小説 | ナノ

僕が思うに、世間とは、本当に狭いものである。

4時ぴったりだった。それまでの僕は挙動不審のかたまりだったから酷く滑稽だっただろう。藤内は気が付いていなかったと思うけど。
その時間が来た瞬間、軽やかなベルの音が一層軽やかに響いた。僕は身を乗り出してホールに顔を出し、彼女の見慣れた水色のアンサンブルを確認した。
こちらを見つける花子ちゃんを頭に描いて手をあげる花子ちゃんの笑顔を想像した。近づいて鮮明になった彼女の表情は、しかし一向に僕をとらえてこない。


「いらっしゃいませ」


また聞き慣れた藤内の声がした。彼女は目を開いてその藤内を見つめていた。驚くほど、まっすぐに。そうしてたまらないというように目線を下げ、逃げるように店内に足を踏み入れてくる。茫然とした僕の前まできた彼女が、ようやく気が付いたようにこちらを見た。その笑顔は、僕のだいすきな笑顔なのに、僕の想像とは少しだけ違って見えた。

「数馬くん」
「いらっしゃい」

僕はというと咄嗟のことでまだ何が起こっているのかよく理解できていなかった。挨拶から花子ちゃんへの言葉が繋がらない僕を置き去りに、マニュアル通りに淡々と藤内が喋り出す。お荷物はよろしければカゴをお使いください。本日おすすめしているメニューです。藤内の声だけは、いつも通り過ぎるくらいにいつも通りだ。

彼女がやってくるまでは、彼女の頼むメニューを想像してどんなサービスをしてあげようかとあれこれ思案していた。ホイップクリームを多めにするか、チョコソースを多めにするか。僕からのアイスクリームサービスをつけるか。甘党の彼女の笑顔を見るための小さなプレゼント。でも結局僕はそれを送ることはできないまま彼女の帰りを見送ることになった。帰り際に笑った彼女がいつも通りの笑顔をしていて、余計に悲しくなった。「明日は数馬くんのいるカフェに行くね。」そうはにかんだ昨日の笑顔と同じはずなのに。どうしたんだ僕は。何を、あんなことくらいで。こんなに無様に動揺して。花子ちゃんの恋人は僕なのに。ちゃんと知ってるのに。僕は。

洗い物をしていてカップをふたつ割った。僕が丁寧に水滴をふき直したあのカップ。ひとつは取っ手がとれて、ひとつはフチが欠けた。いつもの不運、と笑って言えればよかったんだけれど。
藤内は終始ずっと縦結びを揺らしていた。それがやけに目についた。




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