小説 | ナノ

泥だらけで長屋に戻ると滝夜叉丸に渋い顔で「顔を洗ってこい。」と睨まれた。大人しく頷いて踵を返そうとすると今度は「なんだえらく今日は素直じゃないか喜八郎。」と驚いたような顔をされる。滝夜叉丸の僕への好意が見えた気がして、勝ち誇ったようににやりと笑っておいた。ひとり闇のなかに降りて井戸をめざす。ふと、暗闇から気配がした。

「誰かいるの。」
「…あやべさん?」
「…おやまあ。花岡さんでしたか。」

高い声は聞き覚えのあるものだった。がさがさと音を立てながら近づいてきたのは、案の定最近タカ丸さんの隣を歩いている花岡花子というくのたまであった。彼女は僕を見て、滝夜叉丸のように渋い顔をした。

「綾部さんどろだらけです。」
「いつものことです。」
「実のところ私も人のことは言えないんですが。」

そう言ってほら、と差し出してきた小さな掌は暗闇でもわかるほど汚れている。

「何をやってたんです。」
「落ち葉集めです。」
「おや芋でも焼く気ですか?」
「ええ。タカ丸さんが焼き芋をたべたいそうで。」
「なかよしでご苦労さまです。」
「ええ、ええ。ほんとうに綾部さんのご友人にはご苦労かけられています。突然焼き芋が食べたいって言うから、仕方なく明日焼いた芋を買いに行きましょうって提案してあげたのに、買ったのは嫌だ、落ち葉を使って焼け。焼き立てが食べたい。ですからね。落ち葉はきっと明日になれば小松田さんに片付けられてしまいますから、こんなに夜が更けてから手を泥だらけにして今日のうちに集めたんですよ。ほらこの量見てください。私健気でしょう綾部さん。」

卑屈めいた声に似合わずその声は明るい。僕はじっと彼女の顔を見た。少し暗さに慣れて見えてきた彼女の笑顔が、僕はすごくいいと思った。自分で健気と言うところは置いておいて。

「あなたは」

するんと口を飛び出した言葉に、先はまだなくて。僕は癖で首をかしげる。彼女は「はあ」と気のない返事を返してじっとこちらを見つめ返してきた。

「やさしい?」
「…と言われましても自分ではわかりません。」
「いや優しくはないですね。どっちかというと、うーん、」
「はあ…」
「そう、懲りないかんじです。あなた、懲りないですねえ。」
「こりない、ですか。」


ふふと小さく彼女が笑みをこぼす。こりない、と目の前の小さな口が動くのを僕はじっと見ていた。その様子は少なくともいやではなさそうで、安心した。
僕はきっと彼女を励ましたかったのだ。励まして、励ましてできることなら調子づかせたかった。仕方がないなあと重い腰をあげつづけて、その困った笑顔でいてほしかった。

「うまい表現ですね。」
「そうでしょう。」
「でもバカにされてる気がします。」
「あらら。」
「女の子はやさしいって言うと喜ぶんですよ。知ってるでしょうそのくらい。」

もちろんそのくらいなら僕でもわからないでもないけれど。僕が言ったところで本当に花子さんは喜びを表現してくれるのかは甚だ疑問である。「思っていないでしょう。」と言う彼女が目に浮かぶ。

「自称やさしい花岡さん。」
「悪意を感じますね。」
「せっかくなのでご一緒しませんか。」

井戸を指させば「はあ。」とやる気の感じさせない声を出す。まったく失礼な受け答えだ。僕は花岡さんに好意しかもっていないのに。




井戸から水をくみ上げて、彼女に差し出せば少し驚いたようだった。綾部さんって意外と人間ですよね、と意味の解らないことを言い、つけたしたようにお礼をくれた。汚れた腕を撫でるようにして泥を落としている姿をぼんやり凝視する。その体は縮こまるとさらに小さく見え、丸めこめばすぐにつぶれそうなほどちっぽけに見えた。大丈夫なのだろうかこんなにちっぽけで。いつか簡単につぶれてしまわないだろうか。

「懲りたら、だめかなーって…」

ばしゃんばしゃんと水の音がする。水の弾ける音は寒さを連れてくる。彼女は休むことなく手を動かしていて、会話の隙間を埋めるのに必死なようにも見えた。
そのだめに付く主語は果たして何を指すのだろう。彼女だろうか。それとも彼だろうか。貧相な語彙だが濁し方は嫌いじゃなかった。その濁しが果たしてわざとなのかそうじゃないのか。それはおそらく考えるだけ無駄なのである。

「それなら懲りない花岡さんを僕は応援することにします。」
「具体的には何をしていただけるんですか。」
「僕の立ち位置は何も変わりません。」
「予想通りの塩対応をどうも。」

さて、と彼女は立ち上がる。僕も立ち上がる。彼女のあとについていくと渋い顔をして振り返った。

「なんですか?」
「明るいところまで送ろうと思っただけです。」
「え、ありがとうございます。」
「一応堀った穴の責任はとらないと。」

そう言えば何が気に障ったのか、彼女は少しこちらを睨んだ。僕は首をかしげる。

「綾部さんって私のこと嫌いですよねえ。」

最後にそう言い残して彼女はおおきな落ち葉を抱えてよたよた走って長屋に戻っていった。僕はますます首を横に傾ける。なぜなのか、きっと理解はほど遠いのだ。唐突に滝夜叉丸の顔が浮かんで、僕はしずかに舌をうった。




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