小説 | ナノ

※暴力的表現あり、暗い
 


「らくちーん。」

見上げた景色は見慣れた空の色。薄ら暗い雲が斑に広がる。小刻みに揺れる田園風景はいつも見ている位置よりもすこしだけ高い。

「景色が、高いよきり丸。羨ましいでしょ。土井先生の背中。」

俯き加減で歩いているきり丸のつむじに向かって話しかけてみる。それに対する返事は何もない。ただきり丸の結った髪の毛がゆらゆらと歩みに合わせて揺れるだけだ。
会話が止まる。いや。
静かなのはきらい。

「ねえ、きり丸、何か言ってよー」
「大人しく、してなさい。」

私を抱える土井先生がやんわり、やんわりといつも以上に優しい声で私をたしなめた。

「いやです。」

きっぱりと言い切るとそれ以上土井先生は何も言ってこなかった。ただ困っているのだけは、後姿からでもわかった。でもわたし、大人しくなんてできません。
したくありません。

「…言うこと、聞いとけよ。」
「いーやー」

やっと喋ったと思ったきり丸も私を叱りつけるんだから嫌になる。いやだいやだ。
もう。嫌だなあ。

「頬は、痛むか。」

土井先生が後ろを向いたままゆったりと私に問いかけた。


頬―、


言われて意識した瞬間、頬がズキリと痛み出したような気がした。その痛みは、まるで私の奥底までぐんぐん染み込んでいくみたいに奥深くまで入って、私の鈍い痛みになっていく。

「んー…どうでしょうね。」

辛さを隠すように、曖昧に濁した私の返事。

苦しいそれに、土井先生はなんだそれ、と横顔で笑ってくれた。すこしだけ安心した。
痛むような麻痺しているような、よくわからない痛みが止まらないんです。土井せんせい。



「痛いんだろ、」


きり丸の声は先ほどから異様に棘を含んでいた。土井先生の言葉とは正反対の、ただただ冷たい、悲しみを孕んだことば。いや。いや。欲しいのは、そんな言葉じゃない。

「…痛くない。」
「痛いくせに強がんなよ!」
「きり丸っ」

ぴいんと張り詰めた空間は土井先生の一声で収まってくれた。が、代わりにやってきた居心地の悪さは相当のものだ。私たちはまたすっかり無口になって、先ほどからずいぶん長く感じる帰り道を進んでいく。



ぼんやり自分の格好を確認してみた。土井先生に直された自身の着物はどこか不格好に見える。帯はさっき締め付けられすぎたから息苦しいし。どうせ髪の毛もボサボサなんだろう。
でも直す気力がない。口以外、動かす気になれない。あ、また


きもちわるい。


「ねえきり丸、」


私の呼びかけに、きり丸が首をこちらに回して振り向いた。
さっきから変わらない、辛そうな、顔。

ちがう。いやだ。

「私が呼んだ声、聞きとれた?私の声が小銭の音だったらよかったのにね。そうすればきっときり丸もすぐに来れただろうし、」

気持ち悪さを打ち消すためにしきりに動く私の口は、止まることを知らないというように酷い言葉を吐き続ける。ほんとうは、こんなことを言いたいわけじゃないけど。でも でも、


そこで突然、片方の袖が強い力で引っぱられた。


驚きからひゃ、と声をあげてしまう。バランスを崩し、土井先生の背中からずり落ちそうになった体をなんとか立て直して振り向けば。私の袖を握り締めたきり丸は、顔をゆがめて大きな目で私を睨んでいた。

「おまえは俺を馬鹿にしてんのか。」

きり丸の口はふるふると震えていて、どう見ても怒っているように見える。
私がきり丸の手の届く位置に居たとしたら、きっと腫れていない方の頬っぺたを叩かれていたに違いない。持ち上がったきり丸の右手こぶしは明らかに私のために用意されたものだったから。

「ただのっ、たとえ話でしょっ」
「二人とも!黙りなさい!」

苦しそうに声を張り上げる土井先生にもきり丸の棘が伝染したみたいで、隠しきれない悲しみが露呈している。
なんで。だって黙ったら私は何を動かしたらいいのせんせい、
ああもうなんで私、酷い目にあったのに、きり丸にも怒られなきゃいけないの?

「…もう、やだぁ、」

やだよ。なんで私がこんな目に合わなきゃいけないの。
押さえつけられた手、冷たい土、引っ張られた髪、体を這う手の感触は黙ったらすぐに思い出す。
必死にきり丸の名前を叫んだら、頬を打たれた。男の顔が涙で歪んではっきりわからなかったのが救いかもしれない。

だめ、きもちわるい、


そこで耐え切れず嗚咽が漏れてしまった、
と思ったが、それは自身のものではなかった。

「っく、う…」


その声は後ろから聞こえた。同時に、私の腰に温かな何かが触れる。


「っめん、な、おそく、なって、」


鼻をすする音に混じる途切れ途切れのきり丸のことばは相変わらず悲しみに包まれていて。
後ろに感じる小さなかなしみとぬくもりに対して、相変わらずざあざあと流れるわたしの涙は。どこかに行ってしまったわたしを取り戻すためにひたすら流れ続ける。

戻ってこないかなあわたし。
早く戻っておいでよわたし。
だってきり丸がこんなに泣いてる。


「もう、だいじょうぶだ。さあ私たちの場所へ、帰ろう。」

土井先生の声はやさしくて、あたたかい。
すこしだけ戻ってきたわたしの目から、涙がひとつ、こぼれ落ちた。

そうだはやくかえろう。きり丸とわたし。
こわい夢はもうおわりだよ。

早くおかえり

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