小説 | ナノ

会いたいな、と思ってた。
しあわせなはずなのに、奥の奥のほうで苦しくて、ぜいたくな悩みなのに我慢できない。しかめっ面を思いだして、さらさらの髪の毛に触れたいと思って、細い指先に触れられる自分を想像していたら、もういてもたってもいられなくて布団を出てしまった。
ひたひたと忍び足で廊下を歩く。あてはない。足先はつめたいし、静まり返った学園はどことなく不気味だけど、でもここに左近はいる。わたしもいる。だから歩く。自然と向かう先も決まって、冷たい夜の音が寒さに乗って聞こえてきた。足取りは重くない。
保健室は当たり前だけど夜もそこにあった。暗い空間はいつもと違う匂いがして、それがまた新鮮だ。昼間わたしと左近のいた空間を守るみたいに眠っているようで少し嬉しい。扉にもたれてみると、背中がひんやり冷たくなった。その冷たささえ愛しかった。朝が来たらまた目覚めて、ここにいるわたしと左近はつながれる。
さこん、とつぶやく。夜の音とまざった。会いたいな、とつぶやく。不気味なしずけさに消える。
左近もわたしと同じ気持ちで、会いたいな、と思ってて、いてもたってもいられなくて、ここに来るかもしれない。もしかしたら昨日左近はわたしみたいにこの場所で、誰にも知られずわたしへの愛を囁いたかもしれない。なんて、ね。そんな期待未満の期待はもちろん期待に終わっているわけだけど、それが愛しくてたまらない。左近はわたしへの想いを募らせて、今溜息を吐いているだろうか。それともわたしのことなんて気にも留めていないだろうか。わからないけど、わからないのがまた愛しいのだ。
横たわるつめたい空間で夜に耳を傾けて、ぜいたくな悩みの狭間、ふかふか浮いていたい。

「あ」
「え」
「花子?なにやってんだよ。」

夜の音は消え去った。悩みも忘れた。ぬっと湧いたように現れた左近に、わたしは言葉を失った。
左近は夜間着に身を包み、さらさらの前髪と後ろ髪を垂らして立っていた。失いものだらけで放心したわたしに近づいて、そっと肩を掴む。

「おまえ、こんなに体冷やして…!いつからいたんだよ。早く床につかないと風邪引くだろ。」
「ごめん、なさい。」
「眠れなかったのか?」

暗がりでわたしを見つめる左近を前にして、わたしは感情に揺すぶられたまま首をふった。苦しいよ、嬉しいよ、

「左近のことを考えてたよ。」
「…なんだそれ。」
「ねえ、左近はどうしたの?」
「…厠、のついで。」

わたしのとなりに腰かけた左近の指が、そうっとわたしの手に触れた。わたしはそうっと触れた手を重ね合わせる。わからない愛しさが、ひとつ繋がった。しずかな夜の音が響いている。

夜の声がしたよ

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