小説 | ナノ

「浦風くん。」

必要以上に緩みそうになる頬を制御しつつ、前方からくる彼に呼びかける。少し手をあげたわたしに対し、浦風くんも少しだけ手をふって、嬉しそうに応えてくれた。

「おはよう花子さん。これから授業?」
「そうなの。今日は実技から。」
「頑張ってね。」
「ありがとう。浦風くんも。」

それだけ交わしてまた手を振る。朝から浦風くんに会えるなんてわたしは幸せだ。まだ昇りきってない陽がいつもより輝きを放っているような気がする。

「朝から惚気にあてられちゃったわね。」
「だらしない顔しちゃって。嬉しいのが丸わかりだよ。」

隣でにやにやと笑う友人の冷やかし言葉に恥ずかしくならないわけじゃない。けれども否定するのも違う気がして、「うん。」と笑ってみせる。すると彼女たちが少し驚いたような顔をした。

「あら、顔真っ赤にして否定してくれないのね。つまらない。」
「花子、ちょっと変わった?やっと自信ついたの?」
「え、そ、そうかな。…そうなのかな。」

言われてみると、確かにそうなのかもしれない。ぐるぐると感情に振り回されてへとへとになっていた頃と比べるとずいぶん落ち着いたなと思う。浦風くんが好きで好きで。それは変わらないのだけれど。安心と余裕が心に落ちてきたような不思議な心持だ。そしてそれはとても心地がいい。

「さては、進展があったな。」
「…!!!べ、べつに!」
「これは今日問い詰める必要があるわね。」

そう言ってにやりと冗談っぽく笑う友人が、「良かったね。」と笑った。奥の奥から押し寄せてくる幸せを感じながら、わたしはおそらく真っ赤な顔で、もう一度うん、と頷いた。



*



いつものように一日が終わった。しかも今日は、浦風くんと会って、お話もできた。うん。良い日。
そう思っていた授業終わりに、例の事件は起きた。バレーボールがまたもやくのたま長屋に飛びこんできて、廊下を突き破ったのだ。冷酷に微笑し拳をにぎる友人たちをなんとかなだめて、わたしは忍たま長屋へと向かっていた。またもや作兵衛くんに修繕のお願いに行かなくては。ここのところはそんな騒ぎもなく穏やかだったのに…作兵衛くんの気苦労はまだまだ絶えないみたいだ。話を聞いて歪む彼の顔がすぐに想像できた。

きょろきょろ辺りを見回しながら歩いていると、見慣れた緑色を発見した。あれは確か、

「神崎くん!」
「ん?ああ、藤内の許嫁!」
「や、やめてその言い方恥ずかしいよ!浦風くんにも迷惑かかっちゃう。わたしのことは花子でいいからさ。」
「そうか、悪いな花子!ところでどうしたんだ、そんな息切らして。」

にこにこと神崎くんが嬉しそうに首をかしげた。本当にまっすぐで、太陽みたいな人だな。そんなことを思いながら口を開く。

「作兵衛くん見なかった?床の修繕のことで話があるの。」
「ああ、作兵衛なら僕も探しているところだ。あいつ、また迷ってるみたいで。」
「え?」
「ん?」
「ううん。なんでも。」
「そうか!」

本当にまっすぐな人なんだとわたしは確信する。作兵衛くん、確かに毎日大変そうだ。

「なあなあ花子、ひとつ聞いてもいいか?」
「うん。なに?」
「なんで許嫁の藤内は「浦風くん」なのに、作兵衛は「作兵衛くん」なんだ?」

さっぱりわからない、というように口を一文字にして腕を組んで、神崎くんは考え込みはじめた。わたしはというと、その単純な、でも確かに大事な、疑問をぶつけられ思考を一瞬停止させていた。
作兵衛くんは「作兵衛でいい」って言ってくれたから、そのまま流れで言っちゃってるだけで。本当にそれだけで。それでいて浦風くんは、浦風くんで…あるわけで、名前でなんて、恥ずかしくて、恐れ多いっていうか、いや恐れとか全然ないけど、なんていうか…ええと…
うまく考えがまとまらずまごついているわたしをキョトンとした目でみつめて、神崎くんはまたにっこり笑った。

「僕は許嫁なら名前で呼んだ方がいいと思うぞ!藤内もそうしたら喜ぶだろうしな!」
「…かんざき、くん。」

「…いた!左門!!!おめえ待ってろっつっただろ!!…あれ、花子?」

そこでゼイゼイと息を切らした作兵衛くんが突然やってきた。ぎろりと神崎くんを睨んで、次に驚いた目でわたしを見て、どういう組み合わせだよ、と頭に疑問符を浮かべた。確かにわたしと神崎くんがふたりで居るなんて、なかなかないことだ。

「ちょうどさっきそこで会ったの。お互い作兵衛くんを探していて。」
「そうだぞ作兵衛、ウロウロしたらわからなくなるだろう。」
「おめえにだけは言われたくねえなそのセリフ。で、花子はなんの用だ?」
「えっと…申し上げにくいんだけど、また修繕のお願いで…」

予想通り作兵衛くんは悲しそうに眉を下げて、見てわかるくらいに落胆しだした。「もうなんだよどうして俺が…くのたまに何されるか…」なんてぶつぶつ言っている。作兵衛くんは考えすぎるところがあるから、こういうところは少し心配だ。

「ま、なんとかなるさ作兵衛!」
「おめえは何も言うな!」

でもまっすぐな友達が、こういう時に居てくれたら心強いんだろうな。

「おい花子、なにニヤニヤ見てるんだよ。」
「ふふふ、仲良いなと思って。」
「そうそう、僕と作兵衛は親友だぞ!」
「わーったわーったよ。ホラ左門、教室に帰るぞ。花子、また後で行くから頼む。」
「うん。お願いします。」
「花子!」

大きな神崎くんの声で突然呼ばれて、びくんと肩が揺れた。神崎くんはそんなわたしを見てにいっと笑っている。

「藤内のところ名前で読んでやるんだぞー!」

大きな神崎くんの声に反応して、周りの皆が神崎くんを振り返る。そして、次に呼びかけられているわたしを見る。わたしの体は急速に熱くなって、恥ずかしくて、作兵衛くんの怒鳴り声が聞こえるのと同時にその場を走って離れた。顔ぜったい赤い。神崎くんは、本当まっすぐすぎる。



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