小説 | ナノ

私はぜんぜん知らなかった「美術部の夢前くん」と随分話すようになったと思う。彼はふらりとこちらにやってきては、穏やかな微笑みを常に湛えて違和感なく私たちの会話に混ざった。

「夢前くん。さっきの授業のノート見せてもらってもいい?笹山に見せてもらおうと思ったら笹山も寝てたらしくってさあ。」
「まるで僕が悪いみたいな言い方だけど、だいたい花岡こそ寝てたからノートとれなかったんでしょ?」
「はいはい、すみませんでしたあ。」

夢前くんがくつくつ笑って「相変わらず仲がいいねえ。」なんて言いながらノートを私に差し出してくれる。

「ありがとう。写させてもらうね。」

パラパラ早速ノートをめくると、綺麗にまとめられた図と丁寧な字が顔を出した。

「わあ…夢前くん、ノートも綺麗だ。」
「そうかな…」
「うん。とっても見やすいもの。」
「花岡さんにそう言われると嬉しいよ。」

さらりと、称賛の言葉に感謝できる人は凄いと思う。こっちが褒めたのに、褒め返されたような気分になるからだ。お礼をすればまた凄いお礼で返されてしまうような、嬉しい申し訳なさみたいな感情でいっぱいになる。私は、またひとつ夢前くんの凄いところを発見してしまった。

複雑な気持ちで、私は愛想笑いを浮かべる。

夢前くんと話すたびに、彼が私の中でどんどん手の届かない位置に行ってしまうような感覚に陥る。沢山のすごいは、沢山の比較に繋がって、私と夢前くんの距離を広げてしまう。近づきたいのにちっとも追いつける気がしない。
私たちはよく喋るようになっただけで、実際はふよふよ浮いた不安定な関係のままなのだ。



「花岡、俺の分もよろしく。」
「嫌だよ。なんで笹山の分まで書き写さなきゃいけないの。」
「バーカ、花岡がやるのはノートのコピーだよ。もちろん三ちゃんのノートの。」
「腹っ立つ!」

ああこの隣の席のひねくれものをどうしてやろうか。ムカムカムカムカ。その綺麗にカットされた前髪をむしってやりたい。うん。やりたいと思うだけなら笹山には伝わらないし問題ない。しかしこんな思うだけの抵抗しかできないとは、なんと私のかわいそうなことか!

「花岡さん。眉間にシワ、よってるよ。」

その夢前くんの柔らかな声に反応し、はっと我に返った。

「あ、ほんと?」
「うん。兵ちゃん、女の子を使いっ走りにするのはよくないよ。」
「…へいへい。三ちゃんに言われちゃーなあ。おい、花子。コピーするんだから早く写せよ。」
「笹山くんお口の聞き方を夢前くんに習った方が…」
「は?」
「なーんでもありませーん。お先にコピーしてきて下さーい。」

へへーっと時代劇さながらに夢前くんのノートを差し出すと笹山は悪代官みたいな悪そうな顔で私からノートを引ったくって教室を出ていった。文化祭のクラス演劇はきっと笹山を悪役に推薦してあげよう。

「ねえ花岡さん、今週末暇かな。」

笹山の出て行った扉を睨みつけていたらまた柔らかな声が降ってきた。今度は意外な発言を携えて。

「え?今週末?」

私の質問返しに夢前くんはこくりと頷く。それは、つまり、どういうことだ。これが笹山であったのなら、デートのお誘い?笹山はちょっと…なんて冗談を飛ばせるのだけど、夢前くんであるから話はまったく別だ。たぶん私は夢前くんを凄いとは思うけどよく掴めていなくて、それだからこそ何を話せばいいのかわからないのだけど、夢前くんは違うのだろうか。きっと彼も私を掴めていないはずなのだ。ふよふよお互いに漂って線を引いているのがわかってしまうから。
人は、よくこの感情を苦手と表現する。

どうして、夢前くんはそんな私にありきたりなお誘い文句を投げかけたのか。

「うん、暇だよ。」
「ほんとう?実はその日高校生の美術展があって、僕の絵が飾られるんだよ。見に来て欲しいんだ。」
「…私に?」
「うん。花岡さんに。」

やっぱり、夢前くんの考えは読めない。
でも美術展は魅力的だったし、何より夢前くんの絵を見たいという気持ちはあって私はとりあえず頷いた。





桃色と淡いブルーのチケットをひらひら指先で遊ばせて宙を泳がしてみる。
夢前くんは、私にどうして構うのかな。人の感情には比較的敏感なつもりだけど、あの柔らかな笑みからは、何も感じ取れないからわからない。感情を読み取れないから私は彼に踏み込んでいけないのかもしれない。

夢前くんは私の絵を好きだと言った。それが多分、夢前くんが私に構う理由として一番有力なんだけど、一番有力なのに全然それが正解である気がしない。気に入ってくれたことは本当かもしれないが、夢前くんからすればただの、言ってしまえば落書きみたいな絵を描く私を美術展にまで誘って夢前くんは私に何を期待しているのだろうか。…友達としての第三者的意見か、義理か。
全くもって、夢前三次郎とは難しいひとだ。


笹山を一応誘ってみたら案の定断られた。

「僕が美術展に行くと思う?しかも、花岡とふたりで。」

うん、ごもっとも。

「それに僕はそこまで、空気読めない奴じゃないから。」

その発言はよくわからなかった。いやいや私たちの微妙なぎこちなさを一番傍で見ているのはあなたでしょ。むしろ来た方が読めてるよねS山くん?




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