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回想・序

尾形が彼女を初めて知ったのは、東京の方の桜の蕾もまだ固い頃だった。
既に己が師団長の妾腹であることは団内の誰もが知るところとなって久しく、それまで一兵士として良くも悪くも気安く扱われていた環境が少し恋しくなっていた。
と言っても、扱いがそう派手に変えられた訳では無い。ただ人ひとり分挟んだ様な距離感で以て接してこられることが嫌だった。そのひとり分が名も無き透明人間で無かったことが、もっと嫌だった。

「兄様、私、結婚するのです」

腹違いの弟を名乗る青年がまるで生娘の様に頬を染めて言うので、それはおめでとうございますと諳んじた。
その裏で考えるのは、確か彼は聯隊旗手を任されていたはずだがその御役目は誰に移るのかと言うこと。年若く優秀な将校を、また中央からその為だけに呼び寄せるのだろうか。

「妻となる女性は少々身体が弱く、私もまた大切な御役目がありますので正式な夫婦となるのはまだですが、式を挙げ、籍を入れるのはこの春の間中に済ませるつもりです。 妻の妹も初雪の前に呼び寄せる予定でして…驚かれましたか?
 ふふ、そうです、兄様にとっては一度に二人も義妹が出来るのですよ。 私もこれで晴れて義兄という訳です」

つと胸を張って見せる彼の言わんとするところを察し、尾形は何と返していいものか分からなくなってしまった。
何でも彼が娶る女性は既に両親を亡くしており、唯一の肉親である妹は東京でひとり奉公して病弱な姉の治療費を稼いでいたらしい。姉はそんな大恩ある妹に直接結婚の報告をしたがったそうで、婚約者の健気な願いを彼は快諾した。道中から花沢の屋敷の到着まで、破格の持て成しで以て妹を招待したと言う。用件も告げられぬまま連れ出された妹は終始目を白黒させていたらしいが、姉の結婚の報告を聞くと一転して手放しで喜んだとか。

「可愛い娘なんです。 きっと兄様も彼女を気に入りますよ」

犬猫を可愛いと褒めそやすのと何ら変わらぬ口調で彼は言った。気に入った、だから養子に迎えられないかと、同じ調子で父に相談したのだろう。何故それをあの花沢幸次郎中将が了承したかは分からない。娘が欲しかったと言う理由ならそれこそ嫁いでくる彼の妻が居ると言うのに。
けれど件の妹は、後に花沢かなみと名乗って尾形の前に現れる。小さな箱入りになってしまった義兄を迎えに、角の取れていない真新しい喪服に身を包み、夫を喪い悲嘆に寝込む姉の代わりにやって来るのだ。
焼けた骨に良く似た色をした彼女の手に、骨壺を納めた白木の箱を手渡したのは尾形だった。その瞬間、父の声が蘇ったのをよく覚えている。

「呪われろ」

この少女こそ、父が遺した呪いなのかも知れない。
ならば少女がどう自分を殺すのか興味があった。
だから尾形は少し後、顎の抜糸を終えた夜。軍を出奔したその足で、幽霊屋敷と噂されるまでに落ちぶれた花沢邸から彼女を浚い出した。

「…やるなあ、お嬢さん」

それから三日間共に過ごしたが、尾形が狩へ出た隙に彼女は逃げてしまった。
意外に健脚だとは山を連れ歩いた尾形が一番知っており、焚火も砂を被せられすっかり冷えてしまっていたあたり、尾形が場を離れてから直ぐに彼女も行動に移ったことが窺えた。麓付近をだらだらと歩いていたのがいけなかった。彼女がこんな思い切った逃走に踏み切れたのは、下山は容易く、更に町が近いと踏んだからだろう。事実、それは当たっている。
尾形は射落としてきた二羽の山鳥を雪の上に投げ捨て、自身の荷物を検めた。失くなった物は無く、むしろまだ数本しか使われていないマッチが一箱増えていた。この厳しい寒さの中、焚火を消してしまったことへの謝罪であろうことは直ぐに分かった。尾形が何時戻るか分からない以上、山火事を避ける為にも仕方ないことであるのに。

「違ったか」

あの少女は怨霊にはならない。
そんな確信と共に、小心さと善良さを示すマッチ箱を背嚢の奥に仕舞い込んだ。

「鍋、楽しみにしてたんだがな」

言いながら鳥の羽根を毟る。料理はあまり得意では無かった。