小説 | ナノ

三郎次さんの家に行く機会は偶然にもそれからすぐに訪れた。

「これお裾分けに行ってらっしゃい。三郎次くん帰ってきてるんでしょ、あなたよく遊んでもらったんだから。」

母親から持たされた赤黒いほど熟したりんごの山を抱えて、わたしは池田家の表札前にいた。
インターホンを押したのは本当についさっきなのに、それから流れだした沈黙がとてつもなく長く感じる。なんだか急に落ち着かなくなってきた。けれど、緊張する理由なんて何もないよなあと思い直す。もともと会いたいと願っていたのはわたしで。幸運なことにその機会がたまたまやってきただけ。どうか、三郎次さんが変わっていませんように。
そう考えていたらちょうど扉が開いた。息を飲んだ。

「…ハイ。」

怪訝そうにシワを寄せた、三郎次さんがそこにはいた。私の間抜けな顔と抱えたりんごを交互に見てさらに眉をひそめた彼に、わたしは慌てて喋りだす。

「三郎次、さんですか、」
「そうですけど。」
「あの、花岡です。隣の隣の家の。りんごをお裾分けに来ました。これ、どうぞ食べてください。」

三郎次さんは少し間をおいてから、「花子、か?」と尋ねてきた。こくりと頷くと急に顔を緩めて、笑った。どくんと脈が打って、息苦しくなった。

「誰かわかんなかった、お前先に言えよなあ。」

三郎次さんは、それなりに変わっていた。わたしの胸が高鳴るくらいには。

なにこれ、こんなの、聞いてないし、予想もしてない。
興奮して熱を発する自分にひどくむかついて唇を噛んでいると、抱えていた重みが不意になくなった。顔をあげるとりんごを持った三郎次さんが笑っていた。あがれよ、と低い声がした。
その意図を汲み取る前に、三郎次さんは中へと消えてしまう。相変わらず自分勝手なひとだ、私がどういうつもりで来たかなんて知りもしないで。思いながら、懐かしい家にあがる。

「三郎次さん、おばさんは?」
「出てる。どっかのオバさんと飯食ってんんじゃないか。」

出てるって…それなのに勝手に私を部屋にあげていいのだろうか。三郎次さん、わたしたちもう充分歳くってますけど。
そんな風に思ったけど、まあ三郎次さんの気持ちもわからないでもなかった。鼻を垂らして自分についてまわっていたわたしに対して変な気は全く起きないのだろう。だから黙っておいた。胸がそわそわする。

「お前今なにしてんの?」

ベッドに腰掛けた三郎次さんが何気なくわたしに問いかけてきた。三郎次さんの部屋の小さなテーブルの前に座りながら、んー、と唸るように返す。忘れてた懐かしさのかたまりみたいな部屋の匂いが鼻をくすぐって、張っている気がゆるみそうになる。

「ウチから大学通ってる。三郎次さんは?」
「俺は今年からなんとか社会人やってる。お前もいまの楽しいうちに遊んどけよ。」
「…特別今が楽しいとも思わないけど。」
「あとになればよかったって思うんだよ。学生んときは本当に楽しかった。」

言葉通りの学生時代を過ごす三郎次さんを想像するのは簡単だった。
中学生くらいから、三郎次さんはまさに皆の最前線で青春を謳歌していたからだ。だんだんわたしから遠退いて友達とふざけたり、真面目に勉強したり、知らない女の子を連れてあるいたり。そんな風にどんどん遠い世界に行く「おにいちゃん」に、わたしは知らずのうちに距離をとっていった。そうしてわたしのおにいちゃんへの甘えた感情は嫌悪に形を変えたのだ。
伊助の言う通り、わたしはあのときおにいちゃんが嫌いだった。染み付いた汚らしい印象がどうしてもぬぐえなかったのだ。
本当に、幼かった。

「ねえ、三郎次さん、女の子と何人くらい付き合った?」

確かめるように、わたしは突っ込んだ質問を投げかける。三郎次さんは考えるように腕を組み始めた。

「…あーこれまででか?」
「うん。三桁…はないよね二桁?」
「お前、俺のとこ何だと思ってんの。」
「人生経験豊富な…女好き?」
「いや、男としてそれは間違ってねーけど…」

言葉を濁す三郎次さんの言葉に耳を傾けながら、何気なく部屋を見渡してみる。三郎次さんの部屋は見事なまでに変貌を遂げていた。変わらないのはベッドの位置だけ。ゲーム機もキャラクターのグッズも大量の漫画本も見当たらない。なにより記憶よりもごちゃごちゃしていなくて、不自然なくらいすっきり片付いていた。

「でも意外と俺って一途なんだぜ。」

いちず、
その言葉がわたしの頭のなかでいったりきたり。往来する。

なにが、一途だ。


「…三郎次さんは違うでしょ。」
「お前さっきからなんなの?俺の何を知ってるっていうんだよ。俺なあ大学のときは意外と長続きして、「ねー三郎次さん、わたしを愛人にしてよ。」
「…おい、唐突すぎて話の流れが読めないんだけど。」

三郎次さんはそう言って、わたしに呆れたように笑ってみせたけど、わたしがずっと真顔だったせいでそのうちに困惑気味にこちらから目をそらした。わたしから遠いところで大人への階段を脇目もふらずかけ上がっていたおにいちゃんが、今わたしにたじたじ。それがおかしくて笑い飛ばしたくなった。
三郎次さんも、迫る滑稽なわたしも、ぜんぶ。

「お前そんな冗談言うタイプじゃなかったじゃん。」
「だって本気だもん。いいと思うなあわたしたち、家も近いし。今日なんておばさんもいないんでしょ、ほんと良いタイミングだね。それともわたしじゃそそられない?」

隣にさり気なく移動して三郎次さんを見つめてみる。綺麗な輪郭に、整った眉毛、男の人にしては大きめな目。どくどく血を巡らせる、わたしの心臓。
三郎次さんはこちらを見たまま何もしゃべらなかった。もう少し、と距離を縮めた瞬間に、肩を押さえつけられて倒された。背中にシーツの柔らかさを感じる。音をたてるベッドはやけにいやらしく聞こえる。わたしをベッドに押し付けて、三郎次さんがこっちを見ていた。汗が 背中に 滲む。胸が 苦しい。
近づいてくる気配を感じて、ぎゅっと目を瞑った。大丈夫、こわくなんて、ない。



「…なんてな。」

圧迫感が突如なくなって、恐る恐る目を開けるとそこに三郎次さんはいなかった。こちらの方を見ずにさっきとおんなじ場所でベッドに腰掛けている。
わたしの心臓は相変わらず煩いのに。苦しいのに、

「なんで…どうして、やめるの。」

すがるような声が呆れるほど惨めに口から流れていく。振り向いた三郎次さんが悲しそうにわたしを見た。まるで、あいつみたいに。

「何があったのか知らないけどあんまり自暴自棄になるなよ。怖かっただろ、さっき。」
「怖くなんて、ない!一途じゃなくっていいから、おねがい、」
「今日は、帰れ。送ってやるから。」
「…やだ、」
「聞き分けのいい花子ちゃんだっただろ。」
「もう変わったの!わたしは、子どもじゃない!」

ついに涙声になりだした。三郎次さんはちいさくため息をついてわたしの頭を撫でる。それは昔と変わらない優しい手で、一気にわたしの涙腺を砕いた。
そうっと促された三郎次さんの胸に体を預け、ボロボロと落ちていく滴でそこにシミをつけていく。涙はしばらく止まりそうもないから、もう無理にせき止めるのは諦めた。ただ大人ぶって、声はあげないようにだけ頑張った。




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