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潰えた蕾

彼が任務に発って五日目。目覚ましのアラームより早く鳴った着信音に叩き起こされるのは、呪術師ならば珍しいことではない。ただ相手が彼だったから、少し驚かされただけで。

「やあ、かなみ」

穏やかな、耳馴染みの好い声。傑くん───夏油傑くん。私の大切な人のひとり。

「こんな遅くに───いや、もう朝早く、なのかな? 悪いね、時計見てなくて。 寝てただろう?」

傑くんの声の向こうで烏が鳴いている。屠殺される鶏の鳴き声も聞こえて、そう言えば彼の今回の任務は随分な山奥だったはず。地図にも載らない村だとかで、先ず辿り着くのに苦労すると悟くんに散々からかわれていたっけ。寝起きの頭をすうと冷やした断末魔は、そんな村の一日の始まりなのかも知れない。

「うん、でも、偶には早起きでいいよ。 おはよう」

きっと任務が終わったんだ。呪霊の祓われた村が平和な朝を迎えられた証と思えば、この物騒なBGMも悪くは無い。

「フフ、おはよう」

くつくつと喉で笑う傑くんはいつになく朗らかだった。理子さんの一件以来ずっと塞ぎ込んでいた傑くんが、やっと。

「傑くん、嬉しそう」

まだ朝日も射し込まない真っ暗な部屋の中では、目を閉じていても開けていても同じだった。そんな夜の中で傑くんの微笑みを思い浮かべる。この声に良く似合う、菩薩様みたいなあの微笑みを。

「…ああ。 やっとすっきりしたんだ」

胸の澱を吐き出す様に深く息を吐き出し、彼が紡いだ声は確かに晴れ晴れとしていた。どうやら長く抱えていた鬱屈を本当に振り払ったらしい。私にも悟くんにも明かしてくれなかった胸の内だから、どんな変化があったのかは正確には分からない。何も出来なかったことは申し訳ないし悔しいけれど、彼が持ち直してくれたのならそれで良かった。
と。

「なあかなみ、好きだよ」
「、」

しみじみと感動していたところへ落とされた爆弾に、思わず端末を取り落とす。数センチ下の布団へぼすりと落ちたそれからは、変わらず傑くんの声がする。

「聞こえてるかい? 一応もう一回言うけど、好きだよ、かなみ。
ホントは今直ぐ帰りたいんだけど…少しの間、会えなくなる。 私のこの気持ちは変わらないってことを信じて待っていてくれないか。 絶対に、おっと」

畳み掛けられる睦言を呆然と聞いた。こんなに甘い声を、彼はどんな顔で発しているのだろう。
と、一際大きな断末魔が傑くんの声を遮った。
鶏の…鶏、にしては、なんだろう、何か違和感のある…声だった、ような。

「大事なところで邪魔するなよ」

吐き捨てられる蔑みに、揺さぶられながら蕩かされつつあった私の何かが凍り付く。ぐちゃりという水気を含んだ音に慄きながら、端末をそっと手に取った。
傑くん。あなたは一体、今、何を。

「かなみ、君を絶対に迎えに行く。
…例えその時君が誰かのモノになっていたとしても関係無く、ね」

私の返事を待たずして、端末の画面には終話を告げる表示が浮かび上がる。二分十四秒。たったそれだけしか経っていなかったなんて信じられないくらい、私の頭はすっかり醒めていた。
私が今されたのは告白なのか、宣告なのか。
しかし何より、何故会えなくなるのだろうという疑問が不安となって胸の中で渦を巻く。

「…行かなきゃ」

ベッドから飛び降り、着慣れた黒の仕事服に袖を通す。高専の事務室に朝一で駆け込んで、傑くんの任務先を突き止めなければならない。最悪傑くんとは入れ違いになってもいい。ただ、彼が救ったはずの、あるべき平和な村をこの目で確かめたかった。
───そうして、十数時間後。
私が足を踏み入れたのは、静寂の極み。全ての命が絶え、奇しくもある種の平和に見舞われた煉獄だった。



「んじゃ行ってくる」

額に柔らかく唇が触れて、悟くんの綺麗な瞳がうっそりと細められる。無言でねだられるままに目隠しを下ろしてあげると、彼の薄い唇が弧を描いた。
…傑くんが高専を追放になって、半年。
悟くんは任務に費やす時間を除き、私の傍から離れなくなっていた。

「鬱陶しいでしょ、あれ」

自分だったら一日でも耐えられないと、硝子ちゃんが缶コーヒー片手に顔を顰める。突き放せと再三言われているが、私には出来そうもない。傑くんの突然の凶行に傷付いた悟くんを更に追い詰める様な気がして、どうしても。

