小説 | ナノ

まるであの頃みたいに。現実離れした、おとぎ話のように。世界がきらめく気がしていた。


「その大きいかばん、何入ってるの?」
「ノートと、教材」
「へえ、勉強してるんだ。」
「語学関連でちょっとね。」

仕事で使うんだ。

そう言って目を伏せた藤内の前髪がさらりと落ちた。真昼間の駅前。塗装が褪せ錆の浮いた水色のベンチに、彼の細くて白い指が浮いている。電車の音は騒がしく流れているけど人通りは少なくて、どこか現実感がないここ。二人の間をつなぐ褪せた水色の距離はおよそ50センチ。その距離だけは妙にリアルだ。

「…藤内は、変わらず真面目だね。」

迷って、でも昔のように名前を呼んでみた。言ってみると自分で口にした名前の響きが懐かしくてじわりと現実感が湧く。私は今、藤内と再会しているんだ。

「そう思う?」
「うん。」
「そうでもないよ。」
「ええ?まじめだと思うよ。休みの日に勉強するなんてさ。」
「いや、そういうことじゃないんだ、僕が言ったのは―」

そのときブウ、と抱いていた自分のカバンが震えた。布越しの硬い振動が手のひらをつたう。
ああ連絡、するの忘れてた。きっとこれは…彼からだ。よりによって、よりによって藤内と会っている時にかけてくるなんて。行動を読まれてるんじゃないかと勘繰ってしまう。
マナーモードにしておいてよかった、そう思いながら私は口を開く。

「言ったのは?」
「電話?」
「…あ、」
「出なよ。」
「これ?…メールだよ、大丈夫。、ねえ今も小説書いてるの?」

振動音が藤内にも聞こえていたことに動揺していた。咄嗟についた嘘を隠すみたいにつないだ疑問は、突拍子すぎただろうか。
一瞬よぎったその不安は、藤内が何も気にしていないようにちょっと笑ったことで薄らいだ。

「そういえば、ここのところずっと書いていない。」
「…そっか、忙しいものね。」
「うーん。」
「好きだったけどな、藤内のお話。」
「ありがと、今は…そうだな、写真撮ったり。」
「へえ、凄い。」
「まだまだ全然、だけどね。好きな子の影響で始めたから。」
「そうなんだ、なんだか、不純な動機だなあー…」


沈黙を作らないようにすることに、ただ必死だった。

口をマフラーに埋めて、体が徐々に固くなっていくのをやりすごす。波打つ心臓の音が全身に響いている気がした。

「意外でしょ。」
「うん。」
「ほらね、そういうこと。」
「…え、うん。」

藤内がわらって話を終わらせたから、もうなにも追及できなかった。陰った光がはこぶ冷たい空気が、タイツの下に隠れた肌を掠り抜ける。どうして、こんなにわたしは頭がまわっていないんだろう。ずいぶん前に終わったことなのに。

わたしは今更、藤内に どう思われたいんだろう。


「、行こうかな。」

手首の時計に目を落としてすっと姿勢よく立つ藤内の動作を目で追ってから、私もゆっくり立ち上がる。寒さがいっそう体に突き刺さった。

「うん。」
「偶然会えて、よかったよ。」
「本当にね。」

そこでまた、と口にしていいのか、さよならを告げてしまっていいのか、
判断がつかなかった。でもそのせいで生まれた一瞬の静けさが怖くって、

「じゃあ、」

こわくて、終わりを口にした。

「これ、僕の好きな子。」

搾り出した私の別れの言葉をすぐ遮って、すっと目の前に出された待受画面。突然の藤内の行動に頭が追いつかないまま、画面に視線を落とした。携帯画面のなかでかわいい女の子が笑っている。この子知ってる、テレビのなかで、見たことがある。

「アイドル…?」
「そう、ファンなんだ。カメラが好きなんだって。」
「そうなんだ、…っふふ、」
「意外でしょ?」
「うん、すごく意外。」
「なんで好きだと思う?」
「藤内って、こういう感じの顔の子がタイプなの?」
「笑顔が似てるんだよ。」

笑顔が抜け落ちるのが自分でもわかった。ドクドクと胸が波打つ。笑っていると思ったのに藤内が、笑ってなかったから。誰に、の言葉はのみこんだ。ブウ、とカバンがまた振動を伝えて、くぐもった音を私たちの間に落とす。

「ひさしぶりだね、花子。」

言葉が、なにも出てこない。唇が震えて、気を緩めたら目が潤んできそうだ。


「僕と花子と、ずいぶん違う時間を歩いたきたみたいだ。」
「藤内、私、わたしね、ほんとうは…、」

今でも、あなたが、

「電話、」
「…っ」

藤内の目が三日月のように細くなって、形のよい唇が鷹揚な声を紡ぎだす。スローモーションみたいに、ひとつひとつの映像が、私に刻まていく。

「電話、でてあげないと、」

穏やかで、穏やかすぎる。もっと、前みたいに頑固になってわたしを困らせてみせて。
震えてなにも動かない私の肩を、藤内がそっと撫でる。

「変わっちゃったね、花子も、ぼくも。」

あのとき過ごした時間がまた、動き始めるような気になっていた。
その事実を受け入れたくなくて、ずっと知らないふりをしていたかった。
藤内の手が肩から離れていく。もう私に触れることはない白い手が、ジャケットのポケットに消えた。

「ねえ花子、あのとき僕らは、大事な時間を一緒に過ごしたよね。」
「…うん。藤内と過ごしたことは、ずっと私の、たからもの。」
「よかった。それだけでもう、充分だ。」

お別れの笑みを私に見せて、藤内はゆっくり背を向ける。ブウ、ブウと振動音がなりやまない。私は立ち尽くす。ふわふわした気持ちまで、どうやら見透かされていたみたい。
込み上げる想いは見て見ぬふり。まだ、泣かない。泣く前に傍に置きっぱなしだった思い出たちを、沈めてあげなきゃいけない。また温かな親しみをもって引き上げる時まで。


あのときの、藤内とわたしが、いつまでもいつまでもいつまでも、笑っていられるように。

(Fairytale, song by buz/zG)
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