小説 | ナノ

朝のつめたい空気が肌を刺激する。ぴりぴりとした、感触。
もう夜はとっくに明けたはずなのに、日差しが照りこんでくる様子はない。

―今日は、曇りかなあ。

そんなことを考えながらわたしはいつもの指定席である岩に座り込んだ。目の前には湖。そして森と空。

そして、湖にうつる森と、湖にうつる空。

私は、ゆらゆら揺れるこの虚像の世界がたまらなく好きだ。





* * * * * * * *



「作兵衛、今日は用具委員の人足りてる?」
「そーだな、今日は細かい仕事ばっかだから、俺らだけで充分足りると思う。」
「いや、でも細かい仕事って女の子が必要じゃない?やっぱり私も手伝うよ。」
「いやでも俺らも手先は割と…」
「じゃあ今日も宜しくね!後で迎えに来て!」
「…おめえな、どうせ俺が何て言っても来るんだろ。わざわざ聞くなよ。」

作兵衛の最後の言葉は聞こえなかったふりをして私はさっさととその場を去る。あーあ、呆れてたな作兵衛。だって、しょうがないじゃない。理由を作ってでも会いたい相手がいるんだもの。






授業終わり、作兵衛はくのたま長屋の前で待っていてくれていた。何だかんだ言うけれど結局作兵衛は私に付き合ってくれる。ありがと!と元気よく寄っていけばさっさと行くぞ、とぶっきらぼうに先を歩き出す。

「先に言っておくけど、今日食満先輩は遅れんぞ。」
「えっ!!ちょっと作兵衛、私それ聞いてないよ!」
「そりゃ俺言ってねえから。」

しれっと作兵衛は言う。
そうだと知っていればちょっと遅れていったのに。

「いいだろ、別に。おめえは修繕するために来てくれたわけだし。」
「ぐぬぬ…」

作兵衛、私が食満先輩に会うために来たのわかってて言ってる。顔がニヤニヤしてるもの。
言い返そうと作兵衛に向かって口を開くと、作兵衛は突然くるりとこちらを向いて私の目の前で立ち止まった。丁度向き合う形だ。そのまま私も立ち止まる。

「どうしたの?早く行こうよ。」
「…やっぱ、いいや。おめえ今日は手伝いしなくていいから帰れよ。」
「えっ!?いきなり何で?私、その、動機は不純だけどちゃんと修繕はやるよ?」
「いいから、帰れ。」

有無を言わさぬ強い口調。さっきまでの冗談みたいな調子ではない。私はいきなりの作兵衛の変わりように戸惑った。
どうして、今さらそんなこと言うのだろう。
不可解な行動をする作兵衛に対して今度は無性に腹が立ってくる。
…知ってると思うけど、私聞き分けはあまりよくないんだよね。

「…作兵衛に言われたって帰らないもんっと!」
「あ、おい!!」

私は作兵衛の横をすり抜けて追い越した。してやったりだ。

「へへっばーか、」

しかし勢いづいていた私の足は、すぐに立ち止まってしまった。
作兵衛をすり抜けて、その先に居た人たち。
それは紛れも無く私の大好きな、食満留三郎先輩だ。そして、その隣にはさらりとした髪をなびかせて優雅に佇む綺麗な先輩。―食満先輩の、恋人。
二人は仲睦まじく談笑している。


「花子、」

後ろから作兵衛の弱々しい声が聞こえた。
作兵衛、ばかだなぁ。これを見せないために私に気使って帰れだなんてわざと言ってさ。
そんな心配してくれなくても、ちゃんと割り切っているから。
そんなに弱くないから、わたし。

くるり、今度は私が振り向いて作兵衛と向き合う。
思った通り、作兵衛は悲しさとどうしようもなさを表したような顔をしていた。

「さくべー、なんて顔してんの。私よりも辛そう。」
「おめぇは…なんで笑ってんだよ。」
「なんでって、ねえ。」

なんで。て。
そんなこと聞かないでよ。
だって、どうしようもないってわかっていることだもの。

「私、作兵衛に従う。」
「は?」
「今日は、やっぱり用具委員会に出ないでおくよ。でも違うからね。別に食満先輩に会いたくないからじゃない。ただ、作兵衛の言うことを聞きたくなったの。」
「…そうか。」
「うん。」

