小説 | ナノ

いつも前の決まった席に座る通学バスだけど、今日は後ろから二個目の席に腰掛けてみた。特にこれといって意味は無い。席を変えたところで、相変わらず空気はいつも通りだし。当然ながら、こんなことしたってたいした変化なんて起きない。ここ最近は慣れからくる気だるい時間が多くなったような気がする。心地いいんだけど。なんかなあ。頬杖をつきながら、カバンを漁る。とりあえず今日の単語テストの範囲確認しとくか。

「浦風くん、浦風くん、」

まるで、けだるさから引っ張りあげられたような感じがした。教科書を開く手を止めて呼ばれた声の方に振り向くと、同じクラスの花岡さんがいた。

「ああ花岡さんか。おはよ。」
「おはよ〜」

ニコッと笑う花岡さんの笑顔はいつも教室で見るものと同じだけど、いつもの景色には当てはまらないものだった。あれ、一緒のバスだったっけ。
突如現れた予想外に少しソワソワしてしまい、逃げるように僕は一度前を向いた。でも、結局気になってもう一度後ろを振り返った。

「あのさ…花岡さんってこのバス乗ってたっけ?」
「っええ?酷いなあー毎日乗ってるよ。ほらさっきのバス停で止まったとき、乗ってきたでしょ。」
「見てなかったよ。」
「えー?もしかして今まで一度も?」

不信な顔を向けられながら僕は苦笑いで下を向いた。申し訳ないがその通り、を表す自嘲的な笑みに彼女はあきれているだろうか。まあ普通に考えてあきれているだろう。一方で僕はというと素直に驚いていた。だって僕はこのバスに一年間は乗り続けていて、今日も席を変えた以外には何も変わったことなんてなかったんだから。その普通が一瞬にして花岡さんに吹き飛ばされたのだ。

「あ…いつも前の方に座ってて後ろ気にしないから気づかなかったかな。」
「わたしも今まで声はかけなかったけどさあ。ひどいなあ。まあ浦風くんだから仕方ないとは思うけど。」

花岡さんは僕に二回も酷いと言って、笑っていた。ひどいの言葉と笑顔とのどっちが本心なのかはちょっとハッキリしない。たぶん笑っている方だとは思うけど。でも怒ってはいないようでほっとした。なんせ女の子の気持ちを汲み取る自信は持っていないのだ。それにしても浦風くんだからとはどういうことだろう。深くは聞かないけど。

「浦風くんさあ、いつも前にいるのに今日は後ろに座ってたから驚いたんだよ。だから声かけてみた。」
「それは、どうもありがとう。」
「なんで、ありがとう?」
「うーん日常に新しい変化があったから、かな。」
「?ふーん。へんなの。」

ありがとう、なんて言葉がするりと出てくる辺り、変わらない空気には退屈していたらしい。慣れないことはストレスの元だけど、なくなると欲しくなるんだ。変なもんだよな。
花岡さんは単語テストのことをすっかり忘れていたらしく、僕の手元を見て固まって、オロオロしだした。表情がよく変わる。至近距離で見るとそれが、なんていうか可愛いと思った。「何笑ってんの。」と怒られたので伝えなかったけど。そんな風に話を続けていたら、気付けばもう僕たちが降りるバス停まであと3つになっていた。僕が花岡さんといられるこの空気が終わるまであと少し。名残惜しい。素直に思って、そんな自分にちょっと驚いた。

「そういえば浦風くん、どうして今日はここに座っていたの?」
「さあー、花岡さんに会えると思ったのかなあ。」

なにそれぇ、と花岡さんがまた笑った。どうやら彼女は嬉しそうである。女の子の気持ちを今度はきちんと扱えたことに僕は満足する。けれど続いて、「それ口説き文句?」と心底おかしそうに笑う花岡さんを見て、はじめて選んだ言葉の恥ずかしさに気がついた。

「い、いや、そそういう変な意味じゃなくて、えっと、そのままの意味っていうか。」

まただ。また予想外のことが起きて全身が羞恥に包まれる。慌ててもう一度言葉を反芻してみれば確かに安っぽい言葉に聞こえないでもない。いや間違いなく聞こえる。いやでもそもそも口説くの定義って異性に言い寄ることに限定されないんじゃないか…まあ花子さんは異性だから、もう少し話していたいって意味でなら間違ってもない気がしないでもないのは、気のせいな気もするしそうでもない気がするし。

「わかってるよ。浦風くんだもんね。」

僕のぐずぐずとした葛藤は彼女の驕りと決めつけで一蹴される。なんだかなあ。いや多分、花岡さんわかってないよ。僕は花岡さんが思うよりもう少し、おそらく人間くさくてどうしようもなく普遍なんだ。今僕もそれを実感したわけだけど。

