まどろみから覚醒への遷移。それを自覚して、ハッキリと目を開ける。そこからの行動は早い。
顔を洗って、身支度。髪を撫でつけてきっちり纏めたら、いつも通りの場所へと向かう。
空の方はまだ覚醒しきらずに、ぼんやりしている。そのわずかな明かりを頼りに歩く。
前方に、唯一光が漏れた部屋が見えた。
「失礼します。」
そう声をかけてその部屋の扉をそっと開ける。
「ああ、花岡。おはよう…もうそんな時間か…」
今日できた隈なのかそうでないのか、よくわからない顔の潮江先輩が私に気がついた。
「おはようございます。潮江先輩。ええ、もう夜が明けます。」
そう挨拶をしてから周りをぐるっと確認する。
すぐ左に一年生の団蔵くんと、左吉くんが仲良くもたれあって眠っている。奥では三年生の左門くんが机に突っ伏しているし、潮江先輩の隣で三木が首を上下に揺らし、船をこいでいる。
毎度ながら、この光景を見るとなんとも言えない気持ちになってしまう。
「皆さん、夜が明けますよ。起きてください。」
起こすのも気が引けるが、仕方がない。軽く体を揺らして声をかけると、皆が焦点のあっていない顔で意識を取り戻し始めた。
「あ、花子先輩、おひゃよぉござあまふぅ…」
「眠いよぉ…」
「ほら、お前らちょっと顔洗ってこい。ギンギンに再開するぞ。」
うぇぇと嘆く一年生に同情する。
「花子、今日もありがとう。」
「いえいえ、お安いご用です。」
寝起き顔の三木が欠伸をしながらこちらに近づいてきた。それを見ていたら、つられて自分も欠伸がでる。それを見て三木が笑う。
「あくび、うつったな。ふぁ…」
三木もまたうつったらしい。二回目のあくびだ。
「お疲れさま。毎日大変だね。」
「今日は特にだよ。ミスが重なっちゃってね。でもまあ、あと少しだから。」
言葉とは裏腹に、表情は暗い。自分がなにもできなくて申し訳ない、と思いながらも絶対に代わりたくないな、と思ってしまうのは仕方がないだろう。
会計委員の目覚まし係に私がなったのは、一月前ほど。無駄に早起きする能力を買われたのだ。徹夜した日の夜明け前に仮眠中の会計委員を起こしに行くのが仕事である。幼馴染の三木に懇願されたときは忍たまと関わるなんていやはやどうしたものかと思ったが、今となれば会計委員の忍たまと随分仲良しだ。こんなことで役にたつのなら、と進んでやっている。
不憫な彼らに同情しているのかもしれない。
目覚ましてくる、と三木が部屋を出ようとすると、ちょうど先程出ていた一年生が帰ってきた。
「ああ、最悪だよ。滝夜叉丸先輩の自慢話のオンパレードなんて、余計に疲れる…」
さっきよりもいくらかしっかりした足取りだが、顔は疲れが増したような気がするのは、その自慢話のせいだろうか。
滝夜叉丸の名前が出たとたん顔をしかめた三木は、踏み出した足を引っ込めて引き返してきた。
「あれ、三木行かないの?」
「わかるだろ。滝夜叉丸になんか今会いたくない。」
うん。わかってて聞いたけど。
「さ、再開するぞ!」
潮江先輩がそう言ったところで、お役ごめんの私は頭を下げ、部屋をあとにする。
――やれやれ、今日も私の仕事が終わった。
小さな達成感に浸りながら自室へと戻る。外は爽やかな朝の風景へと代わりつつあるが、それでもまだ人の気配は無い。
井戸のまわりも静まり返っている。滝夜叉丸も、いなくなったのであろうか。
滝夜叉丸、と名前を呼び捨てられるほど、私は彼と仲が良いわけでは決してない。むしろ、話したこともあるか分からないほどだ。
勝手に彼を呼び捨てる理由は明快。
私は彼が嫌いなのだ。
話したこともないやつを勝手に嫌いと決めつけるなんてことは勿論、よろしくないことである。私もそれは、重々承知。
だが、彼の行動を見て、嫌うなと言うのも無理な話ではないかと思う。
ひとの気持ちも考えず、自慢話ばかり。
ナルシストで、謙遜という言葉を知らない。
結論、回りの空気を読む能力は皆無。
こんなに常識のなっていないやつがいるのかと感心したほどだ。いやぁ、凄い。凄い。ネタとしては、最高に面白いよ滝夜叉丸くん。
でもね、ネタというのは、所詮ネタ。周りに配慮もできないやつに、何ができるというのだろう。結局、彼はただのめんどくさいだけの男であるのだ。傍観の立ち位置から外れて近づくのなんてまっぴらごめんだ。
