小説 | ナノ

爪先がじんじんと刺激されて、まとわりついてくる温かさ。しびれた体をその温もりにすべてゆだねてぼうっと視線を上げた。湯気のなかで、喋り声に重なる水の音が踊る。

「あー、極楽極楽。やっぱ、風呂はいーな。」

ちらり、声の方を見た。壁に背中を預け、目を閉じたまま作兵衛が息を漏らしている。そうか、僕が今感じているのは、快感なんだな。夢心地のなか、今度は目線を水面に落とす。黒い影がゆれる。ゆれているのは、僕の顔。

「左門?ぼーっとしてどうした?」

裸の三之助が仁王立ちで僕を見下ろしている。

どうした?僕は、どうかしてるだろうか。ただ、風呂のなかにいると花子を前にした時みたいにぼんやりするから、それが心地よくって身をまかせてるだけ。つまさきから顔まで、ぐっと火照りあがって、くらくらするような感覚。
僕は熱さでまわらない頭で、返すことばを探した。

「…あついんだ。」
「それ俺も思った。ったく、今日の風呂焚き当番誰だよ。薪のくべすぎじゃねえか?」
「だよな、俺は熱くて入れねーや。おい左門、ぼーっとして、のぼせんなよ。汗すごいぜ。」

顔を赤くした作兵衛と足だけ湯槽に垂らした三之助が僕を見つめている。まぶたが、重い。

「なあなあ、好きな子っている?」

ぼんやりしたままの僕の言葉を受けて、まず作兵衛の目がかっと開いた。

「す、好きな子って、その、あれか?」
「おーいるいる。俺は年中いるぞ。」
「おめえな…」

頭のてっぺんからじわりじわりと汗がわいてくる気がする。僕から、水分がとられていく。それは、まるで快感の代償のようだ。

「好きになったら、どうしたらいいんだろう。」

僕がこぼすと、作兵衛と三之助が顔を見合わせた。

「いいか左門、好きって感情は本能だ。つまり、奪い取ったもん勝ちで、」
「おめえは喋るんじゃねえ。えっとな、その、誰かを好きになると胸が痛くて、何も手につかなくなって、とにかく苦しい。でも傍にいたいから、やっぱり…その相手にいい印象を持ってもらえるように頑張るしかねえよな。とにかく動かなきゃ始まらねえし…」
「うわ作兵衛必死だな。」
「だ、黙ってろ!」

作兵衛と三之助の言い合いが僕の頭の上ではじける。
そうだろうか、僕は、胸が痛いとか、とにかく苦しいだなんて、ちっとも思わない。今、この瞬間みたいに体がぐらぐらに熱くなって、ぼんやりとした快感で満ちていく、この感じがそっくりだ。僕は花子を好きなはずだ、けど…

「まっとにかく左門のやりたいようにやればいんじゃねーか。」
「おめー投げんな!」
「投げてない、これは俺の信条だ。」

汗が僕の鼻筋をなぞっていく。
この快感が代償として僕から水分を奪っていくのだとしたら、花子は僕に快感を与える代わりに何を奪っているのだろう。僕には見当もつかない。僕は花子にあたたかい快感をもらっているけれど、その代わりになるものなんて何も渡せちゃいないんだ。それはよくわからないけれど、なんだか納得がいかないことだ。僕にできることなら、何か、花子にしてあげたい、
…くらくらする。

「僕は、出る、」

湯船から立ち上がると視界が歪んで白みはじめた。そのまま僕の世界は反転、

「っおい、左門!!」

作兵衛と三之助の慌てた声がぼんやり聞こえた。倒れる、意識が飛ぶ、そう思ったけど不思議なことに僕は落ちついてそれを受け入れた。

僕は、僕の持つものなら、花子になんだってあげられる気がするんだ。






*




目を覚ました僕の視界に飛び込んできたのは花子の歪んだ顔だった。

「なに、やってんの!風呂でのぼせて倒れるなんて、馬鹿じゃないの。あんたは自己管理もできないの、」
「花子、」
「…しんぱいした。ばか左門。」
「すまん。」

悪いと思いながらも、口を尖らせて俯く花子を見てまたじわじわと熱が僕の身体を包んでいくのを感じた。あたたかくて、いや、熱くて、何かがわき上がってくる感じ。

「花子、」

花子は尖らせた口を解いて、はっとした表情で僕を見上げる。いつもの保健室が夕映えみたいにまっすぐ僕の目に届く。
僕はなんだかとても、幸せだ。

「何か欲しいものがあったら教えてくれ。僕が用意できるものならなんでもあげるぞ!」

花子はぱちくりと大きな目を閉じたり開いたりして、僕をじいっと見た。かと思うと今度は猫のように目をほそめ、白い歯を紅の下に覗かせて笑う。僕の身体はまた快感で満ちていく。

「なんで?」
「僕が花子にしてあげたいんだ。」
「いらないよ。」
「どうして!?」
「わたしは、いつでも左門からのもらいもので溢れているから。 」

心配もふくめて。と花子は笑う。むずむず、全身が痒い。

「僕が花子にもらってばっかりなんだ!」
「じゃあおあいこだね。」
「それじゃあ納得がいかない、」

子どもみたいにごねてみれば、「じゃあ、…今すぐ抱き締めて。」そう花子は言った。だめだ、体がまた、ぐらぐらと、あつい。
なあ僕からなにかを奪ってくれ。

「それは…僕がしたいことだ。」
「好き。」

意味がわからずぽかんと固まった僕に、やだ、知らなかったの?と花子はおかしそうに笑っている。花子は、僕と同じ気持ちなのか?花子も、全身が熱さでしびれてるっていうのか?僕の、存在で?

「花子!」
「きゃ、」

ぎゅう、と腕のなかに閉じこめた花子を抱きしめる。甘い香りが鼻をくすぐってまた、くらり。ぐらぐら。

「僕を、花子にあげる。」
「じゃあ私を、左門にあげるね。」

花子は全身が熱で包まれているみたいに頬を赤くして僕を見る。きっと僕の顔も赤い。だって今、こんなに体が熱いんだから。
ぜんぶあげる。きみの幸福のかわりに、僕の幸福を。

しあわせの代償

←TOP

×