小説2 | ナノ


「せんぱい、せんぱい。」

侵入者の気配に神経を尖らせていた私は、その緩い調子の言葉で一気に脱力した。

「伊助ちゃんかしら。」
「そうです!」

上からはガタガタと木のぶつかる音がする。なれない手つきで天井板を外しているらしく、あれ?という声も聞こえてきた。
首を傾げて困っているであろう伊助ちゃんが想像できて、無意識に笑みさえ浮かべてしまう。

「…隙間をあけて、指を入れてただ上に上げてごらん。」
「あっ、」

ガコッと一際大きな音がして、ぽっかり天井に四角い暗闇の穴が開いた。

「開きました。」

伊助ちゃんは、その穴からひょこっと顔をだして、嬉しそうに笑った。




「まだ夜明け前だよ。わざわざこんなところまで来て、どうしたの。ひとりできたの?」

天井から降りてきた伊助ちゃんは、今はちょこんと私の布団の上に正座している。
手まで両膝に乗せてかしこまって座っている。いつもながら礼儀正しい子だ。

「そうですよ。僕だって、ひとりで来れますから!」

子供扱いされたように思ったのか、伊助ちゃんは少し口を尖らせてそう言った。

「怖くなかった?」
「だ、だいじょうぶです!」

声に自信のなさが混ざっているから、少しは怖かったのだろうな。
実際、くのいちの子には伊助ちゃんが侵入したことはほとんど気がつかれているだろうし。
私は天井、廊下、いたるところから伝わりすぐに消えていく同級生の子の気配を感じながら、伊助ちゃんの頭を撫でてあげようとした。
すると私の手はするり、宙を切った。もう一度撫でようとするが、やはり同じだ。伊助ちゃんの頭が私の手を避ける。

「伊助ちゃん?」
「ぼ、僕は女じゃありません、から。ちゃんじゃありません!」

突然大きくなった声に驚いて、びくついた肩が上下した。伊助ちゃんが、いや伊助くんが私に反抗したことがあまりに予想外すぎた。

「っごめんね。そうだね。」

むつかしいお年頃なのだろう。私は子供扱いしていた点が少なからずあったことを内省して、伊助くんにその意を示してみせた。
すると伊助くんは途端にまた態度を変えて、今度はオロオロと困った顔をしだしたのだ。

「せんぱい、その、でも嫌とかじゃないんですよ。ただ僕が男だって先輩にわかってもらおうと思って。」
「もちろん、伊助…くんが男の子だってちゃんとわかってるよ。」
「わ、わかってないです!だってせんぱい僕の頭を撫でるじゃないですかっ」
「男の子の伊助くんを撫でてるの。頭を撫でる行為に性別は関係ないでしょ?」
「そんなこと、普通男の人にはしません!だって、先輩はタカ丸さんとか、久々知先輩には頭なんて撫でないじゃないですか。」
「そうだねえ。確かに。先輩だし。」
「だから、ぼくも、」

必死にそう言う伊助くんはやはり男の子であるのだな、としみじみ感じてしまう。
生まれた感情を伝えたいけどうまく伝えられない。もどかしい。
はやく一人前になりたいけど、現実はうまくいかない。
丁度そんな葛藤を繰り返す時期なのだろう。

「でも伊助くん、無理して一気に久々知先輩みたいになることはないんだよ?」
「え?」
「ゆっくりでいいの。どうせすぐに大人になんてなれるわけないんだから。」
「でも僕は…早く大人になりたいんです。」
「焦らなくても、だいじょうぶ。伊助くんは立派な男の子になるよ。私が保証する。だから、ちょっとずつ大人になろうね。まず、伊助ちゃんはおしまいにして伊助くんにすることから始めましょう。」
「それだけ、ですか?」
「すごく大きな変化じゃない。三郎次くんと一緒だよ。」
「複雑です…」

