「皆本先輩!」
「せんぱい!剣術のけいこ、つけてください!」
「おー。委員会のあとな。」
やったぁ、と嬉しそうに後輩達が駆けていく。
「金吾くんも、すっかり先輩だね。」
「もう、こんなんでも高学年ですからね。」
「いつの間にか私の背も越したね。」
花岡先輩が、目を細める。
僕と花岡先輩の関係は、あんなことがあっても変わらなかった。
花岡先輩が泣いたあの日のあと、先輩は今まで通りに戻ったのだ。
これに一番驚いたのは僕だ。ぎくしゃくする関係が続くことを覚悟していたのに、先輩は僕に笑いかけてきた。
嬉しかった。けれど、あの日の話題はそれからずっと、避け続けたまま。
先輩は、何を思い、僕と接するのだろうか。
気がつけば、またひとつ学年を越えていた。
「……じゃあ、僕は委員会に行ってきます。」
「待って。…ねえ、明日のお休み、金吾くん暇?」
唐突な花岡先輩の質問に不意を付かれた。
「え…?あ、…ひま、です。」
「ちょっと、出掛けるの、付き合ってくれないかな?」
「あ、はい。……じゃあまた、」
「うん。じゃあお昼に、門の前ね。」
それだけ聞いて足を動かす。
普通に、先輩が言うもんだから何事かも理解せずに了承してしまった。そういえば、明日は喜三太のナメクジの散歩に付き合う約束だった気がする。まあ、しょうがない。喜三太には謝って許してもらおう。
それよりも、だ。先輩と今まで二人で出掛けたことなんて一度もない。どうして、花岡先輩は、僕を誘うんですか。僕の気持ち、知ってて、
嬉しく思う僕の心が腹ただしくて、走りながら地面の石を思いきり蹴飛ばした。
その日は考えすぎて眠れずに朝を迎えた。
昼に門の前で先輩を待つ頃には、どうにでもなれと開き直り、楽しみとさえ思っていたが。
花岡先輩は落ち着いた色の着物姿で現れた。手には、色とりどりの花。いつもの笑みで「行きましょう」とだけ呟く、その声は少し固い。
「今日はどちらに行くのですか。」
僕が尋ねると、「ん…ちょっとね。」と言葉を濁される。それ以上聞くのもためらわれて、僕は話題を変える。
「もし良ければなんですが、帰りにナメクジを見つける時間をもらってもいいですか?…その、喜三太にあげたいので。」
約束をした僕が悪かったのだが、喜三太に散歩に行けない旨を伝えると、拗ねはじめたのだ。こんなところは、昔と変わっていないよな、と思った。なんにせよ僕が悪いので、お土産にナメクジを持っていこうと考えたのだ。
「うん。時間はあるから大丈夫だよ。優しいね、金吾くん。…昔から、優しかったよね。ちょっと生意気だったけど。」
「先輩、生意気が余計ですよ。」
「でも今考えたら、あれは照れだったんだよね。一生懸命、大人になろうとしてたんだ。」
「…あんまし馬鹿にしないでくださいよ。」
「ごめん、違うんだ。それなのに、私は子供だったって話。あなたに、弟の影を勝手に重ねていた。」
僕はなにも言えず、花岡先輩もそれ以上なにも言わず。歩き続ける。
「あの山を越えたら、もう着くよ。」
先輩の言葉に顔をあげると、見たことのない場所にまで来ていた。
近づいてみるとそこは小高い丘のようになっていた。向こう側は崖のようで、見晴らしがいい。人の影はなく、ただ細長い石碑だけがぽつぽつと建っていた。
「お墓…」
「そう。」
そう言って先輩は一つの石碑の前で立ち止まる。
「わたしの、弟がここにいるの。」
ずっと、来れなくてごめんね、と呟きながら花岡先輩は持ってきた花を供える。
僕はぼんやりとそれを見つめる。
実感がなかった。
ここに、僕らの関係の中心にいる人物が眠っているのだ。
「金吾くん。」
花岡先輩が振り返る。
「今日は、あなたとここに来たかったの。…あなたに言われた日から…一年経ってしまったけれど。やっと、決心かついて。」
立ち上がって僕と向き合う先輩は、背筋をしゃんと伸ばして目をそらさない。
「あなたに、大人になることを、生意気になることを強いていたなら、本当に申し訳ない。酷い先輩で、ごめんなさい。」
頭を下げた花岡先輩の髪の毛が地面の上でゆらゆら揺れる。こんなときに僕は、きれいな髪の毛だと場違いなことを考えていた。
「……頭を、上げてください。」
ゆっくりと頭をあげた先輩の瞳が、酷く不安そうにこちらをとらえる。
「僕は、花岡先輩に強いられたとかそんなこと、微塵も思っちゃいません。ただ、あなたの前で大人になりたかったのです。」
全部、僕のわがままです。
思ったことをそのまま言ったら、先輩は腑に落ちない、といった顔をしながらやっぱり、金吾くんは優しい、と言った。人に優しくされるのは苦手だ、とも。
「花岡先輩、もっと甘えてください。僕に。…まだ、僕はあなたのかわいい後輩ですか。」
「わたしの大好きな、弟は死んでしまった。」
僕の声を遮るように高い声が通る。
「ここにいるのは、生意気言うけど友達思いで、優しい皆本金吾だね。きちんと会うのが遅くなってごめん。…私は…一年前からあなたを殿方として、頼ってるつもりです。」
どこか遠くで鐘の音が聞こえる。
その音が、虫の声が雑音がみんなみんなばかみたいに心地よく僕の耳に届いてくる気がした。潤む視界はそのメロディに感動したからか。
男がこんなことで泣いてたまるかとありがとうございますとだけ言い、ごまかすように弟さんのお墓に手を合わせる。大丈夫か今の声は泣きが混じってなかったか。
そんなことを考えて手を合わせるなんて弟さんに申し訳ないが、生意気だって話だから今頃こんな俺をバカにしてるんだろう。
そう思うとなんだか目の前の石に親近感がわいた。
なあ、こんなにこんなに好きなんだ。僕が姉ちゃんの隣にいたっていいだろ?
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