小説 | ナノ

何か言いたそうにして、すぐになんでもない、と取り消す。

最近花子ちゃんはそんなことが多い。
僕は言いたくないことを無理に聞こうとしたくはないから「そっか」と毎度言ってしまう。
でも花子ちゃんが何を僕に言おうとしているのか。気になって仕方がない。
そこのためらいは、何を意味するのか。
僕への信頼はそのためらいを上回ることはできないのか。

でも、僕は聞かなかった。
花子ちゃんが僕を頼るまで。ずっと待つ。そう決めたのだ。






「黒木くん。」

お昼休み、外を歩いていたら、花子ちゃんが僕を呼んだ。
僕は驚いて彼女を見る。少し顔をこわばらせた、花子ちゃん。

いつもは人の居るところで僕と話すのを嫌う彼女が、忍たまくのたまばかりの庭で話しかけてきたのだ。僕はひどく意外な顔をしていたに違いない。
でもすぐにうれしくなって花子ちゃんに笑いかける。

「なに?花子ちゃん。」

珍しいものでも見るかのように周りが僕らに注目して、すぐに興味をなくして視線をそらす。
そんな周囲の様子にほっとしたような顔をして花子ちゃんは、ゆっくり小さな声で「あのね、」と続けた。

「今日の夜、わたしの部屋に、こっそり来れないかな。」

俯いた彼女の目は見えない。
僕はとりあえず、深く考えずに「いいよ。」と了承した。

「ありがとう。」

彼女はそれだけ言って、真っ赤な顔を隠しながら走ってしまう。

花子ちゃん、そんな風に言ったら勘違いされちゃうよ。僕だからいいけれど。
心臓の音がどくりどくり大きく聞こえる。
冷静な僕も、ちょっと動揺しちゃったよ。

それでも、今日の夜がそんな嬉しい用事じゃないことはちゃんとわかる。
花子ちゃんの中で、僕は「ためらい」に勝ったんだよね。

ありがとう、きちんと君を受け止めるから。






暗闇に世界が落ちた。
一歩一歩慎重に足を踏み出す。
くのたま長屋に忍び込むのは初めてだ。

でも、ちゃんと委員会で鉢屋三郎先輩と尾浜勘右衛門先輩にくのたま長屋忍び込みのコツを聞いてきたから大丈夫。

その一、意外と天井よりも正面からこっそり行った方がばれない。

僕は誰もいないことを確認して、音を立てずに侵入する。よし、ほっと息をつく。

その二、くのたまの部屋の方を通るよりはシナ先生の部屋のほうを通ったほうがむしろ安全。

「先生なら手加減してくれても、くのたまはマジでくるからな、庄左ヱ門。」
「体験談ですか、先輩。」
「察してくれ、後輩。」
「ははは、さすが庄左ヱ門。冷静だねえ。」

僕は二人との会話を思い出す。
鉢屋先輩の青い顔は真実味があったな。

ぼんやり回想していて、少し油断していた。ギッと床がなって、まずいと思ったときには既に、シナ先生がいた。


「あ、シナ先生…」

まずい。どうしよう。ここで追い返されたらもう無理だ。
せっかくの花子ちゃんからのお誘いだったのに。

シナ先生は僕を見下ろして、ふっと笑った。

「庄左ヱ門くん、油断して音立てちゃダメよ。花岡さんのところかしら。私が見てるから早く、行きなさい。」

ほら、と僕の背中を押す。
僕は驚いて、シナ先生を見る。

「いいんですか?」
「本当はダメよ。…今日だけ。」

その言葉に安堵する。よかった。先輩の言葉は本当だった。

その三、見つかっても焦らない。低学年なほど、簡単に見逃してもらえたりする。

先輩の言葉を思い浮かべて、僕はシナ先生にお礼を言う。

「いいのよ。…あの子のところに、行ってあげて。」
「え?」
「ううん、何でもないわ。さあ。」

少し疑問に思ったが、とりあえず早く僕は花子ちゃんの所に行かなければいけない。
ぺこりと頭を下げて、音をたてないようできるだけ早足で僕はひとつの部屋を目指す。



ようやく、そこが見えた。長い道のりだった。
安堵しながら軽く戸を叩くと、すぐに花子ちゃんは中に入れてくれた。

「ごめんね、無理言って。」
「ううん。大丈夫。シナ先生が入れてくれた。」
「そう…」

花子ちゃんは僕に座布団を差し出した。促されるまま座って、やっと僕は花子ちゃんと向き合う。


沈黙した後に、花子ちゃんは深呼吸をひとつした。


「黒木くんにずっと隠してたことがあるの。」

その瞳が揺れている。
僕は首肯して彼女の言葉を待つ。

すると突然花子ちゃんは襟元に手をかけ、するすると服をはだけさせた。突然の行動に動揺して、思わず僕は目を逸らしてしまう。

「黒木くん、見て。」

その言葉に、僕は躊躇しながら彼女をそろそろと見る。
右肩から腕を露出し、左腕で胸部を隠す彼女がそこに居た。
花子ちゃんの姿に赤面する前に、僕は彼女の右腕に目を奪われる。

