小説 | ナノ

目の前には、私の大好きな大好きな甘いもの。
そして、隣には優しい富松先輩。
それなのに。心は浮き立たない。理由なんてはっきりわかってる。


「…花子、どうした?」

富松先輩が心配そうに私の顔をのぞきこむ。
だめだ。今は実習中なのに。
池田くんの冷たい声ばかり思い出してしまうなんて。

「いえ、なんでもないです。」
「そっか。」
「ごめんなさい、なんか。」

それ以上の言葉は繋げられなかった。

「花子にそんな顔されると調子狂うなあ。…さっきの池田だろ?あいつはもともとああいう奴だよ。気にしないほうがいい。」
「いえ、私が不躾なことを聞いてしまったのです。池田くんと、私はそんなに深い仲じゃないのに。」

朝、池田くんと少し話したくらいで私は彼との距離を縮めた気になっていたみたいだ。舞い上がっていた自分を思い出すと消えてしまいたくなる。

「買ったもの聞くぐらい、普通だろ。」
「でも私は左近に「また食い物買って、今度は何だよ」と言われると腹が立ちますし。」
「それはまた全然違うと思うぞ。花子、今落ち込んでるんだよ、な?」
「落ち込んでますよ。結構、深く。」
「悪い。確認しただけだ。」

富松先輩の問いかけに口を尖らせる。富松先輩は私を馬鹿にしているのだろうか。本気で、落ち込んでいるのに。
それでも、下手に心配されるよりはずっといい。わざと馬鹿にしたのかどうかは分からなかったが、ちょっと安心した、というのが本音だ。


そろそろ学園に戻ろう、と話がまとまった所で茶屋を出てみると、どんよりとした重い雲が空を覆っていた。

「まずいな、一雨来るか。」
「早く帰りましょう。」

そんな話をしながら早足で足を進める間にぽつりぽつりと地面に染みができていく。
とうとう雨が土砂降りになってきた所で、大きな木下に逃げ込んだ。

「あー。降ってきちゃいましたね。」
「ついてねえな。止むか?これ。」

そんな富松先輩の問いかけは雨の音に吸い込まれた。いつの間にか道には水の流れができている。

「止み、そうにないですよね。どうしましょう。」

空は驚くほど暗い。

「困ったな。」
「…走りますか。」
「え?は、おいっ」

富松先輩の言葉も聞かず、私は雨の中に飛び出した。
ばちばちと肌に水が当たる。服が色を濃くして重みを増していく。

「おい、花子!」

富松先輩がこちらに駆けてくるが、止まる気はない。

「先輩、競争。」

それだけ言い残して、私は足元も気にせずに走り続ける。泥水が撥ねる。

ああ気持ちいい。
どろどろの私の心なんて、こんな風に踏み潰してしまいたい。
池田くんは、あそこで何を買ったのだろう。誰に買ったのだろう。

でもそんなこと私には知る権利もないのだ。


「っ、待てって。」

あっさりと富松先輩は私に追いついた。

「先輩、はやいですねぇ。ああ、髪びちょびちょですよ。折角の前髪が。」
「おめぇがいきなり走るからだろ。何やってんだよ。こんな雨なのに。」
「へへ、」

ひどい雨で良かった。
こんなにどろどろの私でも表情だけは隠していられる。


「もうこれだけ濡れちゃいましたし、走って帰りますか。」
そう言って歩き出そうとするが、富松先輩は動かない。どうしたのだろう。

「富松先輩?」
「なあ、」


「 」



富松先輩の呟きは雨音にかき消される。

「え?すみません、もう一度、」

そう言うと、富松先輩はこちらを向いて笑った。

「今日の夕飯は温かい料理がいいなぁって。寒いだろ。早くあったまりてぇ。」
「…そうですね。早くおばちゃんに会いたいです。」
「よし、急ぐぞ。」

そう富松先輩が言うやいなや、私の足は宙に浮く。背中と足は先輩の手に支えられて視界が勝手に動いていく。
私は富松先輩に抱き抱えられるがまま、何も言えない。


――富松先輩の嘘つき。
食べ物の話をしておけば、誤魔化せると思ったんですか。いくら私でも騙されませんよ。

あんなに悲しそうな顔で、さっきは何を言ったのですか。

きっと、私が富松先輩の嘘をわかってしまうくらいだから。富松先輩にも私のどろどろした気持ちが伝わってしまったのかもしれないな、とぼんやり考える。


「また用具委員に来いよ。」


今度の富松先輩の呟きは顔が近かったせいもあって、はっきり聞き取れた。



どうしようもなく切なかった。

甘えるのは簡単なのだ。
それでも、私はさっきの富松先輩の小さな嘘を理解しなければいけない。




「先輩、私、泥だらけですし、重いですから。下ろしてくださいよー。」
「いや別に重くねぇけど。」
「駄目です。さっきお団子食べましたし。」
「どんだけ気にしてんだよ。」

そう笑って言いながら富松先輩は私を下ろしてくれた。

「雨、少し弱まりましたね。」
「ああ、もう遅いけどなあ。」
「ほんと。服が搾れちゃいます。」

空は雲に覆われたままだったが、ほんの少しだけ明るくなったようだった。

「花岡、また走るか。」
「ええー、もう疲れましたよ。別に濡れてもかまいませんから歩きましょう。」
「なんだよ。さっきは自分で言っておいて。」
「気分です気分。」

私は手を大きく振って歩き出す。富松先輩が横に並ぶ。

「先輩、簪ずれてないですか?」
「おお。大丈夫だ。」
「良かった。また街に出掛けるときとかに使いますね。」
「ああ。」

そう言って、先輩はくしゃりと笑った。





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