小説2 | ナノ


「花岡。」


いつからか、処構わず池田は声をかけてくるようになった。

どこで、何がきっかけで、池田と私の関係が縮まったのかはもう思い出せない。ただ池田に泳ぎを教えてもらううちに、どうやら池田にとって私は随分親い存在になったようだ。

「池田。」
「なあ明日の休み泳ぎにいこうぜ。」
「明日?いいよ。」

最近やっと、泳いで体を酷使させることに楽しさを感じ始めてきた。明日は特に予定はないし、断る理由はない。

「じゃあよろしくな。」

そう言って何もなかったように彼は去っていった。が、取り残されたわたしは少なからず動揺していた。
さっき池田の横に居た忍たまは意外そうに私の顔と池田の顔を交互に見ていたし、私と一緒に歩いていたくのたまの友達も訝しげな表情を浮かべ、上から下まで池田を品定めするかのように見ていた。泳ぎに誘うなら今でなくて違う機会でもよかったのに。
当然池田が去っていけば友人からの質問の嵐だ。

「花子ってもしかしてアイツと…?」
「いや、それはないよ。」
「でも仲いいんだ。スッゴク意外。」

そうね、私もそう思う。

笑って適当に相槌をうちながら、ぼんやり池田のことを考えていた。
きっと池田は、仲間が欲しいのではないだろうか。一緒にこのきらめく世界を渡っていく仲間が。
何故って魚がひとりで生きていくのは、とてもむつかしいから。



*



どんなに暑くても、川のみずはどこまでも冷たかった。
川の底で、ひんやりとした感触に身を任せながら、上を見た。ひかりが水に濾過されてやさしく私まで届いている。下手したら体に酸素を入れることを忘れてしまうほどに、きれいだ。
そこで息苦しさに気がついて、慌てて水面へ浮上した。


「っふは、」
「ずいぶん潜ってたなあ。」
「ああ、…苦しい。」
「無理すんなよあんまり。」


いつもの憎たらしい顔でそう言い残し、池田はまた泳ぎに行ってしまった。私は息を整えながらぼんやりそれを見送った。

池田のおかげで、憧れの世界を知れた。予想通り、泣きたくなるほどきれいな場所だ。
でも、みずの中を知れば知るほど気が付いてしまう。わたしは池田のようにはきっとなれない。だって池田は、"魚のように"なんかじゃなかった。もはや彼は魚だった。肌に水を吸いつけて、そこからエネルギーを得る一匹のいきものだ。
向こう岸でしぶきがあがったのが見えた。
私は魚にはなれない、
けれど。
それでもここが好きだ。

池田が大きな音と共に、目の前に現れた。透明な珠がはね上がる。


「あーきもちい、きもちくて、俺どうにかなるかも。」


乱れた息の合間に言葉をよこした池田の表情は、恍惚としていた。
わたしはその池田に恍惚と、見惚れる。
私のあこがれの、いきもの。なんて、なんてきれい。

「池田って本当は魚なんじゃない。」

前髪をかきあげた池田に問いかけてみた。私の意味のない疑問に、平然と池田は答える。

「ちがう。俺は人間だよ。今だってこんなに苦しい。」

胸を押さえて、でも嬉しそうに池田が笑った。ああこんなにこんなにみずを愛している池田でさえも、みずの中で呼吸できないなんて。それは当たり前の事実のはずだけどその当たり前こそ間違っているような気がする。だって池田が、みずに愛されていないはずがない。こんなにきれいなのに。

「どうして?」
「どうしてって…」
「だって…」

自分でも頭が悪い問いだと思った。でも、
でも曖昧に流してしまいたくない。だって池田はみずに愛されているから。だから、こんなにきれいなんだ。だから私は池田から目を離せないで見とれてしまうんだ。そんな池田が魚じゃなくてなんだっていうの。
ふいに泣いてしまいそうになって、あわてて誤魔化すように顔を水面につけた。

「なにしてんだよ。」
「んーん。」

起き上がればぼたぼたと、涙と混ざったみずが私から滑り落ちる。水際に腰掛ける池田の姿が鮮明にならないうちに、笑って視界を狭めた。

「私、魚になりたいな。池田みたいに、泳ぎたい。だけど…」
「泳げるよ。だから、花岡、泣くな。」

狭めた視界が、無意識にひらく。池田が、はっきりと映った。
どうして、
驚きと、興奮が一気に私に襲いかかる。固まった私の肩を、池田が掴んだ。

「俺ができることなら、してやるから、泣くな。」

言いながら私のまつげの縁に指を這わせる池田が輝いてみえた。水のなかだからか、いや違う。
結局私は、水の世界とは関係なくただ池田の存在に憧れて追いかけているのか。私が抱いていた感情は、そんなに安っぽいものだったのか。


「いけだ、」
「花岡」


そうかもしれないとは思っていた。私たちの関係は、意外と単純で俗っぽいつながりでしかないのかもしれないと。


「俺は、おまえが、好きだよ。」


涙が、また私の頬を濡らした。
私の体から吹き出したそれは、水というにはおこがましい程小さな粒だ。

池田の顔が近づいてきて。近い、と思っているうちにくちとくちが繋がった。
あ、苦しい、息苦しい。

まるで水の中にいるみたいだ。

蝉のこえだけが後ろでずっと響いていた。
蝉は、ただひたすら泣き続けている。

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