もちろん、何も態度には出さないけれど。
これからの合同実習で一緒になったら厄介だが、当たる確率は低いし。もし残念ながら当たってしまっても数日なら誤魔化せる。
まあ関わらなければなんの問題もないだろう―
そこで、私の思考はストップした。
大量の赤色
赤
赤
赤
朝にふさわしくない色が私の視界に大量に飛び込んできた。
唖然として立ち止まる。見ればそれは薔薇。
薔薇――
それが意味するものは、ただひとつ。
「おや、人がいたのか。」
こうして、私と滝夜叉丸は出会った。
私はこんなに不運だったか。いや、人並みなはずだ。特に保健委員との絡みもない。不運をうつされた覚えがないー
どうでもいいことを考えながら私は素早く笑顔を作った。
「滝夜叉丸くん、おはよう。ビックリしちゃったよ。凄いねこれ。」
まったく中身のない話を切り出した。このくらい、余裕である。私がボロなんて出すはずがない。
「うわっ、くのたまっ!」
少し笑顔がひきつったかもしれない。
くのたまだからって何でもかんでも嫌な顔をしないでいただきたいものだ。あなたはもう四年生でしょうが。
くのたまの名誉のため、というのもあり、気が向いた、というのもあり、私はしゃがみこんで散らばった薔薇を集めた。
「はい、どうぞ。」
にっこりと作り笑顔を向ける。さ、さっさと行って頂戴。という意味をこめて。
――この行動がいけなかった。
私の優しさの塊である薔薇を訝しげに見た滝夜叉丸は、合点がいったという顔をして自信に満ちたような、憎たらしい顔をこちらに向けた。
「さては…私に惚れたか?」
私の笑顔が、今度は確実にひきつった。
喉まででかかった言葉を必死に飲み込む。落ち着いて、落ち着くのよ。こんなバカの相手をするなんて時間の無駄。
「いや、ちがうん「そうか、それは、仕方のないことだ。なんせ、私は学年一の実力者。戦輪を使わせれば学園一。そこに、この美貌が加わった罪な男であるからな。」
ここまで自惚れ屋だとは、驚きだ。ここまでくると、もういっそ気持ちがいい、とかそんなことを私が思うわけがなく、苛立ちは限界を知らずに上昇を続ける。
ここで、ええ、そうなのかもしれないわ。おほほ。では。という大人の対応を出来るほど残念ながら私はまだ大人にはなれていなかった。
「いや、ただ、拾ってあげただけ、なんだけどね。はは。」
「ふ、今はそういうことにしておくさ。」
「はは、」
乾いた笑いでごまかしながら、私は早歩きでなんとかその場を去った。
* * * *
朝の一件のせいで今日は酷く気分が悪い。もやもや。
ああおぞましい。あんなやつに、私が好いていると思われているなんて。
こういうときは、誰かに聞いてもらうのが一番だろう。そうだ、三木。三木に愚痴ろう。
確か夕方のこの時間、三木はユリコと戯れているはずだ。
三木、三木。とにかく早く体の毒素を吐き出してしまいたいかのように必死に三木を探す。
「いた…」
学園の大きな木の下に三木は座っていた。隣にはユリコ。
「三木!」
私の声に反応して、三木が少しこちらを向いたかと思うと、すぐにまた視線を下げた。
(あれ?)
なんだか、三木がおかしい。よく見れば三木は項垂れているように座っているし、表情が酷く暗い。
「…三木、どうしたの?」
滝夜叉丸のことなど頭から吹き飛んだ私は三木の目の前に座り込み、言葉をかける。
「だめだ。僕は…才能がないのかもしれない。」
消え入りそうな声で弱々しく三木が呟いた。私は、驚くと同時に狼狽える。どうたのだろう。三木はいつも自信過剰なくらいであるのに、こんなことを言い出すなんて。
「ユリコが、全く僕の言うことを聞いてくれないんだ。何でなのかも、わからないんだ。」
「ユリコちゃんが…」
それは、たしかに三木にとって辛い出来事であるだろう。毎日毎日、飽きもせずユリコユリコと彼女を溺愛しているのだから。
「僕が、一番ユリコのことをわかっている筈なのに。」
この世の終わりのような顔をした三木を前に、私は焦る。
私に、何ができるだろうか。どんな言葉をかけられるだろうか。三木のために。
必死に頭を巡らす。
元気だして、
なんていう自分の使命感だけしかこもっていない陳腐な言葉?
