小説 | ナノ


つい、この間。
何も考えずに私はこの教室にはじめてやってきて、時友先輩に会ったのだ。
それはもうずいぶんと昔のことであるように感じる。


これまでの記憶と天井下の景色を重ね合わせながら、私は二年い組前の廊下をこっそり通り過ぎた。そのまま向かうのは、二年は組の教室。


耳を済ませると声が聞こえる。まだ授業をしている様子にほっとして、私は二年は組の教室の前にそっと降り立った。

今日はいつもよりも早い時間にやって来た。時友先輩はここにいれば会えるはずだ。



暫く待っていると教室が騒がしくなりだした。授業が終わったんだ。目の前の戸を見つめながらすこしだけ身構える。
そろそろ、いつもの時間―

そう思った矢先、教室の戸が開いた。

「…あ、」
「時友先輩、」

出てきたのは時友先輩だった。
先輩は凄く驚いたらしく、暫し固まっていた。そしてにこり、と笑う。いつもよりも、すこし引きつって。

「よくわかったね、僕が、は組だって。」
「はい。乱太郎に聞きました。」
「そっか…」
「時友先輩。」
「場所、変えようか。」

こころなしかすこし早口で先輩は私の言葉にかぶせてきた。私はというと、ずっと緊張していた。時友先輩の態度が、いつもと違うから。






「三回目の、会合ですね。」

少しでも場を柔らかくしようと下らない冗談を飛ばしてみても、時友先輩は悲しそうに笑ったままだ。

「花岡ちゃん、ごめんね。もう分かっているんだよね。」
「せんぱい、」
「僕は、花岡ちゃんが好きだよ。」
「っ、」
「それも、ずっと前からね。」


話したことは一度だってなかったけれど。いつでも一生懸命で明るくて、どこか不安定な花岡ちゃんが気が付けば好きだった。
他人との軋轢に悩んで、正解を見つけるために走り回る花岡ちゃんが綺麗だと思った。

いつだって花岡ちゃんを探していた。


むず痒くなりそうな言葉ばかり並べられて、耳まで赤くなってしまいそうだった。そんな風に見られていたなんてこれっぽっちも知らなかった。

「予想外だったよ、花岡ちゃんが天井裏から現れた時は。あの時はちょうどい組で三郎次たちを待っていたんだ。」
「時友先輩、あの時私を名字で呼んでくれましたね。ずっと知っていたなら合点がいきます。」
「そう。名字言った後でしまった、と思ったよ。」

先輩の顔は段々と柔らかさを取り戻したようだった。いつもの時友先輩だ。
時友先輩は尚も話を続ける。

「あの時、花岡ちゃんに三郎次のファンだって言われても、不思議とショックじゃなかった。確かにいい奴だしなあ、と思っていたんだ。寧ろ、三郎次に気使わせちゃって申し訳なかったな。三郎次は僕が花岡ちゃんを見ていたこと知っていたから。」

ふわりふわり不安定に漂っていた疑問たちが、ぴたりと私の認識となってはまっていく。

「そう、だったんですね。」

時友先輩に対する自分の気持ちがどうなのか、そこまではまだ考えられそうにない。
それでも私の中の霧が完全に消えていくのがわかった。
三郎次先輩のやさしさと、時友先輩のやさしさと私のやさしさ。結局みんな大切な人に優しくなりたくて、やっぱりそれは全部同じなのだ。

ずいぶん遠回りしたけど、これで、やっと。



「花岡ちゃん、ごめん。」

そこで時友先輩が突然頭を下げて謝ってきた。
その顔は上がらない。

「な、なにがですか。」
「僕はきみの優しさの理想にはなれない。きみが好きで、きみに笑って欲しかった。ただそれだけなんだ。僕の花岡ちゃんへの優しさは優しさであるけど決して成るべきものじゃない。本当は何も僕は偉そうなことなんて言えない。」

私はただ焦っていた。
私には何も時友先輩に謝ってもらうような理由はない。何も知らずに先輩を振り回していたのは私で、先輩から沢山の優しさを受け取ったのも私で、とっても大切なことを教えてくれたのは先輩なのだ。

「先輩、時友先輩、謝らないでください。」

先輩が少しだけ顔をあげた。そこにいつもの穏やかさと余裕はない。

「私、時友先輩にしてもらってばかりなんです。ぜんぶ先輩から答えを教えてもらったんです。ほんとうに全部、先輩のおかげなんですよ。私、時友先輩を大切にしたいし優しくしたい。好きだから。だから…私の好きな人、あんまり悪く言わないでください。」

その好きが、時友先輩が私に言う好きと同じなのか、はたまた私が三郎次先輩に言う好きと同じなのか、自分でもよくわからなかった。ただ、私は時友先輩が大好きで、先輩に笑ってほしくて、優しくなりたかった。
それだけは、確かなことだった。

一瞬泣きそうな顔をして、時友先輩はやっと笑った。

「ほら、やっぱり花岡ちゃんはやさしい子だ。」










「今日は三郎次先輩をゲストにお招きしての…三郎次先輩ファンクラブ第4回目の会合です!ぱちぱちー!」
「お前テンション高すぎだろ…引くわ…」
「今日もストレートなご意見ありがとうございます。」
「四郎兵衛、なんとかしろよ。」
「僕も一応ファンクラブ会員だからねえ。」
「さて、ファンクラブ会員3号候補の方も今日はいますよ〜」
「ちょっと花子ちゃん。勝手に候補にしないでくれる?僕聞いてないけど。」
「乱太郎、そんなこと言って。いつも意地悪されているけど、でもそのわかりづらい優しさがいいんでしょ。ね?」
「まだ入るんだったら時友先輩ファンクラブがいいよ。なにが悲しくて三郎次先輩を崇めなきゃいけないのさ。」
「おい乱太郎。」
「…ダメ。時友先輩ファンクラブはダメ。」
「何それ…いや、入る気なんてないけど。」
「ダメなものはダメなの。時友先輩は私だけなの!」

そう言ったら、みんなが瞬間硬直した。時友先輩に至っては全身真っ赤っかで、湯気が出ている。
あ、れ?私いま、なんて…?

「ぼ、僕ちょっとか厠に行ってくるっ…」

慌てて走っていく時友先輩を見ながら、私は自分の言った言葉の恥ずかしさに負けじと赤面する。

「すげー殺し文句…」

ぽつりとつぶやいた三郎次先輩の意地悪そうな声で私はさらに顔が上がらなくなった。
きっと三郎次先輩は、やれやれといった風で呆れたようにこちらを見ていて。乱太郎はみんなわかったような顔をして微笑んでいるに違いない。

なんだ、もう。
やっぱりいちばん遠回りをしているのは私らしい。



「いってきます…」

ぼそり言葉を落として私は立ち上がる。
不甲斐ない自分に苛々しつつ、はやる気持ちを抑えて、私は時友先輩を追いかけた。

(やさしいあなたが、すきなのです)
Fin.



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