小説 | ナノ


きいん、と高い音が耳を抜けていく。
暴風で暴れまわる髪の毛を申し訳程度に手で整えながら、わたしは階段下に広がるグラウンドを見た。夕方色の景色のなかで、白いユニフォーム姿の野球部員が駆け回る。きいん。
高い音は、空気に綺麗に乗っかりすぎる。耳慣れない周波数の音がわたしの全身をつんざいた。耳障り、だ。
やっぱり、図書室に帰りたい。しずかであったかい、わたしの場所。でも、もう放課後のあの空間には、

きいんと耳に反響する音の不快さが、おおきな悲しみを連れてきた。わたしは、今日ふられたんだ。いたい。心臓の奥の奥が、苦しい。



「ごめん、」



最初は、聞き間違いだと思った。
けれど不破くんの表情が強張って痛い沈黙が流れだしたから、わたしはこれが事実なのだと、わたしは受け入れられなかったんだ、と理解した。どうやって地に足をつけているのかわからなくなって頭がぐわんぐわん痛みだすなかで、やっとわたしは、そっか、と吐き出した。不破くんはそこから動かず俯いて立ったままだったから、仕方なくわたしは動かない全身に最後の力を使って呼びかけて惨めに踵を返した。走ったら余計に惨めになると思ってよろよろと歩いた。不破くんは、結局それから何も言ってはくれなかった。
自惚れていた、と思う。わたしはいわゆる可愛い子の部類に入っていると思うし、それなりに目立つ存在であるはずだ。成績だって、悪くない。中の上は絶対にキープしている。ふまじめに見られがちだけど意外とまじめだし、先生からの信頼だって厚い。全体的にひっくるめて優良物件。告白されたこともそれなりにあるし、好きになった子にこんな風に断られたことなんて、

ずるずる悲しみを孕んで重くなっていく体を引きずるのもそろそろ限界で、誰もいない女子トイレの個室に駆け込んで、泣いた。こんなふうに惨めに泣くことになるなんて思わなかった。言わなければ、よかった。そうすれば温かい不破くんの優しさに包まれて毎日を過ごして、小さな痛みを抱えていくだけで済んだのに。ぼたぼたと、涙が落ちる。いっそ全身から涙が流れてわたしの悲しみ全部、きれいさっぱり洗い流れたらいいのに。




あの日から三日経ったけれど、不破くんとは顔を合わせていない。もともとわたしが図書室に通いつめて会っていただけだから、そうなるのも当然だろう。不破くんはきっとわたしをただの本好きの女の子だと思っていたに違いない。でも実際わたしは不破くんに会うために熱心に図書室に通っていた、よくいる打算的な女だったのだ。
不破くんは裏切られたと思っているのかもしれない。あの「ごめん」にはそんな意味がにじんでいたのかもしれない。それらは全て憶測でしかなくて、実際わたしが聞いたのは不破くんの「ごめん」だけだから何もわからないのだけれど。嫌な考えばかりが浮かんでは消える。
それにしても「ごめん」の言葉っていうのはいたく便利だと思う。全部言いたいことを凝縮してくれている上に丸く収めてくれているからだ。わたしがどうして受け入れられないのか、どうしてダメなのか、そういうことは全部すっとばしてただ答えは明確で、しかもご丁寧に申し訳なさまで出してくださって。…ああ、わたしも多用していたくせに、自分が使われてみるとその謝罪のウソ臭さが、吐き気がするほどに気持ち悪い。

呪文のような先生の声が頭に入っては見事に抜けていく。今は、何の授業だっけ。それさえも一瞬わからなくなる。わたしの思考は鈍くなり、一向に働かなくなってしまったようだ。

一体どうしたらわたしはこのどん底から脱出できるんだろう、そもそもわたしは、脱出できるんだろうか。ふられたから終わりです、なんて簡単に踏ん切りつくわけないし、わたしはまだまだ不破くんが好きだし、ふられてもなお会いたいとか、顔がみたいとか思う。こんなに辛いのに、だ。わざわざ辛い道をわたしは選ぼうとする。
もしも友達にこんな子がいたとしたら、そんな先の見えない恋愛はやめてしまえ、と忠告するのだろう。でもきっとそれは、実際の痛みを知る当事者じゃないからこそ言える言葉なのだ。きっと悲しみの感情っていうものは知識を蓄えるたび徐々に遠くなっていく。遠い遠い国が想像のなかでしか見えないみたいに、わたしたちは無意識に偽物の感情を創りあげて体を鈍化させて。そして本物の痛みを知った時に、そのあまりの辛さを前にただただ愕然とするんだ。今の、わたしのように。
だって、そこらじゅうにありふれてて誰もが経験する感情だといっても。悲しみは、そう簡単に乗り越えられるものじゃないんだから。