すぐに、もとに戻るから大丈夫だよ、
なんて根拠のない、曖昧な気休め?
どれもこれも、違う。
だって、三木が求めているのは気遣いの言葉じゃない。
じゃあ、私はなんのためにここに居るのだろう。
――なにが気配りだ。
ぐっと、唇を噛む。
不足の事態に、肝心なときに私は何もできないじゃないか。
泣きたいのは三木であるだろうに、自分の存在の小ささに私が泣いてしまいたくなった。
「なんだ、三木じゃないか。」
その絶望感漂う雰囲気のなか、場違いな調子の声が響く。
見ればそれは滝夜叉丸で。
さっきまであんなに苛ついた相手であるのに、今の私には意識を向ける余裕もなかった。それは三木も同じであるようで、少し目線を上げただけでまた、興味無さそうに視線を戻していた。
「落ち込んでるんだ。僕に構うなよ。」
「ははあ、三木ヱ門まだ落ち込んでたのか」
ずけずけと間に踏み込む滝夜叉丸。
「火器を使わせればなんたらとほざいてはいたが、所詮はそんなもの、ということか。ちょっと当たらないくらいで無くなる自信なら持たない方がいいぞ。私はそんなことでは落ち込まない。まあ、私にスランプなどないがな。」
軽い絶望感のなかで、私は滝夜叉丸の言葉をぼうっと聞いていた。
「なんだと…。滝夜叉丸、こんなときくらいも黙ってくれないのか。お前は。」
険悪な雰囲気に変わりつつあるその場は居心地が悪い。
「なんで私がお前のために気を使わなきゃいけないのだ。腹が立つんだったらつまらんことで落ちなければいい話だろ。」
「…!」
三木はいよいよ居られなくなったのか、ユリコをつれて苛立ちながらその場を去った。
私はどうすることもできずにその場で硬直したまま。
「やあ、朝のくのたまじゃないか。」
相変わらず自信に満ちた顔で声をかける滝夜叉丸に、何故か今は腹がたたなかった。
「あなたは、三木を元気づけたのですか?」
それは、確実に素の私が発した言葉であった。突然口調が変わった私に気がついているのかはわからなかったが、滝夜叉丸は口角をあげた。
「そんなわけがないだろう。あれは、私の本音の言葉だ。」
その言葉を聞いても、何故か私は失望しなかった。よくわからないが、私が滝夜叉丸を見る目が変わっていたことは確かだ。ただ、と滝夜叉丸が続ける。
「私は落ち込む奴が嫌いだ。」
三木は、ユリコで何度も砲弾を撃ち込んでいた。
やはり、調子が悪いのだろう。いつもよりも当たりは悪かったが、やめるつもりは無さそうだった。
「さっきは悪かったな。花子にも弱音を吐いて。」
三木がいつもみたいに私に話しかける。そこに絶望感なんてものは欠片もなかった。
私はなんだか泣きそうになって、ううん、と下を向いて呟いた。
「滝夜叉丸のやつ、偉そうなことばかり言って。今に見てろよ。」
そう強く決心した三木の横顔はなんとなく光って見えた。
「三木は、滝夜叉丸、くんが嫌いなの?」
私の言葉に彼はきょとんとした顔をして、すぐに考えるしぐさをした。
「嫌いというわけではない。僕はあいつの生き方が嫌いではないけれど、好きには絶対になれないな。」
その答えにどこか私は安心した。
「私はね、結構、滝夜叉丸くんが好きかもしれない。」
いま思えば、彼が朝早くから起きていたのは自主練のためじゃないだろうか。
今朝の真っ赤な薔薇が頭に浮かぶ。
馬鹿げたことだが、彼は、そう例えばあんな風に薔薇の雨なんかを本当に降らせてしまえるような力を持っているのかもしれない、なんて思った。
そして馬鹿げたことに私はその彼の行動を、その生き方を
見つめたいかもしれない、なんて。
かもしれない、というのは、私のちょっとした滝夜叉丸、くんへの抵抗だ。
だって、なんだか悔しいから。
私のその発言のあと、三木は顔をグニャリと曲げたかと思うと私を担ぎ、そのまま保健室へと走り出した。
「新野先生!花子が、重病なんです!助けてください!」
「いやいや元気元気!三木落ち着いて!顔が必死すぎる!」
「僕は花子が一番落ち着くべきだと思う!」
その後、会計室に行くたびにみんなに哀れな顔を向けられるようになったのは別の話。
薔薇の雨を降らせ
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