小説 | ナノ

「空いてますか、」

聞きなれたアナウンス、イヤホンから流れる音楽に混じって人の声がした。ちらっと視線をあげてみると、白いポロシャツに身を包んだ笑顔の男の子が私を見下ろしていて、そこ、と私の隣の席を指さした。

「あ、ハイ。」

目を細めた、いかにも人の良さそうな彼が隣に腰かける。それと同時に聞こえた「ありがとうございます」の言葉がギターサウンドに乗っかって耳に届いた。
珍しいことに今日の電車はほぼ満員らしい。

揺られ続けて怠けた意識は電車の温かい空気と混じりあっていく。密度が低下した空気がふわふわと上空へあがって、切り離された思考がどんどん鈍くなっていくような。今はちょうどそんな感じ。

(心地、いいな)

イヤホンから流れる音楽がまたひとつ終わっていく。耳に一抹の寂しさを覚えて、それをまぎらわすように向かいの景色を見た。傾いた日差しのはじけた空が色付いて、光っていた。不意打ちの美しさに釘付けになる。
たいした珍しい景色じゃないけど、でもこれは―

「きれいですね、」

一瞬、どきりとした。
私の思っていた通りの言葉が隣から聞こえてきたからだ。驚いてそっと横を見てみると、ポロシャツの彼の色素の薄い瞳と目があった。

え、私に?

「窓の外、絵みたいにキラキラしてますね。」

彼がもう一度私に言い直したところで、イヤホンからは二曲目のバラードが流れ出す。
初対面の気まずさも見せずこちらの言葉を待つ彼にどう接していいのかわからなくなって、とりあえずぎこちなく笑って、視線を窓へと流した。そのまま、手元の携帯画面へとうつしていく。

(驚いた、心を読まれたかと思った。)

どくどくと血が流れる音がする。
きっと見ず知らずの人に声をかけさせるほどに私はアホ面で景色に見とれていたのだろうな。当たり前の光景に感動する恥ずかしい姿を人前で晒してしまったことになる。恥ずかしい。
耳元では盛り上がりに差し掛かったバラードにのせて、かすれ声の男の人が愛の言葉を並べ立てている。君が好き、何度も聞いたその愛の告白は軽々しく響いてしまって…ひどく興醒めだ。
小さく息をついて伸びをして、曲を切り替えるべくブレーヤーのボタンに手をかける。体を伸ばしたその拍子、いまだに窓から視線を逸らさず微笑んでいる彼が視界に入り込んだ。目を細めて微笑む姿には感動が溢れている。

そんなはずかしいこと、よくできるなと思う。

「楽しいですか、そと見てて。」

目をぱちくりさせた彼がこちらをゆっくりと見つめだす。その一瞬で、自分の行動をすぐに後悔した。目の前の丸い目はその間にも形を変えていく。まるで私のあからさまな皮肉を吸収するように、彼が微笑んで頷いた。

「楽しいよ。空ってこんなに綺麗に見えるんだって思う。」
「…そういうこと言うのって、恥ずかしくないですか。」
「恥ずかしい?どうして?」

どうしてって。
そんな堂々と疑問符を投げ掛けられれば何も返す言葉はなくなってしまう。イヤホンからは相も変わらず愛の告白が繰り返されているし。なんだか私が異端みたい。
綺麗なものを綺麗と言って、好きなものを好きと言って何が悪いかと言われてしまえば何も反論はできないけど。でも、斜めからものを見てしまいたくなるじゃないか。言ってしまえばこの世界で素直な方が異端なんだから。

「なんか、あきれさせちゃった?」

だからそう言って肩をすくめた彼に、その通りです、なんて素直に言えるわけはなくて。

「…そんなことありません。考え方の相違はよくあることですから。」
「僕ね、あなたと似てる友達がいるからなんとなくわかるんだよ。本当にそっくりなんだ。さっきのあなたのぎこちない笑いとか、眉間のシワとか。」

どうやらぎこちなさも醸し出した不快感も彼にはしっかり伝わってしまっていたらしい。私も少しは目の前の彼を見習っておおらかに素直になるべきなのかもな。でもまあ私には、ムリな話なんだろうけど。

きっとこの彼は呆れちゃうくらい素直で、でもそれがなんとなく似合ってる。ほんの少しだけだけど、それが羨ましい。

「その私と似てる子って、すごく美人の女の子だったりします?」
「ものすごく不運な男の子だけど。」
「うわ…」

私のしかめっ面に対してふふ、と綿毛が舞うように笑う彼が、春が舞い込んだみたいに暖かさをつれてきた気がした。きっと彼の不運な友達も、私が今感じてるみたいに彼が少し羨ましいに違いない。

「あ、やっと笑ってくれた!」
「え?」
「全然笑ってくれないんだもん。あなた、やっぱり笑うとすごくかわいい。」

ふわり、また、春が舞い込む。

「…これナンパですか。」
「ううん、僕の本心。僕あなた、すきだなあ。」
「あの、よく言葉が軽いって言われません?」
「僕、思いはすぐ伝えないといやなんだ。それに景色に見とれる人はだいたいいい人なんだよ。」
「理論がむちゃくちゃですよ。」

音楽は次のアップテンポの曲に切り替わっていく。それを止めて戻るボタンを押せば、さっきと同じゆったりしたメロディ。愛の言葉がまた耳に流れ始める。

「ところで、今日のご予定は?」
「終点駅でひとりブラブラ予定です。」
「そっか、僕もそんな感じ。ねえ仲良くなったところだしもしよかったら、もう少しおとなりいいですか?」

緊張している風でも断られることを想定している風でもない問いかけに、私は「別にいいですよ。」と返す。ガラスの向こうで落ちていく光はやっぱり綺麗で、イヤホンからは気恥ずかしいくらいの愛の言葉が流れてる。
そして彼の隣は、あたたかい。ガタガタ揺れながら、電車は私をゆっくり運んでいく。

もうすこしといわずしばらくおとなり、どうですか。
なんて、言えるはずない。まだ彼みたいになるには程遠いな。

そちらのおとなり

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