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いったん、おやすみ

「戸締りはしっかりするんだぞ」

帰路を猛然と進むだけだった幼馴染が漸く言葉を発したのは自宅の前で、その瞳はここに居ない誰かへの怒りで燃えている。その誰かが分かるだけにかなみはつい苦笑じみたものを漏らしてしまった。

「かなみ、俺は真面目に言ってるんだ」

だからおかしいのだとは流石に言わない。

「尾形さんはうちの場所知らないよ」
「尾行されているとも限らない」
「でもいなかったんでしょ?」

古潭駅から我が家の最寄駅、更にそこからかなみの家までの道を辿っている最中、月島はずっと警戒を怠っていなかった。いつもなら使わない裏路地を通ったり、騒がしいからと好まないショッピングセンターの中を通り抜けたり。誰かを撒こうとしている様な振舞いに、しかしかなみは道中何も言わず黙って着いて歩いた。彼の警戒するところ、尾形が付いて来ていないことはなんとなしに分かっていたから。

「とにかくおじさんやおばさんが帰ってきたらチェーンをかけろ。 下鍵も閉めて、二階のベランダは雨戸を引け」
「台風じゃないんだから」
「かなみ。 いいからはいと返事しなさい」

怖い顔がぐわりと詰め寄ってくる。その顔は月島自身が思っているより三割増くらいで怖いのだから止めた方が良いと常々言っているのだが、恐らく子供の頃からのクセだから止められずにいるのだろう。彼は嫌がってむずがるかなみを度々この顔で制してきたから、今もこれが有効だと信じているのだ。

「…はぁい」

これが教師を始めとした他の大人相手だったなら子供扱いするなと苛立ちを覚えただろう。けれどかなみにとって彼と両親は別だ。子供扱いしてくれるなら甘えてしまおうという気にさせられてしまう。

「全く…お前はどうしてそう危機感が足りないんだ」
「基ちゃんが心配性なんだよ。 自分のことはそう気に掛けないくせに」

鍛えているが故の自信なのかもしれないが、収入に比例しない安普請のアパートに住んでいることに始まって買い食いばかりという生活態度は如何なものかと思う。スーパーの惣菜ならまだしもコンビニ製品というのが更に頂けない。見かねたかなみが料理の腕を見て欲しいと駄々を捏ねる形で手料理を食べさせているが、常々彼には自炊をして欲しいと思っていた。いつまでもこうする訳にはいかないのだからと。

「出来れば明日の登校には付き添ってやりたいんだが…」
「時間が合わないでしょ。 折角寝られるんだから早起きしないよ、私」
「だからと言って昼過ぎまで寝てるのはどうなんだ」
「寝ないよ、明日は昼前の講義一コマだけだもん」
「…単位、大丈夫なのか?」
「私三回生だよ、基ちゃん」

かなみの呆れ半分の反応を受けて、月島は言葉を失う。
勿論彼女が大学に入ったことも順調に進級したことも、二十歳の誕生日を迎えたことも知っている。逐一祝いの場に呼ばれていたからということもあるが、可愛い妹の大事な行事を忘れるはずがなかった。彼女自身の嗜好に沿った贈り物をするか、それとも彼女自身の為になる物を調達するかで都度頭を悩ませたこともよく覚えている。
…そう、かなみは成人した。もう子供扱いばかりしていられないと、そう考えていたはずなのに。

「…油断するなよ。 まだ必修授業があるんだろ」

今日、尾形や杉元らと会って来た所為かも知れない。久々の白昼夢もきっと良くなかった。
この子は子供では無い、もう直ぐ自分から完全に巣立ってしまうのだという現実が何時になく目の前に聳えている様で、言い難い感覚が月島の胸の内でとぐろを巻く。誇らしげに胸を張る妹に寂しいなんて取り縋る真似を、自分は絶対にしてはならないのに。

「大丈夫だったら。 私、取り敢えず皆勤賞なんだから」
「取り敢えずってなんだ、取り敢えずって」

多少の遅刻は大目に見て貰えたからと口籠る幼けない仕草に、不安が少しだけ解れる。まだ子供でいて欲しいという己の本心はまだしも、その更に奥の欲求に気付いてはならなかった。

「おやすみ、基ちゃん」
「…ああ。 おやすみ、かなみ」

閉じた扉の向こうから、鍵をかける音が二回聞こえたことを確認して踵を返す。
隣の敷地にある、絵に描いた様な安普請のアパートはあれで居心地が良い。暖かい家庭の中にあるよりも余程自分の居るべき場所らしいと受け入れられた。
硬いコンクリートの階段を上がる。剥き出しの裸電球のオレンジに照らし出される廊下の行き詰まり、自分の部屋の前に誰かの姿を認めて月島は驚いた。

「遅かったな。 月島」

鯉登音之進。前世と同じ名を戴くと主張する青年が、一つのボストンバッグを足元に控えさせて立っていた。

*

スマートフォンが鳴る。かなみは聞いたことの無い着信音を奏でる自身のスマートフォンに首を傾げるが、画面に表示された名前を見て納得した。連絡先を登録したいからと託した時、何事か忙しく操作していたのはこの設定の為だったのだろう。

