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隣人の跫

年下の上司というものが苦手だ。何故か昔から、その響きにぞっとする。

「突然なんの用だ」

男の一人暮らしの部屋なぞ珍しくもないだろうに、目の前の青年はきっちりと正座をしたまま忙しなく室内を見回している。元々地黒の肌は日に焼けて一層光度を落としており、彫りの深い顔立ちが際立っていた。
彼は鯉登音之進。月島が今の勤め先に入社した前後を含め、良くも悪くも、今尚多大な影響を与え続けてくる存在であった。
昨日、かなみを送り届けてから帰宅した自分の前に現れた彼をにべもなく追い返したが、同じ手荷物を引っ提げて訪ねて来られたなら家に上げない訳には行かなかった。出直せという文句通りに、彼は素直に出直してきたのだから。

「家出でもしたか」

彼が引っ提げて来たボストンバッグは気軽な外出には相応しくなく、まるで泊りがけの準備を整えてきた様に見える。月島にはブランドのロゴが所狭しと並べられた柄の良さが全く分からないが、世間一般での値打ちは理解している。それを大学生の身でありながら何ら気負うことなく普段使いとする鯉登は、所謂御曹司だ。北鎮運送の本部重役の子息だとは入社早々に聞かされたことであり、その彼が現場でアルバイトに励む姿には好感が持てた。
…これで前世云々と構ってくることが無ければいいのにと何度溜め息を吐いたことか。しかもその頃の名残として月島を始めとした社員に敬語を使わないと来ている。苦言を呈すにしてもそれを上司である鶴見が許しているのなら、その部下である月島に言えることは何も無かった。

「いや、両親には許可を得て出てきた」

その返答にまさかという最悪の想像を描く。目の前の青年は出会ってからこちら、常に月島の予想を超えてくる。それこそ、良くも悪くも。

「隣に越して来た」
「………なに?」

言われたことを理解し、リアクションするまでに数秒を要した。ギリシャ彫刻の様に整った顔立ちは見れば見る程感心するしかない出来栄えだが、月島が人の心の機微に疎いということを差し引いても表情が読み難い。

「俺もそろそろ独り暮らしを経験してみねばと思っていたのだ。 成人したことを機に父に頼み込み、鶴見支部長にご相談した結果、お前の隣人から始めてみるのが良いだろうと」
「また…あんた達はなに勝手なことを…」

思わず痛むこめかみを押さえて俯く。

「別にお前に頼ろうと言う気持ちは無い。 料理は幼い頃から母に習って来たし、洗濯とて今は機械に頼れば簡単に済む。 コインランドリーもあるしな」

月島は目の前のお坊ちゃまがコインランドリーを知っていたことに驚いたが、町を歩けばそこかしこにある施設だから当然かと思い直す。コンビニで買い食いしたことが無いと言う典型的な箱入りエピソードに直面してから、彼という存在に対して少し偏見があったことは認めよう。

「まあ、親心だろう」

そしてぽつりと、独り言の声量で漏らされた一言に納得した。
親心。月島にとって分かる様な分からない様な、何とも微妙なところだ。

「まだ学費を用立ててもらっている身分として、そこは受け入れる他無い。 だから今日お前を待っていたのはただ隣人として挨拶しておこうと思ったからだ。 そら、ちゃんと手土産も持ってきたのだぞ」

これから鶴見に事有る毎に彼の様子を訊ねられるのだと思うと今から気が重い。月島を隣人にしろと指示したのなら、少なからず月島が面倒を見てくれるものと期待してのことだろう。鶴見の期待するところを完全に突っ撥ねることは、今の月島にはまだ難しい。

「…アパートの住人全てに挨拶するつもりか?」

ぐっと突き出されたブランド物のボストンバッグを睥睨する。何が入っているから知らないが、明らかに一人に手渡す為の分量では無い。

「逆隣と真下の住人、それに管理人には挨拶を済ませた」

つまり残りは全て月島の物だと言いたいらしい。さあ開けろとばかりに更に突き出されるそれを渋々受け取り、覚悟を決めて開封する。

「………おい。 まさかここの住人全部に同じ物を配ったのか」

中身は至って普通の、けれど月島の生活水準からすればワンランクどころかツーランクは上の品々が詰まっていた。
肌触りの柔らかいタオルと手拭い、但し桐箱に収まっている。
一人暮らしには有り難い素麺の詰め合わせ、但し某有名メーカーのお取り寄せ品。
二枚重ねのトイレットペーパー二ロール、但し某百貨店の包み紙で巻かれている。
焼き菓子の詰め合わせ、但し絵柄に合わせた凹凸で細工が施されたブリキ缶に詰められている。
引っ越しの挨拶の際にオススメとされる手土産を取り敢えず手当たり次第に詰めましたという気配をひしひしと感じさせるそれは、しかし貰って困る物は一つも無い。ただ一つ一つの質が高いが為に、こうしてアソートの如く束にされると呆気にとられるしか無かった。入れ物として使われているボストンバッグもこうなると紙袋代わりだからと譲られそうで恐ろしい。これに釣り合う服など、月島の手持ちには無いと断言出来る。

「当然だろう。
 …ああ、入れ物は処分に困らない様紙袋に取り分けて配れと母から言われていたからそこは安心しろ。 この鞄に入れていたのはその用意する紙袋の数を間違えたからだ。 だからこれ毎受け取ってくれて構わない」
「構うだろ。 要らん」

予想が的中して思わず遠い目になるながら、陽に焼けて色褪せた畳の上に手土産の品々を並べ、空になったそれの口を閉じて突き返す。物が多く入る上に丈夫で便利だぞと口を尖らせるその仕草は成人男性のものとは思えないが、歳不相応というその一点を除けば非の打ち所がなくて困る。男が男の容姿を褒めるなら世辞の方が君が悪くなくて良い。