彼女の右腕全体が紫色に変色していたのだ。


「…汚い色、でしょ。これ。昔、ひどい怪我をして放っておいたらこうなっちゃって。」

たまにまだ、痛むの。
怯えたような微かな声が僕の耳に届く。

「気持ち悪い、でしょう。…でも、これが私なの。見せるの、迷ったんだけどね。でもやっぱり黒木くんに偽るのが、私が、嫌で。
私がただ、黒木くんに見せたかっただけなの。ごめん、ね。こんなもの見せ―」

僕は

彼女が言い終わる前に彼女の頭を無理やりこちらに向けさせた。
そのとき花子ちゃんの大きな瞳から涙がこぼれた。
とても、綺麗だ。


「ありがとう。」


僕のその言葉で花子ちゃんの顔が歪む。ぽたり、ぽたりと宝石みたいな雫が垂れていく。

「花子ちゃん、嬉しい。ありがとう。でもね、この右腕、そんなに深刻そうに見せることないよ。この腕が偽りだとか本当だとか、そんなの間違ってる。この腕と僕の知っている花子ちゃんと何が関係あるのさ。」

「…う、くろ…きくん、はぁ、」
「うん。」

僕は泣きじゃくる花子ちゃんの言葉をひとつでも聞き逃すまいと必死に耳を傾ける。

「なん…で。わたしの、…ちばん、欲しい…とば、言葉、くれるの。わけ、わかんない…」

「本当?花子ちゃんに、僕あげられてた?良かった。」
「〜っ、」

悔しいようなよくわからないぐちゃぐちゃな顔で彼女は僕を見上げる。

嬉しいよ。君がここでこうやって泣いてくれることが。
涙は出ないけれど。なんでもない風に見えるかもしれないけれど。
本当、嬉しいんだ。

彼女の前髪を少しかきあげて、僕はおでこに唇をひとつ落とす。そのまま鼻に、瞼に、唇に。
彼女は目を閉じて唇だけ少し応えてくれた。

そしてゆっくり、体を離す。
上気したその顔。花子ちゃんに写っているのは僕だけ。
ああ愛しい。


「花子ちゃん、胸、しまった方がいいんじゃないかな。」
「え?…あ、あ!」

慌てて真っ赤な顔で後ろを向く花子ちゃん。黙っておいても良かったんだけど、ね。

「…は、はやく言ってよ…」

服を直しながら、蚊のなくような声を出す花子ちゃんに僕はただ微笑む。

「黒木くんは、たまに優しくないよね。」
「そうかな。大概優しいと思うけど。」
「本当に優しい人はそんなこと自分で言いません。」
「はは。厳しいなぁ、花子ちゃん。ほら、外で星でも見ない?」
「話そらすし…」

そう言いながら、彼女は僕に着いてきた。




塀をよじ登って、二人で屋根の上にごろんと寝そべる。

「ひろい、」

花子ちゃんのその感想が、なんだか可笑しくて僕は隣の彼女を見る。
そんな僕には気づかずに彼女はじっと夜空だけを見つめていた。

「よくこんなところ、知ってたね。」
「先輩達に教えてもらった。逢引ならここが良いって。」
「へえ。じゃあ、結構有名なのかな。」

くすくす笑い声が濃紺に吸い込まれた。
夜には音を吸収する不思議な力がある気がする。まるで、明日に備えて今日という一日を全て消してしまうみたいだ。



「世界は、美しいね。知らなかった。」

彼女の新しい呟きがまたそっと消えていく。

花子ちゃんに、世界の美しさを教えたのは他の誰でもない、僕だ。
それを言い切れる自信はあった。
僕は不思議な優越感を感じながら、彼女の言葉を頭に刻み込む。


「やっと、知れた。黒木くんがいたからだよ。」


にっと、笑う花子ちゃん。
改めて本人から言われると、少し恥ずかしくなった。

「黒木くんが生きるなら、私も生きてみるよ。」

「うん。」


そのとき、僕は幸せな気持ちで満たされていたのだ。
だから、君の言葉もなんの疑問も持たずに受け入れたんだ。




花子ちゃんを見たのはその夜が最後だった。
彼女は、その次の日に学園から姿を消した。




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