いがある。 なんにせよ一度捕まえて話をするつもりだった。 スコッチのGPS座標は分かるか?』
「把握してる。 殺さないって約束してくれる?」
『俺が返り討ちに遭う心配はしてくれないのか?』
「今最優先はスコッチだからそういう冗談付き合えない」
『……妬けるな、本当に』
「じゃあ後で!」

冗談には付き合えないと言っているのに重ねてくるとは随分な余裕だと呆れてしまう。
しかしそうしてばかりもいられない。通話を終えたばかりのスマホに鞭打ち、組織のシステムにアクセスする。構成員の位置を把握する追跡システムを使用する権限は本来私には無いが、ベルモットから寄越された彼女のパスコードがある。スコッチが携帯を手放してしまったらそこまでだが、NOCである彼は情報の宝庫である携帯を無造作に捨てることなど出来ないだろう。完全に破壊するにしても逃走しながらでは難しい。即ちライが追い詰めるまでは彼の居所を把握していられる。

「ヒール履かない主義で本っ当良かった!」

目指すは地上、表通りでタクシーの確保。システムが示すスコッチのところまで、三十分以内に辿り着いてみせる。

*

生まれて初めて釣りは要らないと言ってしまった。のたくたと釣銭を用意するのに付き合えず、しかし帰路の都合を踏まえれば正に断腸の思いで発した啖呵だった。
それ程に今は一分一秒を争う。帰路の心配もスコッチの無事を確かめてからすればいいと切り替えた。
画面に映ったGPS座標は直ぐそこだ。並び立つビル群を見回す。真新しいオフィスビルに紛れる様に雑居ビルも林立する中で、地上を駆け回る姿は無い。だから何れかのビルの中からの反応なのだろうが、そこまで正確に絞り込むことは出来ない。足で探すしかなかった。

「…ここは違う」

スコッチのことだ、一般人を巻き込む様な状況は絶対に避ける。ならば見るからに人の出入りのあるオフィスビルには入らないだろう。一見しただけではどんなテナントが入っているかも分からない雑居ビルの方が可能性が高い。それも入口が路地に面している方が好ましいはず。

「ここ…も違う!」

それらしい雑居ビルに近づいてみるもスコッチの反応と私の位置とが重ならない。ここでは無いと離れてを繰り返して四回、私の耳が遠い足音を捉えた。カンカンと階段を忙しなく上る足音を振り仰いだ。

「ライ! …スコッチ!」

長い黒髪がたなびいてた。ならばとその先を目で追えば見慣れた黒のジャケットが翻るのが見えた。迷わず二人の後を追う。
正直駆け上がるにはかなりおっかない非常階段だ。足音が派手に響く鉄製で、下手に踏み外して転げ落ちでもしたら動けなくなるかも知れない。
更にインドアを極める私の脚の限界は近かった。五度目の折り返しを越える頃には膝が笑いだし、更に三度目の踊り場でよろめいた。
上る前にきちんと確認しなかったが、このビルは確か六階はあったはず。先行する足音は絶えて久しく、恐らく二人はもう屋上に居るのだろう。ライがスコッチを捕まえてどんな話をするつもりなのか分からない以上、急がなければならない。と。

「……足音…?」

這ってでも上ろうと手を突き出した時、猛烈な足音が階下から響いてくるのに気付いた。とんでもない追い上げの速度にぞっとする。…まさか尾行されていたのか。
手すりに半ば寄りかかりながら振り返る。このまま追い越されるよりは少しくらい足止めをした方がマシだろう。
ライには殺すなと一応言ってある。約束すると言った覚えは無いとか言う様なケチな男で無いと信じよう。実際、そう思っているのだし。
そっと手すりから顔を覗かせる。ちらちら見える金髪は見覚えがある様でいて心許無い。金髪の構成員など珍しくも無い所為だ。面識のある相手ならまだ自分にも駆け引きのやりようがあるが、そうでないなら一発くらいは撃たれる覚悟をしなければ。或いは一か八か、出会い頭のタックルも手である。
…さて、三、二、一。

