小説 | ナノ

そういえば三郎次さんが帰ってきたらしいよ。伊助の声のトーンは真夜中にふさわしくとても落ちついていた。全然眠れなくて、仕方なしにやってきた家から歩いて五分のコンビニエンスストア、午前二時。こんな時間に幼馴染に会うことからも、この町の娯楽の少なさがうかがえる。

「三郎次さんって、あの三郎次さん?」
「そ。おにーちゃん。」
「へー」

"おにいちゃん"。その響きで胸に懐かしさがにじんでくる。伊助とずっと追いかけていた背中が記憶の海にふわりと浮き上がった。

「三郎次さんか…会ってみよーかなあ。」
「あれ、会うの?一時期あんなに嫌ってたのに。」
「それはむかしのはなし。もう気にする歳じゃないよ。」
「それもそうか。僕らも、歳くったしね。」

紙パックジュースを覗き込みながら、しみじみと伊助が言うから、なんだか余計に頭が冴えてきた。「年寄りくさいよ。」そう笑いながら、そっと記憶を探る。
確かに一年をいくつも重ねて、よごれてきたな、と思う。

「何か買う?」

伊助がカフェオレをかごにいれながらこちらに尋ねてきた。一緒にして、と温かいコーヒーをそのかごに放り込んで、レジへと向かう伊助のあとをふらふらとついていく。
伊助が会計をする後ろ姿をじっと見ていたらそれだけでなぜか切なくなった。茶色っぽい髪の毛は、私にとって見慣れなすぎる光景だった。ほぼ反射的に目をそらした。

「…あれ、吸うの。」

そらした目線をタバコに向けていたら、会計を終えたらしい伊助がすぐ横にやって来た。ちらりと伊助を一瞥して、暗闇の空間に戻るべく足を踏み出す。

「うん。」
「ふうん。」
「コーヒー、百円でいい?」
「いらないよ。彼氏にフラれた花子に慰めもの。」

ガラスの自動ドアの向こうからびゅうっと冷気がふきつけて、頬を掠めて通りすぎる。
ほら、と投げられたコーヒーは腹がたつほど温かかった。

「…フラれてないよ。」
「悪いね、おばさんに聞いたよ。」

からだが急速に冷やされて、胸まで凍えそうだった。コーヒーで指先を温めて、伝える言い訳に頭を巡らせながら初冬のみちを歩く。会話の代わりに風の音が通り過ぎていく。何も喋らない伊助に意味もなく苛立って、ただ薄暗い足元だけを見つめて歩いた。歩いて歩いて、視界に映る伊助の足が止まったところで顔をあげれば、いつの間にか自分の家の前に着いていた。

「意固地になるなよ、もう。嘘ばっかりなんだから。」

黒ぶちの眼鏡の向こうに隠れた優しさが目にしみて、鼻の奥がツンとする。けど。
歳はくって、よごれてきたけど。

ものわかりのいい私には、まだなれていない。




三郎次さんの家は、私と伊助の家のちょうど真ん中くらいの距離にある。
ここに越してきたばかりのころ、同年代の女の子が周りにいなかった私の遊び相手は専ら伊助と三郎次さんだった。前々から仲が良かった伊助と三郎次さんの関係に私が割り込んだ形だったけど、今思えばふたりともすんなりと女の私を受け入れてくれたように思う。

家の窓から覗ける三郎次さんの家の明かりを見ながら、記憶を手繰り寄せていく。三郎次さんの部屋はどれだったっかもう思い出せないけれど、あの家のどこかには三郎次さんが居る。
昔あんなにわたしの近くにいた三郎次さんが、また時を経て今こんなに近くにいる。それは不思議な感覚だった。


三郎次さんは、小さい頃から男の子を前面に出したような人だった。スポーツが好きで、言葉が乱暴で。私は三郎次さんのきつい物言いに反応してすぐ泣いてしまったけど、次の日にはすぐにケロッとして「おにいちゃん、おにいちゃん」とついてまわっていた。
三郎次さんはそんな私を疎ましく思ってたかもしれない。でも慕われることに悪い気はしていなかったんじゃないだろうか。めんどくさいことをわざわざやるほど、器用な人ではない印象だった。

思い出すとなんだか懐かしかった。
昔の記憶をもっと掘り起こそうとアルバムを引っ張り出してみたけど、わたしの手元には三郎次さんを思い出すものがなにひとつなかった。ずっと付き合いのある伊助でさえ、二人でいるところを無理やり親に撮られただろう写真一枚だけしかない。それも二人してひどい仏頂面だった。
コンビニで見た伊助の横顔からは想像がつかないほど幼くて酷いその顔に笑いそうになったけど、隣にいる私の顔はそんなに今と変わっていなかった。開きかけた口を閉ざしてすぐにアルバムをしまった。



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