小説 | ナノ

僕が思うに、真面目な人間とは、
なににつけても、紙一重だ。

「数馬」
「ん?」
「まだ水滴ついてるよ、このカップ」

つき出されたカップは先ほど僕が拭いて棚に戻したものだった。よくみると僅かに水滴が残っている。無意識に苦笑いが出たけど、藤内は真顔のままだった。

「拭き直しとくよ」

そう言えば、藤内は満足そうに頷いてテーブルを拭き始めた。きれいに木目に沿ってダスターを動かしているところはさすがというか。感嘆と呆れが混じった息を吐き出して、カップに向き直る。今はちょうど客が途切れたところだし拭き直す時間はたっぷりある。丁寧にカップの取っ手まで磨き上げるように拭きながら時計を見たら、まだ3時、過ぎたとこ。4時まではまだまだ。
カフェのバイトをしているって言えばすごくおしゃれな雰囲気醸し出してて、実際そう言われるけど、結局おしゃれでもなんでも仕事であることにかわりはない。比較する対象も僕にはないし、そもそも僕が働き始めた理由はここが一番アパートから近い店だったからで、好きでカフェで働き始めたわけじゃない。ただここが気に入ってるかと聞かれれば気に入っていると言える。時間がゆっくり流れているところが、特にいい。不運を発揮したときでも慌てず対処できるのだ。それに、彼女が、嬉しそうに「カフェでバイトっていいなあ」って笑ってくれた。だからここを選べたことは、ついていない人生の数少ない幸運のひとつなんだろう。幸せは現状ではうまく計れないけれども。

「いらっしゃいませ」

ベルの音と、藤内の声がした。空想を閉じて背筋を伸ばす。残りのカップをあわてて拭き終わったところで藤内が顔を出す。「カプチーノ、アイスコーヒーオールワンで」まっすぐ黒目が向けられた。その表情にはいつも緊張感を持たされる。軽く返事をして牛乳をピッチャーに注ぎつつ、去っていく背中を見送った。黒いエプロンの不恰好な蝶々結びが、その腰元で縦に揺れている。そんな藤内の真面目さが僕は好きだった。




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