小説 | ナノ

たとえばそれは朝をつれてきた光のように、夏に飲んでしまうサイダーの喉ごしみたいに、風鈴のしずかな響きのようにさわやかで、からりと明るくて、でもつめたいのだ。毎年わたしが感じる夏は、姿こそ違ってもいつもそんなところは変わらない。特にこんな蒸し暑い夜は、そんな心地よさが欲しくなる。
ぬるい水をはきだす蛇口を締めて、目の前の大きな鏡をのぞきこんだ。木目調の壁、の手前にアイラインがにじみはじめたわたしが写っていた。なんだか冴えない暗い顔。とても、さっきまでばかみたいに笑って騒いでいたとは思えない。冷静なつめたいわたしの目がわたしを睨んでいる。
今日は会社の飲み会で居酒屋に来ているわけだけど、それだけならこんな気分になったりしない。能勢さんがわたしの斜め前の席に座っているのだ。その事実がわたしの気持ちを浮かせてしまった。
能勢さんは体の中心をぶらさずすらっと背筋をのばして、穏やかに微笑み、時に真面目な顔をして、わたしの呼吸をはっと止めさせる。そしてわたしは止めた呼吸を取り戻そうと、ただしきりにはしゃいでなにかを喋っていた。能勢さんと喋るとき、わたしは自分をそのときだけ手放しているんじゃないかと思っている。

目元をきれいに直してあわてて席へ戻ると、頼んでおいたキムチ炒めがわたしの前に並んでいた。ジュウジュウ泣きわめく鉄板を見て、はしゃぐわたしがまた知らないうちに突然現れる。能勢さんが目を細めて笑ったのがはしっこで見えた。変にどきどきして、また知らないうちにいつもより高い声が出た。

「花岡らしいなあ。」

能勢さんはわたしを見て、おかしそうにいつもそう言う。そこには恐らくすこしの親しみと見くびりが、あたたかさで包まれて存在している。妙な安心感を得てわたしはまた馬鹿な振りをしてふふふと笑った。

わたしと一番歳が近くて(二個上だ)、入った当初わたしの教育係だった能勢さんは、はじめて会ったときから淡い空気をまとい周囲にじんわり関わるような人だった。「よくできたな」の穏やかな声も、厳しく怒鳴られた時のつめたい空気も、歩き回る軽やかな身のこなしも、まるで喜怒哀楽の表情ひとつひとつすべてがそういう風にできているみたいに。
そしてわたしは関わるうちに、運命の人が存在するのならばそれはこの人なのだろう、そう根拠もないのに確信していた。今もそれは、変わらない。
わたしはわたしごしに、能勢さんのすべてを観察する。ぴん、と張っている白いストライプシャツ、みじかく切り揃った髪の毛、細い指先と、そこにピカリと光る指輪を。すべて当たり前のように能勢さんにおさまっているそれらを。

「一緒に駅まで行くか。」

飲み屋で散り散りになっていくなか、能勢さんは当たり前のようにわたしに近づいてそう言った。はい。わたしははしゃいで返事をして能勢さんの横に並ぶ。能勢さんの家の最寄り駅はわたしのひとつ隣で、見かければ同じ電車で帰ることは入社時からの日常で。そのことがこの上なく嬉しかった。それを残酷だなんて、ぜんぜん思わなかった。

「久しぶりだな、一緒に帰るのは。」
「最近は失敗してませんからね。」
「ああ、ミス発見してよく青白い顔で俺に泣きついてきたもんなあ。ふたりで必死こいて終わらせて、終電に飛び乗る、とか懐かしいよな。」
「いやあ…本当にありがとうございました。」
「そんな花岡ももうすっかり一人前だ。」

独特の低い声も、大好きだ。

「思えばわたしも成長しましたね。」
「してくれなきゃ教育してた俺が困る。ああそうだ、明日までに修正したやつまた出しとけよ。」
「あ…そうだった…」
「おいおい言ってるそばから大丈夫かよ…ったくお前は。…らしいっちゃらしいけど。」

あきれたように笑う姿、大好きだ。

何年後かにもあいかわらずだなあって笑って、また今と同じ目でわたしを見てほしいと思う。何十年後に変わらないなあって笑って、変わらない能勢さんのたたずまいを見せてほしいと思う。

わたしの望む運命は、それで充分だ。
届かない星に向かって手を降るのはなんとなくつめたいけれど、カラリと明るい気持ちで、それでいてさわやかなのだ。

「おやすみなさい。」を電車に残して、わたしは笑顔で能勢さんを見送る。暑い風が頬を撫でる。今年もまたいつもの夏がやってくる。

夏心地

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