「はい、かなみです」
『今、大丈夫か』

スマートフォンは連絡を取りたい相手に直接繋がるから名乗り合う必要は無い。無いけれど、初めて連絡を取り合おうと言う場合にもこの調子だというのはとても彼らしい気がした。

「大丈夫です。 どうかしましたか、尾形さん」

時刻はそろそろ日付も変わろうかと言う頃で、すっかり寝支度を整えていたかなみは自室で寛いでいるところだった。階下からはまだ起きているらしい父が鑑賞しているテレビの音が聞こえて、水音が絶えているから母は床に就いたのだろう。もう部屋の電気を消さないとまた月島からトークアプリで小言を貰ってしまうと思っていた矢先の連絡だったが、なんとなく、本当になんとなく。今日中に尾形から連絡があるのではという予感があって、粘った甲斐があった。

『映画。 行くんだろ』
「…はい。 そうですね、どこの映画館行きましょうか」

電話越しにも分かるそわそわした様子は、十中八九浮かれているからだろう。年上の男の人を可愛いとは失礼かもしれないがそう言わざるを得ないと、かなみは口元を綻ばせる。

『何が観たいんだ』
「ホラー映画なんですけど」
『…意外だな。 そういうの、好きなのか』

「前の」自分はどうだったのだろうかと考えて、止める。尾形のこの反応からしてそうではなかった様だし、だからと言って「今の」自分がどうこう変わる訳でも無い。

「まあ、それなりに。 パニックホラー物だからちょっとうるさいんですけど、シリーズ通して観ているので義務感というか」
『ああ…明日から封切りのあれか。 たまにロードショーでやってるな』

シリーズ一作目はかなみが生まれる前に製作されたもので、リメイク版やらを入れると中々の歴史を誇っている。駄作の烙印を押された物も少なくない所謂B級映画だが、新作が発表される度にあちこちのメディアで取り上げられるので老舗の雰囲気さえある。今作は特に現代社会の煽りを受けて凄惨な描写は規制されているのではないかという憶測が飛び交っていて、往年のファンとしては一見しないといけない。

「尾形さんはああいうの、大丈夫ですか?」

月島は煩いのが嫌いだから中々付き合ってくれないと、そう口をついて出ようとした言葉を噤む。受け入れるかどうかは別にして、好意を向けてくれている人に別の異性の話題を出すのはマナー違反だろう。

『一種のファンタジー映画だと思えば、まあ』

どうせ作り物であってもリアリティを追及した物の方が観られると付け加えられ、かなみは言外に好きじゃないと言われていることを察する。

「何か観たいもの、ありますか?」

少しの沈黙が落ちる。かち、かちと聞こえてくるのはマウスのクリック音だろうか。きっと最寄りの映画館の上映作品を調べているのだと思われる。

『…無いな。 ああ、でも…かなみ、お前、犬好きだろ』
「え? あ、はい、好きですけど…」

唐突な問いに戸惑いつつも、かなみは素直に肯定した。犬に限らず動物は概ね好きだが、そう付け足すのは何となく野暮な気がして押し黙る。

『ドキュメンタリー…いや、これもファンタジーだな。 死んだ犬が主人にもう一度会う為に、幽霊になって世界中を彷徨う話。 本当に世界各地でロケしたらしいから風景も見物だと』
「だめです尾形さん、それはだめ。 私絶対泣きますからだめです」

固く言い切るかなみにはそれが嘘にならない自信があった。昨今感動ポルノなどという言葉が生まれたが、例え世間一般でそう揶揄される作品であっても焦点が動物に当てられているだけで自分の涙腺はぐるんと緩くなる。故に映画館で観るなど以ての外だった。

『…泣く、のか?』

訝しんでいる様な問い返しに、見えないと理解しつつもかなみはこっくりと頷いた。

「泣きます。 隣でぎゃんぎゃん泣かれるの、嫌でしょう」

と。

『お前に泣かれたら俺も泣く』

だから止めとくかという言葉に、かなみは半ば呆けたままはいと頷いた。じゃあ例のホラー映画だなという問いにも同様に返して、日時は追って連絡するという言葉にはお願いしますと。

『またな。 おやすみ』
「はい…あ、おやすみなさい」

くつりと笑う声を最後に通話は終わる。案外あっさり終わったなと思いながら、真っ暗なスマートフォンの画面をぼんやりと見つめる。そして言われた言葉を脳内で反芻した。

「…なんか、すごく、可愛いこと言われた気がする…」

耳の奥で、ぽそりと零された尾形の言葉が反響している。泣くこと自体出来るとは思い難い人に見えたのに、あまつさえその理由に自分の名を上げてくるとは。
部屋の電気を消して、ふらふらとベッドに横たわる。ホラー映画の後で泣いてみるか、それとも泣き腫らした目でホラー映画を観るか迷い始めていた。実際に泣いてくれるか試してみたいこの気持ちがなんなのか、確かめてみたかった。
───そう、泣くと言えば。

「…泣いたのかな、やっぱり…」

「前の」自分が死んだ時、あの人は泣いたのだろうかと考えるかなみはまだ気付いていなかった。極自然に、当たり前の様に自分が先んじて死んだと仮定していることに。