む、り、だ、

そうノートに書いた自分の字がまさに今のわたし表しているみたいに、弱々しくて頼りなくみえる。そう、無理、乗り越えられるわけ、諦められるわけない。こんなに好きなのに。優しいあの声と、笑顔と、雰囲気と、わたしを呼ぶ姿。何度思い返したかわからない。わたしは不破くんが誰よりも、好きだ。

"ごめん"

あのごめん、の中身。隠された不破くんの気持ちを知りたい。わたしに少しでもチャンスはあるのか、どうすれば付き合ってくれるのか、お試しでも無理なのか。目も当てられないほど惨めだけど、ここまできたらどこまで惨めになったって変わりはしないんじゃないか。これまで積み上げてきた優良物件の肩書きなんて、不破くんに受け入れられなかったらまるで意味がない気さえする。
ああ体とまぶたが、ひどく重いな。

「先生、」

ゆっくりとあげた右手と同時に、久しぶりに発した声が少しだけうわずった。間に入れた咳ばらいが、我ながらわざとらしいな、と思う。

「気分が悪いので保健室に行かせてください。」

しれっと嘘をついて席を立つと、先生、友達、誰もがわたしを心配の眼差しで見つめてきた。少しの優越感と、罪悪感、すぐにそれらは悲しみで覆い隠される。

それにしても行き当たりばったりの嘘も誰にも何も疑われないなんて。さすが、優良物件だ。





ドアをノックして保健室に足を踏み入れると、見慣れた白っぽい空間が目の前に広がる。

「新野センセイ、」

軽く呼びかけてから、机の上にある「出張中です」と書かれた置き手紙に気づいた。ああなんだ今日はセンセイ、いないんだ。

「どなたですか。」

そう思った直後、部屋の奥からセンセイではない誰かの声がした。書類を抱えながら顔を出したのは、有名な保健委員長。顔は整っているけど、先輩の唯一にして最大の欠点である不運のおかげで人気はいまひとつといったところの、善法寺先輩。

「うわっ」

早速お決まりの声がした。わたしの目の前で善法寺先輩がバランスを崩し、先輩の持っていた書類がバラけて舞いだす。意味もなく伸ばしたわたしの手は何も掴むことなくそのまま宙をきる。ばらばらと落ちていく白をわたしは茫然とみつめた。





「ごめんね、体調が悪くてここに来たのに、書類拾うの手伝ってもらっちゃって。」

善法寺先輩は眉を下げて申し訳なさそうに、ベッドに腰掛けたわたしの前に座った。書類をいくらか拾ったくらいでそんな低姿勢にならなくても。思いながら、わたしはふるふると首をふる。

「それで今日はどうしたの?風邪?」
「なんだか、気分がすぐれなくて。」
「それは…いけないね。痛いところはない?熱っぽいとか。」
「いいえ特には。吐き気がある、くらいです。」

難しそうな顔で考え込む先輩に嘘をつくのは少しだけ心苦しい。でも、よくよく考えれば嘘じゃない。あの日から気分は酷いし、あまりの辛さに吐き気がしたりする。ただ、それが薬で抑えられるような病気のせいじゃないってだけ。

「花岡さん、だね。」

わたしの書いた病状カードの名前欄をなぞりながら、善法寺先輩はわたしに語りかける。

「気分が落ち着くまでベッドで休んでいきなよ。」
「そのつもりです。」
「僕はこれで授業に戻るけど…いい?無理は禁物、僕が許さないよ。」
「わかりました。」

満足そうにわたしに笑いかけ、善法寺先輩は走って保健室を出ていった。それからすぐにまた悲鳴が聞こえた気がしたのは、気のせいであってほしい。
わたしの仮病なんかまで真剣に心配してるし、本当に不運なひとだな。そう思いながら静かになった空間で布団に体をうずめる。新しいシーツの匂いが鼻孔をくすぐった。まっさらな匂いがする。今のわたしから一番遠い匂いだ。
ここで寝て、少しだけでも綺麗な自分になったら。もう一度不破くんに会いに行けるかもしれない。

諦めるの選択肢なんて微塵も持たない自分が、なんだか不憫で笑える。わたしの意識はそこで途切れた。




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