小説2 | ナノ


ただ偶然、通りかかって見ただけだったのだ。

それで充分だった。綺麗な透明世界をぐんぐん進んでしなやかに動く姿に、不覚にも見とれてしまった。水の世界を知りたいと思った。
私が持つ、池田三郎次の印象が変わったのはそれからだ。

しかし期待に胸を躍らせて初めて足を踏み入れた水の底に実際あったものは、息苦しさと水の拘束が生む恐怖だけだった。もがくけばもがくほど、私を嘲笑うみたいに水は体の自由を奪っていった。
その瞬間に私は池田三郎次と同じにはなれないことを知ってしまった。彼と同じ、澄んだ世界を泳ぐ魚のように水を知ること、それが私にはできないのだと。


「池田三郎次がドクたまに泳ぎを教えたらしい。」


丁度そんなときだ。そんな噂が私の耳に届いたのは。


*


蝉がせわしく鳴いている。

カラカラと流れる水は一定のリズムを崩さず通りすぎていく。周りには誰もいない。池田三郎次はよくこの辺りをランニングしていると言うから気を付けなければ。向こうは私のことなどどうでもいい存在だろうが、私にとっては憧れの、妬ましい存在だ。絶対に私のことなど認識してほしくないと思う。私はあくまでも彼とは関係のないただのくのたまなのだ。

憧れるからこそ、妬ましくて、憎たらしい。

私こそ一番に、池田三郎次が知るこの世界を知りたいと思っているというのに…
それなのにどうして、ドクたまなんかに教えているのか。

川はそんな私の気持ちなどとは関係なくただ波を刻む。川底を透かして世界を歪ませる。ふつふつと沸き上がる怒りを向ける先を見つけられずに私はただ川に顔を近づけた。光を揺らす水面は、地上から覗きこむだけなら私を待っているように見える。悔しい、悔しい。

「ば、バカ!早まるな!」

突然男の声が響き渡ったかと思うと急に体を何者かに拘束され、反射的にその体を振りほどいた。しかし体勢を元に戻すことまではできずに、そのまま体は重力に従い落下していく。もちろん、その先は先程私が忌まわしく見つめていた水の世界で、

「あっ、」

自身の情けない声が耳に届き、次に冷たい感触が頭から全身へ伝わる。そして視覚で最後に私がとらえた男の姿は、憧れの憎たらしい池田三郎次だった。



そこからの時間の流れは早かったように思う。

再び訪れた息苦しさと恐怖に混乱していた私の体は突然軽くなったかと思うと、水の中だというのにすいすいと水面を勝手に目指しだして、あっという間に私は浮上した。
あわてて吸い込んだ空気が全身に行き渡り、だんだんと落ち着きも取り戻した。そこでようやく私は不思議な浮遊感に気がついた。

「大丈夫か。」

少し息を弾ませた池田三郎次が、光を背に私を見下ろしていた。ポタリ、と彼の髪の毛から滴る水滴が私の頬を濡らす。抱きかかえられていた。
池田三郎次に助けられたのだ、とその時に理解した。

「あ、りがと。」
「なんでもいいから下ろすぞ。重い。」

素直に感謝を表した後、投げられた発言に私の顔は引きつる。重い?それは思っても女性に言ってはいけない言葉ではないだろうか。
そんなことを思いながらも助けてもらった手前でもあるので大人しく地面に足をつけた。服はぐっしょりと濡れて確かに全身が重い。そして寒い。最悪だ。

「お前、死ぬつもりだったのか。」

池田三郎次が、自分の服を絞りながら私の方を向いた。私は彼の言葉の意味が飲み込めず、暫しぽかんと固まった。

「ここで飛び込まれても困る。俺の潜る場所だから。それに、」

そこまで言われてようやく気づく。…どうやら何か勘違いされているらしい。しかもとんでもなく自分勝手な理由を述べられている。ああ一瞬こいつにときめいてしまったのは恐らくまやかしだろう。

「死んだっていいことないぞ。」

だから、私は別に飛び込みたくて飛び込んだわけじゃないって。

「別に死にたくて川をのぞき込んでいた訳じゃない。」
「…そうなのか?」
「そう。ただ綺麗だから…憎らしくて見ていたの。…そうしたら突き落とされたんだけど。」
「まるで俺が悪いみたいだな。だいたいあんな川ギリギリの場所で下覗いてれば勘違いもするだろ。」
「それはあなたが勝手に思ったんでしょ?私泳げないから、助けてもらって感謝はしてるけど。」

池田三郎次は顔を歪ませて私を見たままだ。私も負けじとつまらなそうに睨んでやる。そのうちに池田三郎次がまた口を開いた。

「川が綺麗で、憎いのか。」
「そうよ。」
「水の中はいい所だよ。」
「ふうん。」

あなたは、そりゃあそうでしょうけど。
だらりと垂れ下がる服が肌にピタリと貼り付いて気持ちが悪い。じっとりと濡れた髪の毛がいきなりうっとおしくなった。たぶん私は今、苛ついている。

「お前、忍術学園のくのたまだろ。」
「…そう。よくわかったね。」

怒りがまた徐々に沸き上がる。気分が悪い。見ているだけで、良かった。見て勝手に憧れて妬むだけで良かったのに。無関係だった池田三郎次と私の糸は、いま繋がってしまった。
池田三郎次は、そこで何を思ったかまた川に飛び込んだ。規則正しい川の流れを乱す突然の水しぶきに、呆気にとられているうちに池田三郎次が顔を水から突き出して、にいっと口角をあげた。

「なあ、一度濡れちまったんだから、もう一回濡れても一緒だろ。」

今度は水から右手を出して、そのまま私に伸ばしてきた。

「水の中はいいところだぜ。泳げないなら教えてやるよ。俺、泳ぎは得意なんだ。」



そんなの知ってるよ。



差し出された手に向かっておずおずと腕を伸ばすと、その腕は勢いよく引っ張られた。抵抗する暇も与えられず、私はまた水に落下していく。
冷たさに沈む体は自由が利かない。けれどいつの間にか私の両手を池田三郎次がしっかり掴んでいたから、先ほどよりは安心はできた。

「はっ、ちょっと、いきなり引っ張らないでっよ、」
「悪い悪い。」

全然悪いとなんて思っていない風に池田三郎次は意地悪く笑った。池田三郎次は、常日頃からこういう笑い方をするのだとそこでやっと理解した。

水の中で池田三郎次に促されるままに。体を浮かせて足を動かす。
憎らしいものたちに囲まれながら、私は憧れにも確かに触れていた。

「そうそう、上手いもんだ。」


必死に息継ぎする私の耳にそんな声が降ってきた。

このまま泳ぎが上手くなったら。私も、いつかはあなたみたいに世界を渡れるのかしら。
こっそり感じた希望はすぐに息苦しさに流されていった。

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