小説2 | ナノ


放課後、池田に連れられてきたのはプールだった。

独特の匂いが鼻をつく。授業の時は騒々しく揺れていた水面も、今は穏やかに影と光を映していた。槽の隅っこには裏返った虫が浮かんでいる。授業の時濡れていたコンクリートはもうすっかり乾いて、盛んに熱を発しているようだ。いたって珍しくもない光景だ。

わたしは池田と並んで、そんな光景を見つめている。池田はさっきからほとんど何もしゃべらなくて、結局意図は読めないままだ。

放課後。あまり話したこともないクラスメイト。それから…呼び出し。それらひとつひとつの行動を言葉にしてしまうと、どうしても変な方向に思考が飛んでいってしまう。でもそんなわけない、と気がついていた。その証拠に池田の顔には、赤みがさしていないどころか、ぼんやり冷め切ったようなどこか寂しさに似たものが浮かんでいる。これが愛の告白であったのだとしたら驚きだ。


「なあ、泳いでくれないか。」


いくらか薄らいできた暑さを感じながらぼんやりしていたら、真面目な顔で池田がわたしにそう言った。

―え?

漂っていた疑問がさらに不透明になって、わたしは眉をひそめて池田を見つめ返す。


「なに言ってるの。」
「花岡に泳いで欲しい。」
「…わけがわからない。」
「お願いだ、」


断ってみても池田はちっとも食い下がらない。必死に懇願してくる。
一体、どういうこと?必死すぎる池田を見て怖くなってきた。何が目的で池田はこんなことを言うのだろう。


「言ってること、めちゃくちゃだよ。こんな時間に泳いだら先生に怒られちゃうし、それに池田は泳ぐの好き…かもしれないけどわたしは、」
「俺はっ、」


話の途中で突然大きな声を出されて、びくんと肩がふるえた。


「お前と泳ぎたくて、必死にもがいて、ここまで泳ぎ切ったのに。」


なにを、言っているの?

心臓が警告を鳴らす。同時にさっきの池田の泳ぎを思い出した。魚のように、しなやかに進んでいく姿は、まだ克明に瞼の裏に刻みついている。そして、どこか悲しそうに水を見つめる姿も。あの時池田は魚みたいだったけど。でも水を、どこかで恐れていたのではないか。
池田はあの水面に何を映していたのだろう。―そこに、わたしはいたのだろうか。
そう考えて、ふとおかしなことに気がつく。これまでわたしは池田と、どういう関係だったか。どう接してきたのか。
…それが全く、思いだせないのだ。


「なあ、教えてやった、じゃんかよ、なんで…どうして俺だけ、」


男の子が涙を流すのを、わたしはそこで初めて見た。見てしまったら、わけがわからず息苦しくなった。うまく呼吸ができない。池田の涙は止まらない。

息苦しいよ。泣かないで。

とめどなく流れる池田の涙にそのままわたしは溺れていくようだった。
誰かわたしと池田を助けて、


蝉が飛び去っていく音がした。

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