小説 | ナノ


次の日、時友先輩は傷を作って私の前に現れた。

「時友先輩!その傷…」
「あ、これね、昨日の委員会中に木の枝で切っちゃって。走るのに必死で気がつかなかったんだよ。」

腕をさすりながら時友先輩はなんでもないように言うけど、その包帯の巻き方からして軽症には見えない。

「無理、していませんか。」
「してないよ。どうして?」
「だって…。」
「まーだお前はそんなこと言ってんのか。」

わざと大げさにため息をついて、三郎次先輩はあきれたように私を見た。

「四郎兵衛、コイツ俺のファンとかいうくせに、昨日は時友先輩が時友先輩がってそればっかだったぜ。」
「ええ?」
「だ、だって、だって…」

もどかしい。何もかもがもどかしい。
理解できたと思ったことが実は全く理解できていなくて。私はまた、スタート地点に帰されてしまったんだ。一体、どうすれば、どう歩いていけば正しいというのだろう。

だっての先が続かずに、私はそのまま口をつぐんだ。言葉っていうのは肝心なときにぴったりと感情を表してはくれない。

「…花岡ちゃん、今日これから空いてる?」

私の言葉をすくいあげるように、時友先輩はいつものように優しく私に語りかけてくれる。

「あ、はい。」
「じゃあ、天気もいいことだし、三郎次ファンクラブ第二回目の会合を開こうよ。ね、外に行こう。」

そして私は泣きたくなるほど切なくなりながら、その優しさに甘える。
ゆっくりと動き出した、柔らかくなびく先輩の髪の毛の後をしっかりと着いていった。






「花岡ちゃん、何か悩みがあるのなら言ってごらん?」

風が夜に向けてつめたい匂いを運んで、私たちの間をすり抜けていく。

きっとそう言われるであろうと思っていた。
また変なもどかしさに襲われて、ぎゅっと拳を握った。本当は時友先輩に言いたいことも聞きたいことも山ほどある。それでも、相変わらず私の思いは言葉にならない。

「言いたくなかったら、いいんだけどね。」

時友先輩は、私の横でごろり横になり伸びをした。
今日は良い天気だねえとひとりごとみたいに先輩は、何も言えないままの私の隣で呟く。
私も一緒に横になって、寝そべって伸びをして時友先輩のほうを向いて、ほんとうですねえ、なんて言って笑いたかった。抱えている悩み事なんてすべて投げ出して、いまの時友先輩といる時間をゆったり過ごしたかった。
でも投げ出して、本当に楽になれるだろうか。その答えはノーだ。そう思うからこそ私は、ただ足を折りたたんでこの場でうずくまる。うずくまって答えが出るのかと聞かれればそれもまたノーと答えるしかないのだが。
結局のところ私は何をしたいのかわからないだけなのかもしれない。

「花岡ちゃん、花岡ちゃんには僕が無理をしているように見える?」 

先輩は先ほどと何ら変わらない様子で空を見あげている。私は、なにも答えなかった。

「僕は無理なんてしていないよ。我慢しているように見えたかもしれないけれど、僕はただ大好きなこの世界で、勝手に大切なものに優しくしたいだけなんだよ。わかるかな。」

私は、

「そんなひと、いるわけ、ないです。」
「いるんだなあ、ここに。」
「どうして、ですかっ」

わたしには

「そんな風になれるんだったら、私だって、なりたかった。でもっ」


無理だったから。

ずっとずっと優しい人間になりたかった。
誰かのために生きる自分が好きで、そんな自身を誇らしくさえ思っていた、のに。
ふと振り返ってみれば結局私は理想になりきれていなくて。勝手に他人に期待したり失望したりを繰り返していくうちに…いつからか優しさに疲れてしまった。そう自覚した途端ぼろぼろと無理が剥がれ落ちていった。
そんな自分にますます嫌気がさして、理想とのギャップに酷く苛ついて。

すきだった優しい「自分」が、偽りにしか見えなくなってしまった。


「私、池田先輩が、まぶしかったんです。」
「うん。」
「偽りの優しさなんか持たずに、まっすぐに行動して、まっすぐに相手にぶつかる。私は、きっとこうあるべきなんだって思いました。これが優しさなんだって。」
「うん。」
「だから、私のあきらめたものを持っている時友先輩が少しだけ、怖かった。」


優しすぎる時友先輩は、私の憧れ、そのものすぎた。一度否定した私の憧れが、そこにはあったのだ。さらに時友先輩は無理なんてしてないなんて言う。そんなことがあるはずない、と思いたかった。
やっと見つけた道標を見失うことがこわかったんだ。


「優しくならなきゃならなきゃって思う必要なんかね、ないんだよ。だってもう花岡ちゃんは僕なんかを気遣ってくれるやさしい人じゃないか。」

耳に入るのはやわらかな言葉。そしてつるりと肌を滑ったのはどうやら私の涙らしかった。頭の奥と鼻先にじいんと沁みる違和感が、私の思考を鈍くする。

「いいことを教えてあげる。君の周りには大好きな人がたくさんいるでしょう。実はその人を大好きだと思うだけでね、人って不思議なことに優しくなれるんだ。」


だいすき、で?
ぼんやりしたまま時友先輩の視線の先を辿ると、落ちかけた太陽が輝いていた。目に一瞬で焼きついたそのあまりの眩しさに、また涙がこぼれた。

「眩しいね。きれいだね。」
「は、い。」
「花岡ちゃんの周りには本当は眩しいものばかりなんだよ。肩を張らずにそれを見るだけでいい。何も心配することなんてないよ。花岡ちゃんは眩しいものを追いかけて、時には悲しくて泣いて、我慢できなければ怒る。そんなふうに大事なものを大切にするだけでいいんだ。ね、とっても簡単でしょ。」

先ほどから滝のごとく目からこぼれ落ちる涙のせいで、伝った顎からはぽたりぽたりと滴が垂れ続ける。この涙は一体何の涙なのだろう。何が悲しくて、何が嬉しくて私は泣いているのだろう。
時友先輩はきっといつもみたいにやさしく、私に笑った。それは逆光で、うまく見えなかったけど。

確かにその答えは悩み続けた私にとって、とても簡単なものであるように思えた。混沌としていた世界からさあっと渦が消えていく。とても、あかるいと思った。
なんだかうまく人と私にやさしくなれそうな気がした。

「三郎次も、きっとそうだよ。だから、花岡ちゃんもそうすればいい。」
「時友先輩みたいにも、なれますか。」
「ん…」

そこで初めて、先輩は戸惑いをみせた。

「花岡ちゃんは僕になんてなる必要はないよ。僕は、花岡ちゃんの優しさの概念にして欲しい。」

訥々と優しい言葉で呟く先輩は
それにしたって、優しすぎる気がした。


(かんせいは、まだ先みたいだ)





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