「わたしはね、浦風くんのそういうところ、無頓着なところ、好きなんだよねぇ。」

好き、女の子からその言葉を聞いたのは初めてだった。けれどそれは、僕の想像よりもずっとほの暗い響きで。言葉通り受け取ってしまうことなどできそうもなかった。まず僕は花岡さんの幻想にいる僕を今しがた否定したばかりだ。かわいい仕打ちだなあ、と苦笑いが漏れてしまう。

「それ、あんまり嬉しくない言い方だなあ。」
「でも本当だよ。」
「そんなことを言うのは花岡さんだけだよ。」
「あは、そうかも。でもわたしは保証してあげるよ。」

…それはなんの保証だろう。そう思った所で彼女は、僕の方に身を乗り出してバスのベルを鳴らした。近づいた身体とやわらかい匂いに少しだけ動揺したけれど、ベルの外れた音が僕をいつもの空気へ帰す。

はあ。無頓着人間の保証までされてしまったから、もうこれは…そう見えることを誇るしかないかもしれない。まあ確かに他人よりは色々なものに目をつぶることができるような気もする。花岡さんが言ってるのはきっとそういうところなんだろう。

ぼんやりしながら彼女と共に目的地に降り立つ。と、彼女はその場に立ち止まった。疑問に思って何気なくかけた声と肩にかけようとした手が、軽い音とともにはじかれた。

「あ…ご、ごめん。」
「う、うん、こっちこそ。」

先程とは打って変わって、明らかに拒絶を示して振り払われた手は彼女に似合わず冷たかった。花岡さんはまっすぐこっちを見ていたけれど、それはすぐそらされてしまいそうな程揺れている。突然の変化に混乱した僕は、どきどきしながら恐る恐る口を開いた。

「えっと、花岡さんは…学校、いかないの?」
「…行くよ。でもひとりで行きたいの。」
「うーんと…僕、何かしたかな。」
「ううん。違うの。浦風くんは本当にまっすぐであけすけなくて、いい人だね。」

ひえびえとした朝の空気が漂っている。いつもよりもきりりと冷たくて透明な空気は花岡さんをより鮮やかに見せていた。

「でもね浦風くん、わたしは怖がりでね、それだけを通せるほど強くないんだ。こっちから馴れ馴れしくしたくせに、勝手でごめんね。」

バスで笑っていた花岡さんが、さみしさを凝縮させたように儚く微笑んで、僕は完全に言う言葉を失ってしまった。

「知ってる?そこらじゅうにね、浦風くんが思っているよりもずっと多く、ないものねだりは溢れてるんだよ。」

花岡さんは横顔でそう言って、困ったような変な顔をして、ひとりで歩き出してしまった。僕の手のなかにある冷たい感触は、体にピリピリとした記憶が刻みついたまま。そこに、穏やかで悲しげでよくわからない女の子の後ろ姿も一緒に貼りつく。…ほらやっぱり女の子の気持ちはよくわからない。言ってしまえば僕は周りのことなんてだいたいわかっていないんだ。僕のこういう情けないところが花岡さんは好きだと言う。……言わせてもらえば酷いのは花岡さんのほうじゃないか。ほんと、勝手だよ。


けれど、きっとこの瞬間のために僕は今日バスの席を変えたんだ。

一歩踏み出したら早かった。僕は早歩きで彼女と距離を縮めて、ドキドキしながら何食わぬ顔で花岡さんに並んでみた。その行動は予想もしていなかったのだろう。隣から息を呑む空気が伝わってきた。
花岡さん、僕は意外と頓着する人間みたいだよ。これは僕も今知ったんだけど。することなにもかもに的確な理由なんてないし正直自信もないから、僕の諸々の行動に関して色々問われても答えられる自信はない。でもそんなのみんな後からいくらでも付け足してることだと思う。

「花岡さんあのね、実は僕も無い物ねだりは学んだばかりなんだよ。知らなかったんだ、こんなに近くにもあるなんて。まだまだ僕も学習が足りないね。」

こちらを向かない顔の下で彼女はどんな顔をしているだろう。どんな思いを持って僕の話を聞いているだろう。どうしたら、僕はそれを知れるんだろう。

「あと僕は意外と普通で、興味のあることには執着するみたいだし予習ならお手の物だよ。」

そっと掴んだ肩を振り払おうとした手は、弱々しかった。その手をそうっと下ろす。花岡さんはかすれた笑い声で「浦風くんが何を言っているか、全然わからない。」とつぶやいた。そのうすい桃色の唇から出る言葉を、僕は吸収するみたいにじっと見つめた。
まばらな制服姿の人が通り過ぎていく。「一緒に行こ。」そう言ってまっすぐ花岡さんの目を見た。きれいな瞳が揺れながら、少しだけ髪の毛で隠れた。

花岡さんのいる空気は、きっと透明で、ゆっくり漂って乾いた箇所を潤しているんだ。僕はそこにひっそり住みついて息をして満足のうちに眠りにつきたい。そしたら今度は花岡さんを包みこむ傘になったらいいかな。そうやって花岡さんの片隅に居られたら僕は、何もわからない僕のことを好きになれるような気がするよ。

運命の人

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