「…なんだ、人の部屋を物珍しそうに」

さあ帰れと追い払おうとして気付く。六畳一間の、同僚の前山をして典型的な男の一人暮らしと評された部屋を不躾に見回す鯉登は何かを探している様にも見えると。特に棚の上をじっと睨みつつも舐める様に視線を這わせていて、当然のことながら良い気分にはならない。
と。

「家族の写真を飾りもしないのか」

雑多にごった返している棚の上から目を離さず、鯉登は問うてきた。何を言うのか思えばそんなことかと拍子抜けする自分と、目の前の青年にどこまで晒したものかと判じかねる自分が同時に現れる。
別に、自分の一般的とは言えない家庭事情を明かすのに後ろ暗く思うところなど無い。ただやはり、相手は選びたいというだけである。

「異性の幼馴染がいるのだろう。 その御両親とも本当の家族の様に接してきたと聞いている」

誰から聞いたのかと呆れながら、無論あの上司しかいないと自問自答を胸中で繰り広げる。或いはやはり招いたことのある前山から知ったのかも知れない。前山は酒が入ると口が軽くなる。

「死に別れた訳でも無いのに写真を飾る趣味が無いだけだ」

どうせ隣家に戻ればアルバムがあり、本人達がいる。遠く離れた誰かを偲ぶ様な真似など月島には必要なく、何よりスマートフォンという便利な文明の利器があるのだから写真立てなど必要無い。
しかしこう言っておきながら亡き母の写真を一枚も手元に置いていないというのは親不孝な気がしたが、その為だけに自分を拒否した母方の祖父母に接触を図るのは躊躇われて、そうこうしている内に二人は亡くなってしまった。遺品の整理に当たって月島が呼ばれることは無く、それきりだ。

「何故写真イコール遺影なんだ。 極端過ぎるぞ月島」

それは言い得て妙な指摘で、けれどこれ以上の会話が面倒で口を噤む。いつもなら、ここが職場だったのなら月島の沈黙に気付いた前山なり宇佐美なりが鯉登を連れ去ってくれるのだが。

「俺はただ単純に、お前が今生でこそ伴侶を得るのだと思えば祝福したいと思っているだけだ。 妙な茶々も余計な世話もする気は無い。
 …少尉の俺は、軍曹として随従するお前を部下として労い、評価することは何度もしたが…月島基という人間に対しては遂に無知で終わった。 お前の死後に、思いがけず知ったのだ」

鯉登の唇が何事か紡ごうとするのを視認した瞬間、月島は思わず声を上げていた。

「話が見えん。 一体、何を言っている? 何故突然俺の伴侶がどうのという話に飛ぶんだ」

鯉登の口から語られる前世の話にはうんざりしていた。何度となく、止めどなく語られるそれを妄言と切り捨てることが出来ない自分にも辟易している。
…覚えがあることが、ある。頭の中に浮かぶ情景の中に知らない顔があり、後に同じ顔を社内で見かけた時など言葉を忘れて愕然と立ち尽くした。
違う。自分は、自分だけは前世などというものを認めてやるものかと痛む頭を抱えて誰ともなく吐き捨てる。嗚呼しかしキロランケは許せない。かなみを、否、彼女を害したあの男だけは許してはいけない。

「■■■という少女が、今お前の傍にいるのだろう?」

鯉登の声が聞き取れない。よく通るはずの声が紡いだ何かの名詞が耳をすり抜けて記憶に残らない。
何だ、何と言っている。

「…かなみ」

幼馴染のあの子の名前でないことだけが確かで、それを確かめる様にそっと声に出してみる。その名を、今度は鯉登が聞き取れなかった様で訊き返してくる。或いは聞き取れたが為に訊き直そうとしているのかもしれない。
───ブーと、不細工なブザー音が部屋中に鳴り響く。

「基ちゃん、起きてる?」

扉一枚隔てて聞こえる声に不安が溶ける。何故か身体を強張らせて緊張している鯉登の横をすり抜け、足早な勢いをそのままに開錠して扉を開けた。

「…どうした、何かあったか」

見下ろす、と言っても首を傾けずに済む程度の身長差しかない少女の顔をほぼ真正面から見据える。その毒気の無い顔に、やはり写真なぞより本物が一番だと確信する。

「お昼ご飯、うちで食べないかってお母さんが。 基ちゃん、スマフォの充電切れてない? いくら電話かけても繋がらないから呼びに来たんだよ」
「なに? …ああ、そう言えば寝る前に…差してないな。 すまん」
「まあお隣さんだから全然良いんだけどね。 うちで充電すれば、」

いいよと続く声が尻すぼみにか細く消える。何事かと彼女の顔を見れば、その大きな瞳は丸く収縮して月島を、否、その後ろを見ていた。

「ごめん、お客さん来てたんだね。 すみません、お邪魔してしまって」

前半は月島に、後半は恐らく背後にいるのであろう鯉登に向けての謝罪だった。仕方あるまい。これがお前が見たがって幼馴染だと紹介してやろうと振り向いて。

「…どうした?」

想定のところに鯉登の顔は無かった。しかし上がり框の上という距離感は感じていた気配の位置通りで、鯉登は腰を抜かした様にその場に膝を着いてへたり込んでいた。だから見上げた先に顔が無かったのかと納得するも、普段の精悍さはどこへやら、鯉登の恐れすら秘めた視線は月島を通り越して背後に注がれていた。まさか。

「何故。 何故貴女が、此処に居るのですか」

かなみ嬢と呟く幽かな声が、外の雑音に紛れて消える。困った顔で立ち尽くす幼馴染を背に隠して、月島は硬く奥歯を噛み締めた。