小説2 | ナノ

ガチャガチャと乱暴にドアノブをまわす音が聞こえて、ソファで手放しそうだった意識をすぐに取り戻した。慌てて玄関に飛び出せば、赤い顔をした三郎次がこちらを見てにやにや笑っていた。

やっぱり、結構飲んできた。

おぼつかない足取りの三郎次に手を貸そうとしたら拒まれたので、仕方なく後ろからゆっくりとついていった。そのまま吸い寄せられるようにリビングのソファに沈んでいったスーツを見届けてから、キッチンでお揃いのマグの片方に水を注いでゆく。
冷たいお茶のほうがよかったかな。持っていく時になってそう気がついて、三郎次に問いかけようとしたところで寝息が聞こえることに気がついた。幼さが浮かぶ寝顔を晒して、既に寝入っているようだった。普段見られないその可愛らしさに思わず顔が緩んでしまう。

「…三郎次、こんなところで寝ないで。お風呂は明日にする?」
「んー、」
「ほら、お水飲んで。」

ゆっくり目を開け、無言で受け取った水を一気飲みして、三郎次はぼうっと私を見つめてきた。胸の高鳴りからその視線を受け止めきれない甘い期間は過ぎてしまったけれど、見られるのはやっぱりくすぐったい。

「みんな、結構飲んでた?」
「…ああ。」
「そっか。やっぱり私も二次会まで行けばよかったかな。」
「なんでだよ。」
「え?だって楽しそうだもん。カラオケも行ったんでしょ?」

陽気だった顔を突然おもしろくなさそうに歪めた三郎次に困惑しながら首を傾ける。続けてどうしたの?と紡いだ声が三郎次の口に吸いこまれた。

「ちょ…ん、!」

突然のキスに驚いて体を離そうとするも頭をがっしり押さえつけられて解放してくれそうもない。アルコールの匂いが鼻をつく。
呼吸もままならない、苦しい。苦しい。酸素が欲しい、
限界の一歩手前でやっと解放され、荒い息で咳き込んだ。

「っと…くるしいよ、」
「…悪い。」
「何かあったの?」
「なあ、まだ言っちゃダメか。俺達のこと。」

一瞬言葉につまった私の感情を見透かしたように、三郎次が目をそらした。

社内恋愛なんて今時珍しくもないし、特に恋愛禁止の社風があるわけでもない。それでも私と三郎次の関係が広まらないのは、そうすることを私が望んだからだ。

「俺は、もう隠したくないんだけど。」

不機嫌そうにそう言い切る、彼と交際をはじめて、そろそろ一年になる。よく今まで皆にバレずに隠せてきたものだな、と思う。というより、よく続いたものだ。同期の誰よりも努力家で仕事もバリバリこなす彼は、住む世界が違う人だと思っていたのに。
あからさまなアプローチを受けたときも、付き合って欲しいとお願いされたときだって、現実味はわかなかった。彼の隣を歩く自分を想像できなかったのだ。
だから、捨てられる覚悟もどこかでついていた。そんな私が三郎次に伝えたただひとつのお願いが、「誰にも言わないでほしい。」だったのだ。

けれどもう、あれから一年が経つのか。

「三郎次が良ければ、伝えてもいいよ。」
「お前はどうなんだ。」
「わたし?」
「俺が聞きたいのは、そこだよ。」


(私、は、)

奥の奥に潜んだ本音が、つっかえて出てこない。

三郎次の隣はとても居心地がよくてついつい自分を忘れてしまいそうになるけど、別れに備えろと叫ぶ自分が頭のどこかに潜んでいる。そんなに深く嵌まってしまって、ちゃんと戻ってこれるの?その叫びに、私は自信をもって頷けない。
それがこの躊躇の理由だって、ずっと、知ってる。つまり私は自分が傷つくのがいちばん怖いんだって。

「たまに不安になる。俺のこと好きなのかって。」
「…そんな、」
「俺がなんで苛ついてるかわかる?」

答える前にまた口を塞がれる。といっても紡げる言葉なんて見つかっていなかった。三郎次、怒ってるんだ。散らかった問題を片付けようとしない私に対して。
また酸素が足りなくなってぼんやりしてきた。もう考えることなんて放棄してしまおうか。そうしてしまえたらいいのに。手を伸ばせば届く背中をなにも考えずに抱き締めて、三郎次から漂うアルコールの匂いで酔ってしまえたらいい。

唇が離れていく。三郎次の顔が遠ざかる。
やっぱり呼吸は苦しいけど、今度はその唇が名残惜しかった。

「お前がなんにもわかってないからだよ。俺がどれだけお前が好きかも、お前が俺をどれだけ好きかも。」
「…ずいぶん、自信家だね。」
「今ごろ気がついたか?」

精一杯ひねくれて見せたのは、図星だと認めたくなかったのと、弾む心の照れ隠しだ。でも三郎次はきっと、みんなわかってるんだろうな。

「でも自信家だって不安にはなる。お前ホントわかってないんだよ。今日の二次会でお前が何回話題に出たと思う?俺の上司がお前をどんな目で見てるか知ってるか。俺がどんな気持ちだったか、わかるか。」

どくん、早鐘が、鳴る。
一方で、かけっぱなしの自制のブレーキが叫び声をあげる。

戻れなくなるよ、いいの、

戻れなくなる?どこに?
三郎次のいない、世界に?
ぶるりと胸が震えだす。急に自我を保っていることが下らないことに思えてきた。だってこうやって必死に大事な自分を守って、目の前の三郎次を失ったとしたら。結局私、なんにもなくなる。

ああ答えはこんなに簡単なことなのに。
そう思ったら言葉は拍子抜けするほど簡単に口からこぼれ落ちた。


「わたし、誰よりも三郎次が好き。」


それに対する三郎次の表情は、余裕たっぷりの綽々顔だ。

「わかってるよ。」
「それなら、いい。」
「そうかそんなに俺が好きか。」

満足気に私の顔を覗き込み、いやらしく微笑んで私を見る三郎次に、私は抵抗するだけ無駄だったのだと今更に気がつく。一番最初に迫られたあの瞬間から。気がつかないふりをしていたけど、きっとずっと。

「…さっきの、明日には忘れていいから。」
「もう酔い冷めたから心配すんな。」
「意地悪ね。」
「今ごろ気がついたか?」


それでも今は、この憎たらしい笑顔は絶対に手放したくないと素直に思う。これまでずっと抑えていたんだもの、そのくらい我儘言ったってかまわないだろう。
明日は三郎次のオフィスまで迎えにいって、一緒に帰るのも悪くないな、そう考えて、私はまた近づいてくる三郎次に溺れていく。

TOP


×