「…まあ、五条が侍ってるなら確かに夏油も手が出せないだろうし。 これはこれでいいのかな」

傑くんは所持していた端末を、あの惨劇の中に置いて行った。足取りを追われる懸念を減らしたかったのだろうけれど、その為に私は鶏の断末魔の正体を知ってしまった。
履歴に残っていた発信時間、村中に散乱した人体の欠片から算出された犯行時刻───傑くんは村人を殺す片手間に、私に電話をかけてきていた。烏の鳴き声は、きっと彼の率いていた呪霊達。
それは最終的に端末を回収した高専にも知られるところとなっており、私は事情聴取の折に傑くんに迎えに行くと告げられたことまで吐露させられた。
結果、私は高専にほぼ軟禁されることが決まってこうなっている。更に悟くんが自主的に行ってくれている、ほぼ二十四時間体制の護衛。私は日本、否、世界でも指折りの安全地帯に居ると言える自信があった。

「私、夏油に会ったよ」
「…え」

硝子ちゃんの告白に言葉が詰まる。何から訊いたらいいのか、思考が渋滞する。

「五条も会ってるはずなんだけど、やっぱり聞いてなかった? 新宿駅の近くに喫煙スペースあるじゃん、あそこで向こうから寄ってきてさ。 よくのこのこ出歩いてんなって言ったら運試しだって。 ホント特級ってのはどいつもこいつも何考えてんのか謎」

悟くんも会っていた。あの惨劇をやってのけた後の傑くんと。
話してもらえなかったことはショックだけれど、でもそれを聞いてやっと納得出来た。悟くんが私から離れなくなったのは、そうしてその後の傑くんと会って言葉を交わしたからなのだろう。たぶんその流れの中で、私の名前も出たから。

「…よくかなみを置いて行ったねって言ったら、」

空になったらしい缶コーヒーを片手で弄ぶ硝子ちゃんの瞳は、少し遠くを見ている。話を区切ってから空けられた数拍の微妙な間は、躊躇いだったのかも知れない。

「預けておくだけだから大切にしてくれ、だって」

君を絶対に迎えに行く───傑くんの最後の言葉が脳内で再生される。
思わず言葉を失くした私を一瞥して、硝子ちゃんは教室の壁に貼りだされているカレンダーを見た。卒業まであとひと月も無い。

「夏油と一緒に行く気があるなら外で就職した方がいいよ。 七海もそうするみたいだし。 五条だって高専の外に出た人間に張り付きっ放しなんて出来ないでしょ」

傑くんの手を取る、若しくは拐われることを良しとするなら、彼が厭う非術師の人々を殺す決断をしなくてはいけない。高専から追われる身となり、かつての仲間達と戦う覚悟も。
…でもそんなこと、出来る訳が無い。
呪霊を祓う力で人を殺すなんて、絶対に出来ない。

「それが嫌なら高専に残って、今みたいに五条に守ってもらいな。 窮屈な生活になるだろうけど、」

硝子ちゃんの目の下には隈がある。硝子ちゃんらしくない斑なファンデーションの下、到底隠しきれない灰色が。
硝子ちゃんも考えたのかも知れない。傑くんについて、これからのことについて。

「夏油は絶対、かなみのことは諦めないよ」

硝子ちゃんはよく、悟くんと傑くんのことをクズと揶揄していた。言われた二人はケラケラと笑い飛ばしたり唇を尖らせたりしていたけれど、真に受けて怒ったりしたことがない。きっと三人には三人なりの理解と信頼があったからこそ成り立っていた、気の置けないやりとり。
だからこそ硝子ちゃんが断言したことで、私は漸く傑くんの「好き」を呑み込めた。
あれは真摯な告白で、誠実な宣告だった。

「…私、残るよ、ココに」

傑くんに好きだと言われた時、確かに嬉しかった。恋人になった姿をぼんやり思い浮かべて幸せを感じたことも嘘ではない。傑くんが何もせずに高専へ戻って来てくれていたなら、きっと告白を受け入れていただろう。
でも、もう出来ない。
彼は一夜の内に百を超す人々の命を奪ったばかりか、最早数えきれない命を絶やそうとしている。私の中でそれは、決して許されない外道の所業だ。
…だからもう、駄目なのだ。

「そ」

短く頷いて、硝子ちゃんが席を立つ。以前ならどこ行くのと追いかけていたけれど、今は違う。悟くんが戻ってくるまで、私はこの教室で待っていなければいけない。任務地が東京を離れないのなら、彼は直ぐに戻ってくるはずだから。

「また明日ね、硝子ちゃん」
「ん、お休み」

まだ日は暮れていないのに寝る気なのだと察して、つい苦笑が零れる。振り向かない背中を見送って、私はひとり、教室の中で少しだけ泣いた。