小説 | ナノ

ぼんやり浮かぶ光が揺れる。気持ち広げた半開きの口からは、吐息が漏れていく。

子供連れの夫婦がわたしの前を愉しそうに通り過ぎた。それを合図にわたしはゆっくりと体を回す。どこも当たり前だけど薄暗くて、主役の水槽だけが光と彩りを持っていた。

「すげー。」


川西がぼそりと呟いた。独り言なのか、わたしに向けて話しかけたのかどっちかなのかはわからなかったから、こくりと頷いてだけみた。ガラスに顔を近づけると表面が呼気でうっすら白く曇る。
横に居る川西の顔はぼんやりと照らされて、さっきまでよりもはっきり確認できた。黒目がちな目もとは、昔の記憶とリンクする。

「水族館なんて久々に来たよ。」

抑揚なく呟く声も奥深く沈んだ記憶と重なっていく。
そこまで考えていたから、わたしは川西への返事が遅れてしまった。

「…え?そうなの?」
「そう頻繁に来るところでもないだろ。」
「わたしは結構来るよ。年間パス持ってる。」
「…嘘だろ。」

くっく、と川西はわたしをバカにして笑った。わたしの目線が、細くなった川西の目もとをなぞる。

「毎月、この子達が変わらずここに居ることを確認しに来るんだ。」
「へえ。」
「川西は、じゃあどうしてここに一人で来たの。」

わたしは目の前のチョウチョウウオを見つめながら川西へ話しかけた。チョウチョウウオはそんなわたしの問い掛けなんてもちろん気づくはずもなく、黄色い体を翻して私から遠ざかっていく。横で川西が息を吸い込んだのがわかった。

「丁度この近くまで来たから。暇潰しにだよ。」
「へえ。」

暇潰しでわざわざめったに来ない水族館にやってくる人を、わたしは川西しか知らないけど。

と、そんなことを言えるほどわたしと川西は仲が良いわけじゃないので、何も言わずにわたしはただ水面を目指して上昇する泡のむれを見ていた。
川西もただ水槽の中をみていた。たぶん、魚を見ているわけじゃない。川西はなんだかぼんやりしているようだった。きっとそのぼんやりと、川西が水族館にやってきた理由は何か関係しているのだろうと思った。


川西と、高校時代仲が良かったとはお世辞にも言い難い。
それなのにわたしは、川西といま水族館を歩き回っている。きっかけも何もなかった。ただ水族館に入ったときにわたしの目の前に居た人物が見知った顔で、向こうもこちらに気がついて。かち合った視線を離すタイミングを失ってしまったのだ。
無意味に見つめあったわたしたちは、締まりのない挨拶をして、ゆるゆるとそのまま二人で歩き続けている。離れようと思えば離れられるし、話す必要もないのだが。離れる必要も黙っている必要も感じなかった。


「でかいな。」

一面がみずいろに支配された、ひときわ大きな水槽でわたしたちの足は揃って止まった。右から左に、左から右に大きな魚体が流れていく。ぼんやり凝視してくるわたし達を面白がっているみたいに、何度も何度も。

「今日も変わってない。やっぱりここは、ゆったりしてて安心する。」
「ん…」
「ね、そう思わない。」
「僕はさ、正直、水族館がそこまで好きじゃない。」

川西はわたしにそう言った。フリーパスを持っているわたしに言う言葉じゃないだろうとは思ったが、たぶん川西が言いたいのは嫌味でもなんでもなくてただの事実であるようだった。

「今日はそれを、確かめにきたんだ。やっぱりそうだった。ピラルクもエイも凄いしでかいけど、僕にとっては…それだけだ。」

川西の細い指が水槽をなぞる。その向こうで魚たちはいつもと変わらず泳ぎ続ける。
わたしはただただそれを傍観していた。
言葉とは裏腹に、ガラス面に置かれた川西の指先は物欲しそうに魚たちを追っている。素直じゃないなあ、と思った。
そうだ確か川西は、昔から素直ではなかった。見え見えの本音を隠さずにはいられない不器用な人だった。

「いいじゃないそれだけで。」
「よくない。」
「その時感動できれば、わたしは充分だと思うよ。」

全てのことに何かしらの意味を求めるなんて、大変すぎる。
無駄なことは無駄だと思わなければそんなに悪いものじゃないのに。埋もれる記憶には、それなりのよさがあるから。それに川西は、今この時が無駄だなんて本当は思っちゃいないだろうに。

わたしの言葉に返事はせず、川西はゆっくりとまた水槽を移動しはじめた。

―ま、いいけど。

ひとりごちて、またわたしは川西についていく。今度はさっきの水槽とは比較にならないほど小さな水槽がわたしたちの前に顔を出して。


わたしは

その色鮮やかな光景に暫し目を奪われた。



「花岡と今までちゃんと話したことなんてなかったよな?」


その時タイミングよく声がして、不自然に勢いよく首を回してしまった。

ぼうっとしている川西がそれに特に気がついた様子はなかったからほっとした。動揺を隠すように、わたしは言葉をつなげる。

「確かに川西と話した記憶はないね。でも文化祭の準備とか同じグループじゃなかったっけ。」
「そうだったか?僕はほら、授業で一度花岡の後ろの席になった記憶しかない。」
「ああ、そういえば川西にプリント回してたね。」
「うっすいな、僕ら。」

川西が笑う姿が、わたしの目に刻みついていく。

いや本当は、もともと刻みついていた記憶と重なって、
薄らいでいたと思っていた線が余計にくっきりと姿を現してしまっただけだ。


「変なハナシしていーか、」


川西がわたしの方を向いた。目が合った。
それにより浮かび上がってしまったわたしの想いはさらに形を成していく。


「同級生がさ、親友、なんだけど。先日婚約したんだ。」
「そう、なんだ。」
「ああ。」
「おめでたいね。」
「…ああ。でも、なんか、な。うまく整理がつかなくてさ。つーか…」


ちらりとわたしから目線を外した川西の、視線の先なんか見なくてもわかる。

すきじゃないとか、ただ凄いだけだとか。本当に素直じゃない。多分川西は、目の前のものたちに意味を持たせたくないだけなんだ。
鮮やかな色の星たちで彩られた、目の前の小さな水槽には目もくれずに。川西はただずっと後ろの大きな水槽だけを見つめていた。


「ただ、羨ましいのかな。僕は。ったく嫌になるな。」


そう自嘲して、川西はなぜかわたしにごめん、と謝った。
そうして小さな水槽を見ることなくまた歩き出した川西の後を、もう追うことはやめた。
ただずっとわたしは、意地でもそこを動きたくなかったのだ。




わたしが水族館を出た時には、当然川西の姿はどこにもなかった。
そのことがちょっとだけ悲しくて。でも自分の行動を後悔なんかしたくなくてわたしは色々と考えることをやめた。
目を閉じて浮かぶ世界は闇に浮かぶ、あのぼんやりとした水の光だ。ただ、わたしのまぶたに写る映像はでかくてなんだか凄いエイだとかピラルクだとかじゃなくて。

ひっそりとわたしの心を彩った、まるで川西みたいな。海星の姿なのだ。

ビスケットスター

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