小説 | ナノ


(たとえばわたしが完璧な人間になれたとしても、)
(完璧にやさしいひとには絶対になれない自信がある。)

無意味な言い争いだった。すっかり消耗してしまった体を投げ出し、改めて疲れてしまったのだ、と思った。これがわたしの、やさしさの限界なのだと。
そしてゆっくり理解した。いくら取り繕ってもいちばんはいつだって自分で、所詮わたしのやさしさは皮いちまいのぺらぺらなうわべでしかないってこと。


私が三郎次先輩に会ったのは、そんなときでした。




*




「決めた!今日こそ三郎次先輩に存在を知ってもらう!二年生の教室に忍び込む!」
「花子ちゃん、やめたほうがいいと思うよ。やっぱり遠くで見るだけにしといた方が落胆が少なくて済むしさ。」
「失礼ね乱太郎!落胆なんて、しないよ。だって私は池田三郎次先輩ファンクラブ第一号だもの!」
「あんなに意地悪だって説明したのに…どうしてまだそんなこと言っているの。」
「だってあんなに素敵な三郎次先輩が意地悪なわけない。信じられない。」
「だめだこりゃ。」

大げさに乱太郎は溜息を吐いてみせた。

「実際に目で見てくればいいよ。僕は知らないよ。」
「もう、乱太郎までユキさんとかとおんなじこと言うんだから!頑張ってね、とか言ってよね!」
「はいはい頑張ってね。」
「ちょっとお…。」

いいもん。いいもん。本当に行くんだから。


乱太郎と別れた後、私は早速天井裏にこっそり忍び込んだ。
薄暗いそこはかび臭いような臭いが充満している。でも思ったよりも埃っぽくはないようだ。ええと、二年い組の教室は、こっちかな。
音を立てないように注意しながらそろりそろり足を進める。

(ここだ。)

なんとか到着し、光の漏れた穴から下の様子を伺った。しかし人の姿は確認できない。
誰も、いない?

「…誰かいるの?」

誰もいないことに少しだけ気が緩んだ、その瞬間に誰かの声が聞こえたてきた。それは確実に、私に向けられたものだ。心臓が跳ねる。

…どうやら早速バレてしまったみたいだ。まあいっか。元から顔は出すつもりだったし。

「はい、います。」

返事をして天井から顔を出すと眩しさに目がくらんだ。
なんとか重いまぶたを動かして教室を見渡してみると、さっきは気がつかなかったが青色装束を身に付けたまん丸目の忍たまがひとりいた。どうやら、声の主は彼のようだ。
その人は口をぽかんとあけてこちらを見ていたが、やがて目を細めてにこりと笑った。

「くのたまの子、だね。どうしたの?こんなところにそんな所からわざわざ。」

その優しい口調と和かな笑顔に安堵して張っていた気が緩んだ。そのまま天井から教室に下りたつ。よかった、優しそうなひとで。

「あの、池田三郎次先輩に会いにきたんです。」
「三郎次に?」
「はい。」

そう言うと目の前の先輩は少し眉を下げた。

「三郎次は、今いないよ。多分いま実技演習の片付けをしてると思うんだけど。」
「…そうですか。」

せっかく来たのに。タイミング悪いなあ私。

「何か、伝言?僕で良ければ受けておくよ。」
「あ、い、いえ。大したことじゃ、」
「そう?」

穏やかな表情で先輩はこちらを見つめてくる。それにしてもなんて柔らかく笑う人なんだろう。絶対にいいひと、なんだろうな、この人は。
…そうだ。

「あ、あの。」
「なあに?」
「私、実は三郎次先輩のファンで!」
「へ?」
「それで今日、ちょっと近づいてお話できたらなーなんて思って来たんです。でも今日は会えなかったので、また明日来ます!だから…先輩、それだけ三郎次先輩に伝えてもらえますか?」

恥ずかしかったけど、せっかく良い人に会えたんだ。伝えてもらわない手はない。
先輩は丸い目をじっと開いてすぐに優しく微笑んだ。

「いいよ。伝えておくね。」
「ありがとうございます!…えーっと、」
「僕は時友四郎兵衛。」
「時友先輩、よろしくお願いします。」
「はいよ。じゃあ花岡さん、明日も今日と同じ時間にここにおいで。」
「はい!」




(乱太郎!ただいま!)
(ホントに行ってきたの。ちゃんと幻滅してきた?)
(あのね、三郎次先輩には会えなかったけど、すてきな先輩に会えたよ!)
(その先輩にしたら?)
(何言ってんの!)

(やさしさの、はじまり)




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