今日も約束の場所に、彼は居た。
「とうない。」
「花子、食堂行こう。」
にこりと笑う藤内にこくりと頷いて、私たちはふたりで食堂に入る。これが私たちの、毎日の日課。
私と藤内が食堂に入っても、こちらを気にする人はもう誰もいない。
恋仲になりたての頃こそ、先輩にも後輩にもからかわれたが今では当たり前の光景として受け取られているようだ。
私たちはいつものように、並んで定食に箸をつける。周りはいつもの如く騒がしいが、私たちはお喋りすることもなくもくもくと口を動かす。
そんな私たちをみて、くのたまの友人達は口を揃えて言う。
「なんでそんな静かなの。もっと話せばいいのに。」と。
恋する相手と話すことはとても幸せなことだ、という考えが一般的に流布している事実であることは理解しているつもりだ。なんせ藤内と付き合い始めたとき、私はまさにそんな状態であったわけであるから。
藤内の口から私に向かって飛び出す全ての言葉が愛しくて、どきどきした。
しかし、今の私にそんな感情は無いに等しい。
藤内と特別に話すことが毎度あるわけではないし、特に話したいと思わないから今も口を開かず、おかずを口に運ぶのだ。
藤内のことが好きなのか、好きじゃないのかと聞かれたら好きなのだ。
けれども、私はきっと、胸を張って彼を愛していると言うことができない。
この奇妙な自身の感情には時々悩まされている。わからないのだ。何がわからないのかもわからない。
ひとつだけわかっていることは
私が、藤内への信頼に甘えていることだ。
「藤内、実習いつだっけ?」
「明日だよ。明日の朝から。夕方には帰る予定だけどね。」
「そっか。じゃあ帰ったら顔見せてね、長屋の前にいるから。実習、結構危険なんでしょ?気をつけて。」
「うん。ありがとう。」
それだけ交わして、また私達は黙ってしまう。
誰かが、関係性っていうものは、ずっと前進していないと死んでしまうのだと言っていた。
そうだとしたら、私と藤内の関係性は今、どうなっているのだろう。
胸のどきどきが消えたことを指して死んでいると言うのだとしたら
私は藤内ともう、いてはいけないのだろうか。
「ごちそうさま。」
「藤内、にんじん食べてくれる?」
「はいはい。」
優しく笑って、彼は私のお皿からにんじんをひょいっとつまむ。
「いい加減、食べられるようにならないと。」
「だって、野菜のくせして甘いんだもの。」
「かぼちゃは食べるくせに。」
「あれは、違うの。」
何気ない会話をなんのためらいもなくできる関係。
それは、恋仲として間違っているのかいないのか。
好きなのかどうなのか。
もちろん、藤内に好きか好きじゃないのかわからない、なんてことを言うつもりなんて無い。言ってはいけないことだとちゃんと自分でわかっている。
だってこれを言ってしまったら、私は彼を失ってしまう、それは、嫌だ。
なんてずるい女。
だから私は、信頼に甘えている。
考えを巡らせながらじっと藤内を見つめているとこちらに気がついた彼が私に少し微笑んだ。余計に、やるせない気分に襲われる。
藤内にもし、別に好きな人ができて、別れを告げられたとしたら。
私は多分、とても悲しむだろう。泣くだろう。辛いだろう。
でも、きっといつか、藤内ではない別の誰かを愛する。そんな自分が簡単に想像できる。
こんな風に考えるわたしはすこしおかしいのかもしれない。
「花岡さん、あなたが好きです。」
気になっていた浦風くんからそう告げられたあの時。
わたしも、と告げた時に顔を赤くしてうれしそうに笑った藤内。
最近になって、あの時のことばかり思い出す。
藤内は、まだ、私のところをあの時と同じ気持ちで見つめてくれているのだろうか。
考えて、すぐに打ち消す。
そんなわけはない。
もしかしたらお互いおんなじ気持ちなのかもしれないということに、薄々気が付いてはいる。
次の日、日が暮れても藤内は現れなかった。
時間に遅れることなんて絶対に無い彼だから、珍しい、と思いながら壁に寄りかかって彼を待つ。道にでも、迷っているのだろうか。
しかしあまりにも藤内が現れないので、しびれを切らした私は藤内を探しに出掛けた。頭によぎった不安な考えは打ち消して。
―予習していたら、すっかり約束のこと忘れていて。
―先生に、頼みごとされちゃって遅くなっちゃった。
ごめんね花子。
そう言う彼を必死に想像して私は歩き回る。