「…うわっ!?」
「は!?! ッチ、邪魔を……はァ!?!??」

勢いの削げない足音のリズムを読むことは容易かったが、相手の踊り場でのターンが予想以上に速すぎた。助走の為に身を落とした瞬間には目の前にその顔があって、前へ跳ねようとする身体と逃げようと後退したがる気持ちが事故を起こす。結果、妙な体勢でつんのめったところを突き飛ばされ、強かに尻を打ち付けた。

「いったあ…」
「シェリー!? なんであなたがここに…スコッチは!?」
「たぶん、上…屋上…ライといるはず…」

尻から脳へ駆け抜ける鈍痛に悶えつつ返事をする。
バーボン、彼ならスコッチの追手であるはずが無い。早く行けと言う意味を込めて端に身を寄せ進路を空けるが、そこをバーボンが通り抜けるより早く、駆け下りてくる足音があった。一体誰のと見上げた先、鈍色が燦めく。

「無事か、シェリー!!」
「「スコッチ!!!」」

踊り場に現れると同時、銃を構える男は今の今まで安否が危ぶまれていたはずのスコッチだった。その銃口は真っ直ぐバーボンへ向けられていたが、相手が相棒だと気付いたスコッチは慌てて銃を下ろした。何故ここにと言いたげな視線を受けたバーボンの眦がぎりりりと吊り上がっていく。然もありなん。

「バーボン? なんでお前ここに」
「あんなメール寄越されたら来るに決まってるだろ!!? 早まった真似するな!!」
「なっ…駄目だろ!? お前まで巻き添えに、」
「うるさい!!」
「…落ち着け、お前達」

スコッチの胸倉を掴みあげて怒鳴るバーボンの隣に降り立つ長身は言わずもがなライである。私にとっては当たり前の御登場も、バーボンからしてみれば予想外でしかない。スコッチを背に庇う様に立ち塞がる姿に、ライの口の端が上がる。

「…成程、あなたが追手だったワケですか」
「ああそうだ、間抜けにも返り討ちに遭うところだったがな」
「…その銃、ライのなの?」

てっきりスコッチの物だと思っていた。追われる身になるならそのくらいは死に物狂いで手に入れただろうし、何より銃を奪われる失態をライが犯すとは思い難かった。

「運命の女神の寵愛はスコッチにあった…と言うのは簡単だが、その手腕は間違い無く彼自身の実力だ。 死なせるにはあまりにも惜しい」
「ッ…」

…わざと誤解を招く言い方をしていると見ていいものか、少し迷う。今にも殴りかからんばかりで牙を剥き出しにしているバーボンに睨まれ、挑発的な笑みを返すライの真意は私にもまだ分からないのだ。彼にスコッチを見逃す理由があるのか、分からない。

「…ライ、スコッチがNOCだと思うの?」

緑の瞳がこちらを向く。と、手すりに添えられていたライの右手が僅かに浮き、それに過敏とも言える勢いで反応したバーボンの身体が低く構えられる。あの距離でのタックルは体勢の違いもあってライに不利だろう。倒れ込ませてからの数十秒でどこまでスコッチを逃せるか、非常に難しい。
そして、ライの人差し指の背が手すりを叩いた。コンコン、といういっそ可愛らしい音の反響音は短かった。

「…ん?」

たっぷり三十秒、それきり動こうとしないライの視線が私とバーボンをゆっくりと往復する。然しものバーボンもその意味を判じかねたらしく、沈黙を守っていた。
そうしてまたライの指が手すりを叩く。まるでノックする様な調子で、コンコンと。あ。

「えッ……ライ、え、うそ、」

バーボンがすごい勢いでこちらを向いた。私に先を越されるとは思わなかったのだろう、分かる。
バーボンと視線を合わせ、私はライを指さした。それから手すりをライと同じ様に叩いた。コンコンと。バーボンの瞳孔がぎゅうと細まる。

「ライ、お前」

そこまで声で表して、バーボンは一文字だけ唇の動きのみでつけ足した。も、と。
お前もNOCなのかという問いに、ライは鷹揚に笑って頷いた。やっぱり紛うことなきハニトラだったじゃねえか。