そう言う伊助くんは、少し難しい顔をしながら、でも納得したようだった。こちらを見上げて、大きく頷いた。
私も答えるように大きく頷いてみせる。
わかってくれたかな、
そう思ったけれども、伊助くんの顔はまだ晴れないままだ。そう簡単には、解決しない問題だもんね。心の中で呼びかけて、私は伊助くんの言葉を受け止めるためにじいっと待つ。


「あの…せんぱい、いっこだけ、謝ります。」

ようやく声を絞り出した伊助くんは、そしてすぐに下を向いた。私はすぐに努めて明るい声で「なあに?」と問いかける。
恐る恐る見上げた伊助くんの瞳がゆらゆら揺れている。


「…ごめんなさいせんぱい。僕ちょっとだけ嘘つきました。ほんとうは、ここにひとりで来たわけじゃなくて。庄ちゃんに途中までついてきてもらったんです。」

さっきは、ちょっと、強がったんです。
恥ずかしいことを告白するみたいに伊助くんは小さい声で私に伝えてくれた。



「…そうだったんだ。でも途中からひとりで来たことは凄いことだよ。それにね、上級生でもひとりで忍び込む人は珍しいんだから。」
「そ、そうなんですか?」

伊助くんの顔がぱあっと明るくなった。

―主に、責任分散のためなんだけど。

でもそんなことは言う必要のないことだ。
伊助くんは今とても嬉しそうなのだから。

「僕、頑張って強い男になります!」
「うん。楽しみにしてる。」

きっとだいじょうぶだよ。だって、伊助くんだもの。



「…ところで、今日はどうしてここに来たのかしら。」
「ああっ!忘れてました!せんぱい、早く、早く行きますよ!」

そう言って突然私の手を引いた伊助くんに連れられて、私たちはまだ暗い外に飛び出した。静かな夜開け前に、私たちの走る音だけが響いていく。

「どこに行くの?」
「この間、せんぱいと約束したでしょう、朝日がとっても綺麗な場所があるからそれを見せるって。」

私は朧気な記憶からその会話を引っ張り出す。そういえばそんな約束をしたかしら。でもまさか本当に見せてくれるとは思わなかった。
そこで突然、伊助くんが立ち止まって、右手をゆっくり伸ばして
指し示した先に、

「あ。」

角度を変えて放たれる光の線が壁と木の隙間から私たちに降り注いできた。

それはまるで、全てのはじまりの朝に咲いた一輪の花のように、


「間に合ったあ!」


世界が今日も開花する


「綺麗でしょ!せんぱい!」


伊助くんの嬉しそうな声がそのはじまりに添えられて、
私の世界も、


「せんぱい?」


何もしゃべらない私を不信がって、伊助くんが声をかけてくれた。
私は浮かんでいた思いを振り切っていつもみたいに笑いかける。

「とっても素敵。ありがとう。」
「どういたしまして!先輩に見せたかったんです。」

そう言って伊助くんは今日一番の笑顔を見せた。


ああ
彼はきっと、これから大人になるために必死に時の中をもがいていく。
様々な場面で取捨選択を迫られて、自分で答えを見つけていくのだ。
彼が私に抱く今の感情が未だ未熟な感情であって、私は彼の成長過程に関わる人物に過ぎなくて、懐かしむ存在にしかきっと成り得なくて、

…だからそれがどうした。
何をさっきから私は不毛な考えばかり巡らせているのだろう。

伊助くんが落ち着かないといった風に辺りをきょろきょろと見回しだした。ぐるぐると動き回る首元の骨格は、未熟ながらも確かに男の子で。私はいけないものを見てしまったというふうに目を逸らす。


「先輩、今まだ、ここにだれもいませんよ。この景色をふたりじめです。」


こそりと、嬉しそうに教えてくれた伊助くんを見ながら。

私はいつまで、伊助くんの良い先輩でいられるかについて
微笑みの奥でぼんやりと考えていた。



開花する世界に



(私はまだ、完全にさよならを言えないままで)

TOP


×