「は組のグループがまだ一つ、帰ってきてないんだろ。」
ふと、すれ違いざま聞こえた声に私は思わず振り返る。声の主の萌黄色の装束は、まさしく彼と同じそれだ。
「そうらしい。何かあったのかもな。」
「今回は実戦に近い実習だったし。あり得るよ。先生方も今会議中らしいぜ。」
そりゃ大事だ、と去っていく二人を私は愕然と見つめる。藤内は、は組だ。
「藤内は、まだ帰ってきてないよ。」
唯一、話したことのある藤内の友達の伊賀崎くんを見かけた私は、彼に藤内の居場所を聞いた。恐る恐る。
そして伊賀崎くんがはっきりと、事実を私に告げたことで持っていた最後の期待は完全に打ち砕かれた。
「すぐ帰ってくると思うけど。」
私を心配してか、もしくは藤内への信用からか。彼はそんな言葉を付け足した。多分、後者だろう。
その言葉で私の不安がおさまるはずもなく、どうもありがとう、とだけ力なく返した私はまたふらふらと歩き出した。
―藤内がいない。
その事実に私は正直のところ、とてつもなく動揺していた。
自分でもおかしいと思うほど動揺していた。
ねえ藤内
ねえねえ藤内
絶対帰ってきてよねあの笑顔を見せてね
藤内、とうないお願いだよ、あなたが幸せじゃないと駄目なの私
どうすることもできずにどっぷり暗くなった外に出て、私は門の下に身体を縮めて座り込んだ。
今日は雲の多い夜空だ。…空くらい、彼に道筋を示してくれたっていいのに。
私は上を見上げるのも嫌になって、下を向いて余計に体を小さくした。
「花子?」
ふいに待ち望んだ声が聞こえた気がした。
幻聴かと思いつつ顔を上げる。そこにいたのは浦風藤内、その人だ。
「と、うない…?」
「花子、どうしたの?…もしかして僕を待っていたの?」
何故か藤内の姿を見た瞬間からだ全体が緩んでしまったように動けなくなった。
目の前がぼやけだし、そのままわんわん泣いた。
安堵の感情ばかり体の奥からひたすら湧き出てくる。藤内がここに。わたしの目の前でいま生きていることが嬉しくてたまらない。
藤内は泣きじゃくる私の前にしゃがみこんで、そっと頭を撫でてくれた。
「ごめんね花子、遅くなって。実習自体は早く終わったんだけどうっかり道を間違えちゃって、迷子コンビも笑えないよね。」
そうだったんだ、ああ本当に良かった。嬉しいよ藤内。
しゃっくりをあげるばかりで何も言えない私の思いは言葉にならない。
「数馬、悪いけど先に行ってくれるか。すぐ行く。」
「うん、気にしないで。先に報告してくる。」
誰かの声が聞こえた後に、ひとり分の足音が遠くなっていく。
「と、ない。…ごめ、」
「いいから。」
ぐっと押し付けられた藤内の胸元。汚れちゃうや、ごめんね藤内。
「とうない、とうない。」
「…うん、ここだよ。」
藤内、おかえり。
暫く泣き続け、私は「数馬くん」に羞恥心を覚えるくらいには落ち着いた。
ふう、と一息つくと藤内はすこし笑った。私は顔を上げてそんな藤内の方を向く。清々しい気分で。
「私ね、きっと藤内が好きなんだ。」
改めて言うことじゃないんだろうなと思ったが、伝えずにはいられなかった。
私の藤内への想いが、やっとわかった。
私は、下手したら自分の幸せよりも藤内の幸せを願っている。
たぶん、そんな風に思わせてくれる人はこの人だけだ。
きっと藤内と別れても。私は願い続けるのだろう。
「奇遇だね、僕も。」
目があった藤内の真っ黒な瞳に写っているのは、まぎれもなく私だ。
「たぶんね、花子と僕が考えていることはほとんど一緒だよ。」
藤内の声が、微かな虫の声と一緒に私たちの静寂に色を与える。
そのまま暗がりの中で私たちはひとつ口付けをした。
それは、お互いの意思がわかったかのように交わされた、ごく自然なものだった。
「花子、僕がいちばん今、望むことは何かわかる?」
「え?私が幸せになること、とか?」
「うん、惜しい。それもそうだけど、一番はね。花子の幸せを作り上げる存在が僕であること。」
それだけ言って彼は微笑んだ。
この人に会えたことが運命じゃないわけがない。
私は、そう確信する。
「私も、それがいい。」
「うん。僕らなら叶えられそうじゃない?」
そう、つまりは私たちは完全に愛し合っている。
つまるところ
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