小説 | ナノ

文字がはっきり読み取れなくてやっと月が出ていないことに気がついた。月のない夜は好きだけど本を読むには向いてないな。
でもなんとか明日の返却期限までに読み終えないと。返却期限を破るなんてしたくないし、それに明日の図書当番は能勢くんなのだ。

「本の返却は返却日までにお願いします。」

能勢くんの低い声を思い出した。わたしが唯一交わす能勢くんとの約束を破るわけにはいかない。体にやわらかな熱が灯る。この小さな幸せを残さず全部食べきってしまいたい。できることなら苦しむ前に。

ためこんだ息が無意識にこぼれ出ていく。本を読むのは諦めることにした。粘ってはみたけど限界みたいだ。明日の授業終わりに返せばいいわけだし、朝読めば問題ないだろう。友人を起こさぬようそろそろと部屋に戻り、蝋燭の火を消す。途端に無音の夜が広がった。
わたしは静かに横たわる夜も好きだ。うっとりと目を閉じた。好きなものに浸かりきるのは心地がいい。

でもすっかり幸せを食べつくしたそのあとに、きっとわたしは後悔するんだろう。月のない夜は好きだけど、二度と月のやってこない夜が来るなんてことは、想像すらしたくない。



次の日、同室の子に揺り動かされて目覚めたわたしは顔面を文字通り蒼白にした。幸せにつかりきりすぎて寝坊をしてしまったらしい。当然本を読む暇など残されていなかったし、焦っているうちに時間は過ぎていき、ようやく手の空いた時にはもう図書室の閉館時間が迫っていた。

(どうしよう、間に合わない、)

流すように文字を目で追って、なんとか読み終わった瞬間に図書室へ向かって走り出した。到着したときには、ちょうど能勢くんが図書室の戸締りをするところだった。頭が真っ白になって茫然と立ち止まっているうちに、能勢くんの丸い目と目があった。

「返却ですか?もう、時間過ぎてますよ。」
「す、みません。」

能勢くんがわたしの本に目を留めて少し考えてからもう一度図書室を開錠しはじめた。その姿をぼんやりと見つめながら、能勢くんの声を反芻する。冷たさと熱が織り交ぜになってぐちゃぐちゃになっていく思考を連れて、わたしは能勢くんのあとに続いて図書室に足を運んだ。
今日の仕事を終えた図書室はいつも以上にしん、とした重みをもっていた。能勢くんが手早くわたしの図書カードに字を書いていく。

「遅れてごめんなさい。なんとか読み終えなきゃと思って、急いで読んで走ってきたんですけど…間に合いませんでしたね。」
「いえ、ぎりぎり大丈夫です。でも本が読み終わらなかったときは借り直したっていいんですよ。」
「あ、そっか、」

借り直す、の選択肢は全く浮かんでいなかった。固まったわたしを見て能勢くんが声を出して笑った。恥ずかしくて、どうしたらいいかさっぱりわからずさらに固まってしまう。小さな熱が膨張して抑制がきかなくなっていく。それ以上を求めれば、きっと壊れてしまうのに。
一連の手続きを終えた能勢くんがカウンターから立ち上がった。あ、もう終わってしまう。そう思った時には口を開いていた。

「能勢くんって、素敵な人ですね。」

幸せを引き止めるようにわたしは言った。能勢くんは驚いていた。もう熱は殻を溢れてしまって、元には戻せない。

「そんなこと初めて言われました。でも俺そんないい奴じゃないですよ。そう見えたのはうーん、きっと本能みたいなもので、」

突拍子もないわたしの発言に、こうやって真面目に答えてくれる能勢くんだから惹かれてしまうんだろう。わたしは能勢くんの言葉の音を、頭に刻みつけていく。

「実はかっこつけてるだけなんです。」

告白して崩してくれた真面目さを、わたしは笑顔を返す余裕もないほど見つめた。

相変わらず静かな図書館のお陰で沈黙は日常としてその場に落とされる。いとも簡単に何も起こっていない時間になり、わたしは消化できない熱をただもてあます。それでも思いきって作ったこのふりつもる沈黙がとても大事に思えた。能勢くんが好きだなと思った。能勢くんの一瞬の沈黙にわたしが存在することで何かが変わらないだろうか。そんな欲張りな願いまで生まれてしまう。でも仕方ない。もう溢れてしまったんだから。

「暴露ついでに、もう一ついいですか。」

能勢くんがいくらか柔らかい口調でわたしに話しかける。その関係性の変化が嬉しくて、わたしは応えるようにやわらかく返事をする。

「はいなんでしょう。」
「実は、いつもきっちり期限を守る花岡さんが今日は本を返しに来ないから、変に気を揉んで心配していました。」

喉の奥がきゅ、と締まった。
能勢くんにとってのそういった存在になれる兆しが、少しだけ見えた気がした。未来が欲しい。苦しさも嬉しさもみんなみんな味わって、わたしは能勢くんとの未来が欲しい。


図書室で能勢くんとお別れをして、歩きながらふと外を覗くともう日が暮れかけていた。今日もわたしの好きな夜がやってくる。静かで月のない夜が好き。でも、今夜は綺麗な良い月が見えるといい。

月を食べる

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