私が強がっているように、作兵衛には見えただろうか。実際は、強がりと本当が半分半分。だから、見えても見えなくても正解。
別にどっちに見えたってかまわないけど。



じゃあ、と私が歩き出すと作兵衛は何故か一緒についてきた。

「作兵衛、用具委員行きなよ。私のことはいいから。」
「…ああ」
「私、ちょっと外に出掛けたいの。」
「湖に、行くのか?」

場所を言い当てられ、私は驚いて作兵衛の顔を見た。作兵衛はきまり悪そうに少し目線をそらす。

「なんで知ってるのかって、顔してんな。お前いっつもあそこでぼーっととしてるだろ。前に偶然見たんだよ。」
「そうだったんだ…、うん。あそこに行くの。」

私の秘密の場所、見られていたのか。確かにわりと目につく場所だしな。

「俺も行っていいか?」


作兵衛の申し出は意外なものだった。

「…べつに、行ったって何もしないよ。」
「ああ、いいよ。」
「うん…」

それ以上は、私も何も言わなかった。






なんとなく空は暗い。やっぱり今日は曇りだった。
私は通い慣れた道をひょいひょい進んでいく。そのすぐ後から作兵衛がついてくる。流石忍たまというか。息ひとつ乱していない。


―作兵衛は、私を慰めたいのだろうか。こんなところまでついてきて。

そうだとしたら、おせっかいもいいとこだ。そういう優しさは嫌いではないけれど。
実際のところ、たぶん私は今寂しくて、作兵衛が付いてきてくれたことにほっとしてるのだ。


ようやく到着した湖は、朝と変わらない景色で私たちを迎えてくれた。
私は岩の上に少し、体を寄せて座った。すぐに隣に作兵衛が悪い、といいながら腰掛ける。

水面に浮かぶ逆さまの世界は、憎たらしいほど綺麗だ。

「いい場所、だな。」
「うん。」
「綺麗だ。」


その作兵衛の言葉がきっかけになった。
私は強い衝動に襲われ、目の前に転がる石を拾い集めた。
そのまま、ひとつずつ、湖に向かって思い切り投げる。

トポン、と小さな飛沫をあげて沈む石。
とぽん、とぽん、とぽん

「おい、どうした?」

作兵衛が私に呼びかけ、それでも行為をやめない私の様子を見かねて石を投げる手を掴みあげた。
ぐいぐい振りほどこうとしても全く動かない。

「はなして、」
「花子、」
「離してよ!」

私が投げた石によって、湖の虚像は水のゆらめきに消えていた。

「どんなに綺麗だって、欲しくたって手に入らない。」
「…」
「近づいたら、きっと消えてしまうんだよ。そんなものなら、本当はいらないのに。」

私が食満先輩に会って、好きになってしまったことが間違いだったのだろうか。
想いばかりは膨らんで、苦しさも比例して膨らんで、
いくら消そうと思ったって、簡単に消えてはくれない。

湖のゆらめきはすっかり安定してしまった。私のすきな、虚像の森たちがまた姿を見せる。

「苦しいよ、さくべ、」

「花子。」

作兵衛はようやく、私の手を解いた。

「ここには、もう来んな。用具委員会にもだ。」

私は作兵衛を見上げる。
口調は強いのに、優しすぎる顔だった。笑みさえ浮かべていた。

「辛くなったら。俺に会いにこいよ。俺はお前に利用されたいんだ。」

なんで、笑うの。
そう言いかけて、作兵衛も私と同じなのだと気がついた。
ばかだよ、作兵衛は。

「…ありがと。」

本当、ありがとう。
ごめんね、作兵衛。



湖にお別れをしなくっちゃ、と言っても作兵衛は笑わなかった。
ああ。と一言言っただけだ。
そこは笑ってくれてよかったのに。調子狂っちゃうよ。なんだか、私も作兵衛もちょっといつもと違う。


「ばいばい」

最後に湖にそっと触れて、両手で水をすくう。
透き通ったみずは何も写さず、私の手のひらを透かした。
きれい。

なんだ、作兵衛。綺麗なものはこんなに近くにもあったんだね。



恋はみずいろ
title by DLR


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